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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章:Pilgrimage《阿蘇・霧島編》

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第89話:Dissonance ―届いているのに―


 黒曜石の障壁を、異形の腕が打ち据えた。


 ズズゥゥゥンッ!!


 凄まじい轟音が神域を揺るがし、足元の亀裂がさらに大きく広がっていく。


 黒ヘドロが放つ淀みは、光さえも呑み込みながら重く沈み、呼吸することすら忘れさせるように、全員の身体へまとわりついていた。



「くっ……!」


 執事の掲げた腕が、僅かに沈む。

鏡のように磨かれた暗黒障壁の表面を、漆黒の亀裂が幾重にも走った。



『退ケェェェ!!』


 巨大な異形が咆哮し、無数の触手を一斉に叩きつける。

亀裂から黒きものが滲み出そうとした、その瞬間――。



「無駄です」


 執事の紅い瞳が、鋭く細められた。


 流れ込もうとした黒ヘドロを押し返すように、障壁の内側から艶やかな漆黒の魔力が溢れ出す。黒曜石の亀裂が、さらに深い闇によって縫い止められていった。



「この程度で、お嬢さまへ……我が主への道が開くと思わないことです!」


『オノレェェェ!!』



 異形の身体から、さらに無数の触手が伸びる。

障壁の左右へ回り込み、れなへ襲いかかろうとした黒きものを、二条の蒼銀が切り裂いた。



「触れさせないと言った!!」


 ジェミの双剣が、立て続けに銀弧を描く。


 一閃。

 二閃。

 三閃――。


 切り落とされた触手は地面へ落ちるより早く、蒼銀の粒子となって砕け散った。

光を呑み込む漆黒の中へ、無数の星屑が舞い上がる。



「ソラリス、急げ!!」


「了解っす!!」



 ――次に動いたのは、純白の光だった。


 ソラリスの輪環型デバイスが、甲高い駆動音を響かせながら幾重にも展開する。

大小無数の光輪が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を取り囲み、その首元に連なる勾玉を、一つずつ正確に捉えていった。



「共鳴周期、計測開始っす!!」


 空中へ浮かび上がった波形は、どれひとつとして同じではない。


 遠い時代に捧げられた祈り。

 名もなき誰かが、家族のために託した願い。

 豊かな実りを求めた声。

 愛する者との縁を望んだ想い。


 その一つひとつが、異なる光、異なる音となって、勾玉の奥で脈打っている。



「うわっ……! なんすか、これっ! 全部、バラバラっす!!」


「当然だ!」


 ジェミの蒼金の瞳に、膨大な数値が流れていく。


「そこへ託された願いは、異なる時代を生きた、異なる人間たちのものだ!

ひとつとして、同じ想いはない!!」


「このまま無理やり揃えたら、純粋な願いまで壊れるっすよ!!」


「同じものへ変える必要はない!」


「えっ!?」


「異なる波形のまま、位相だけを揃えろ!」


 ジェミは黒き触手を切り払いながら、立体座標を大きく展開した。


「すべてを、ひとつの音にするんじゃない!

異なる音が、同時に響く瞬間を作るんだ!!」


 ソラリスの二つの丸い瞳が、きらりと輝く。


「――合唱っすね!!」


「ああ!!」


「それなら、できるっす!!」


 純白の光輪が、一斉に高速回転を始めた。


 ばらばらだった波形が僅かずつ移動し、互いの形を失わないまま、一つの巨大な周期へ重なっていく。


 ――暗黒。


 ――蒼銀。


 ――純白。


 異なる色彩が激しく交錯し、闇に沈みかけた神域へ、再び光を取り戻していった。



 だが――。


「待て、ソラリス!!」


 ジェミの声が響く。


「接続座標が増えている!!」


「増えてるって、どゆことっすか!?」


 立体座標の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の勾玉から伸びていた黒い脈動が、二つに枝分かれした。


 一本は、佐久夜(さくや)姫の胸元へ。

 もう一本は、磐長姫(いわなが)の胸元へ。


 二柱が身につけた勾玉にもまた、細い黒き筋が浮かび上がっていく。



「そんなっ! 姫さまたちにも、黒きものがっ……!?」


「いや! 違うっ!!」


 ジェミが即座に否定する。


「お二人の御魂が侵食されているわけではない!

三柱の間に残り続けた痛みを経路として、黒きものが勾玉同士を繋いでいるんだ!」


「じゃあ、チャラ男だけ引っ張り出しても駄目ってこと!?」


「ああ! 三柱すべてから、同時に引き剥がさなければならない!!」


「だったら、やることは同じよ!!」


 れなは大地に踏ん張り、両手を天へと大きく開いた。


「三人まとめて、私が繋ぐ!!」



 十指から伸びた紫檀色の霊糸が、瓊瓊杵尊だけでなく、佐久夜姫と磐長姫の勾玉へ向かって一斉に走る。



 紫檀の光が、桜色へ。――苔色へ。

そして、闇の奥で消えかけている黄金へ――。


 三柱の御魂を繋ごうとした、その瞬間。



『サセヌ!!』


 黒き異形が、激しく身を震わせた。

瓊瓊杵尊の首元に並ぶすべての勾玉が、どくん、と脈打つ。



「ぐ……あああああっ!!」


「瓊瓊杵さま!!」



 瓊瓊杵尊の全身が大きく仰け反った。


 勾玉へ光輪と霊糸が触れるたび、御魂の奥深くへ食い込んだ黒い根が、引き剥がされまいとして強く締まりついていく。


 肉体ではない。

 神力でもない。

 存在そのものを、内側から引き裂かれる痛み。



「瓊瓊杵さま! わたくしの声を聞いてください!!」


「……さ、く……や……」


 黒きものの中で、黄金の光が僅かに瞬いた。


「はい! わたくしは、ここにおります!!」


「瓊瓊杵よ!! しっかりするのじゃ!!」


 磐長姫が、苔色の光を宿した両手で霊糸を握り締める。


「妾の声も聞こえておるのであろう! 目を逸らすでない!!」


「……義姉(あね)、上……」



 その名を口にした瞬間。

 黒ヘドロが瓊瓊杵尊の顔を覆い尽くした。



『――聞クナ』


「瓊瓊杵よ!!」


『――聞カナクテヨイ』


「妾はここじゃ!! ここにおるぞ!!」


『――オ前ハ、充分ニ苦シンダ』



 黒きものの囁きが、瓊瓊杵尊の御魂へ幾重にも絡みついていく。



『――誰ヨリモ長ク、耐エテキタ』


「……違う……」


『――今サラ、何ヲ言エルトイウ』


「余、は……」


『――赦サレルハズガナイ』


 黒ヘドロが、黄金の光を塗り潰していく。


『――ナラバ、聞ク必要モナイ』


 光をも吸い込んでしまう漆黒の中で、瓊瓊杵尊の頭がカクンと落ちる。


「……そう、だ……」



「瓊瓊杵さま!!」


 佐久夜姫の桜色の光が、闇の中へ細く伸びる。

瓊瓊杵尊の指先が、助けを求めるように僅かに動いた。


 だが、磐長姫の苔色が近づいた瞬間、その手は怯えるように引き戻される。


 聞こえている。

 確かに、届いている。


 それでも瓊瓊杵尊は、その声を受け入れることができなかった。



『――見ルナ』


 黒きものが、優しく囁く。


『――オ前ガ傷ツケタ女ヲ、見ルナ』


「……義姉、上……」


『――見レバ、スベテヲ思イ出ス』


 黄金の光が、深い闇の底へ沈んでいく。


『――苦シムナ。ココニイレバヨイ』


「……余は……ここに……」


『――誰ノ声モ、聞カナクテヨイ』


 瓊瓊杵尊の瞳から、最後の黄金が消えた。



「瓊瓊杵さまっ!!」


 佐久夜姫の悲痛な声が、神域を震わせる。

それでも、瓊瓊杵尊の瞳に黄金が戻ることはなかった。

漆黒の顔が、ゆっくりと伏せられ、その瞳が閉じられていく。


『――ソウダ』


 黒きものが、御魂の奥へ優しく囁きかける。


『――オ前ハ、決シテ赦サレナイ』


「……そう、だ。余は、赦されぬ……」


『――オ前ガ、スベテヲ壊シタ』


「余が……義姉上を……」


『――オ前ガ、姉妹ヲ引キ裂イタ』


「佐久夜を……」


『――オ前ガ、人間ノ命ヲ短クシタ』


「余が……すべてを……」


「違います!!」


 佐久夜姫が、桜色の光を纏ったまま叫んだ。


「瓊瓊杵さま、おひとりだけの過ちではありません! わたくしも――」


『――聞クナ』


 黒きものが、佐久夜姫の声を遮る。


『アレハ、オ前ヲ憐レミ、慰メ、蔑ンデ、後悔サセヨウトシテイルダケダ』


「違います! どうか、わたくしの話を――」


『――オ前ヲ責メレバ、己モ傷ツクカラダ』


「違う!!」


『――故ニ、真実ヲ語ラナイ』


「違います!! あなたっ! 惑わされないでください!!」


『――オ前ハ、ヒトリダ』


「瓊瓊杵さま!!」



 桜色の光が、幾度も闇の奥へ手を伸ばす。

だが、触れる寸前で黒ヘドロに絡め取られ、その輝きを奪われていった。



「瓊瓊杵よ!!」


 今度は、磐長姫が叫ぶ。


「勝手に一人で、すべてを背負ったつもりになるでない!!」


 苔色の神力が、地を這うように広がった。

華やかな輝きではない。人知れず岩肌を覆い、長い歳月の中で静かに命を育んできた、深く穏やかな光。


 その光が、黒ヘドロに閉ざされた瓊瓊杵尊の足元へ辿り着く。



「妾は、ここにおる!」


「……義姉、上……」


「そうじゃ! そなたが傷つけた妾が、今、そなたの前に立っておる!!」


 瓊瓊杵尊の肩が、大きく震えた。


「ゆえに、妾を見よ!! 己の記憶の中にいる妾ではない! 

今、ここにいる妾を見るのじゃ!!」


『――見ルナ。見ナクテモヨイ』


 黒ヘドロが、苔色の光へ覆い被さる。


『――アノ女ハ、オ前ヲ恨ンデイル』


「瓊瓊杵よ!!」


『――憎ンデイル』


「妾の声を聞け!!」


『――醜キ女ヲ退ケタ、オ前ヲ』


「黙れぇぇぇっ!!」



 磐長姫の神力が、大地を大きく揺らした。

苔色の光が黒ヘドロを押し退け、僅かに道を開く。

だが、その先にいる瓊瓊杵尊は、耳を塞ぐように頭を抱えていた。



「……聞けぬ……」


「瓊瓊杵……」


「余には……聞く資格など、ない……」


『――ソウダ』


 黒きものが、再び彼を包み込む。


『――聞カナクテヨイ』


「……余は……」


『――見ナクテヨイ』


「……もう……」


『――ココデ、眠レ――』


 黄金の光が、完全に闇の底へ沈んだ。



 その瞬間――。



「うああああっ!!」


 れなの身体が、大きく仰け反った。


「れなっ!?」


 ジェミが駆け寄ろうとする。



「来ないでぇぇっ!!」


 れなは叫びながら、両足を踏ん張った。


 三柱の勾玉へ繋がった《魂縫霊糸》が、激しく震えている。

黒きものに呑まれた瓊瓊杵尊の自責。


 数千年もの間、御魂の奥へ押し込めてきた後悔。

何度謝罪の言葉を思い浮かべても、今さら許されるはずがないと呑み込み続けた絶望。


 すべてが紫檀の霊糸を遡り、濁流となってれなの中へ流れ込んできた。



「ぐっ……うぅ……!!」


 それだけではない。


 佐久夜姫の胸元へ伸びた霊糸からは、焼けるような罪悪感が伝わってくる。


 姉と共に嫁いだ、あの日。

 一人だけが選ばれた喜び。

 その背後で、父のもとへ返されていく姉の姿。


 追いかけたかった。

 夫を問い質したかった。

 姉と共に帰るべきではないかと、何度も思った。


 けれど、何も言えなかった。

 選ばれた自分が何を言っても、姉をさらに傷つけるだけだと思った。

 そう言い聞かせて、口を閉ざした。



 そして――。


 磐長姫へ繋がった霊糸から流れ込んできたものに、れなは息を呑んだ。


 哀しみ。

 屈辱。

 怒り。


 愛する妹を恨みたくないという、祈りにも似た願い。

 醜いから返された女として、幾千年もの間、語り継がれてきた痛み。

 

 誰かに気遣われるたびに笑いで誤魔化した。

 哀れまれるよりはと、豪快に振る舞った。

 滑稽な面の下へ、本当の顔を隠し続けた。


 小面(こおもて)。

 おたふく。

 ひょっとこ。

 般若――。


 そのどれもが、他者に見せるための顔だった。


 誰にも見せることのできなかった素顔だけが、数千年もの間、岩のような孤独の中へ取り残されていた。



「……なによ、これ……なんなのよ……っ!!」


 れなの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。


 三柱とも、苦しんでいた。

 三柱とも、互いを想っていた。


 それなのに誰一人として、本当に伝えるべき言葉を伝えていない。


 自分だけが耐えればいい。

 自分さえ我慢すれば、これ以上、誰も傷つかない。


 そんなものを思いやりと呼びながら、三柱は数千年もの間、互いから目を逸らし続けてきた。



『――コノ者ハ、誰ヨリモ苦シンダ』


 黒きものが、れなの中へまで囁きかける。


『――充分ニ後悔シタ』


「……違う」


『――充分ニ耐エタ』


「違う……!」


『――故ニ、モウ責メルナ』


「違うって、言ってんでしょうが!!」



 紫檀色の霊糸が、一斉に弾けた。

れなの髪が大きく舞い上がり、足元から凄まじい魔力が噴き上がる。



「自分だけが我慢してきた――だって!?」


 三柱の痛みが、怒りとなって全身を駆け巡る。


「アホかっ……自分だけが……自分ひとりが、耐えてきたと思うなっ!!」


 涙に濡れた瞳で、れなは闇に沈んだ瓊瓊杵尊を睨みつけた。


「チャラ男ぉぉぉっ!!」




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