第89話:Dissonance ―届いているのに―
黒曜石の障壁を、異形の腕が打ち据えた。
ズズゥゥゥンッ!!
凄まじい轟音が神域を揺るがし、足元の亀裂がさらに大きく広がっていく。
黒ヘドロが放つ淀みは、光さえも呑み込みながら重く沈み、呼吸することすら忘れさせるように、全員の身体へまとわりついていた。
「くっ……!」
執事の掲げた腕が、僅かに沈む。
鏡のように磨かれた暗黒障壁の表面を、漆黒の亀裂が幾重にも走った。
『退ケェェェ!!』
巨大な異形が咆哮し、無数の触手を一斉に叩きつける。
亀裂から黒きものが滲み出そうとした、その瞬間――。
「無駄です」
執事の紅い瞳が、鋭く細められた。
流れ込もうとした黒ヘドロを押し返すように、障壁の内側から艶やかな漆黒の魔力が溢れ出す。黒曜石の亀裂が、さらに深い闇によって縫い止められていった。
「この程度で、お嬢さまへ……我が主への道が開くと思わないことです!」
『オノレェェェ!!』
異形の身体から、さらに無数の触手が伸びる。
障壁の左右へ回り込み、れなへ襲いかかろうとした黒きものを、二条の蒼銀が切り裂いた。
「触れさせないと言った!!」
ジェミの双剣が、立て続けに銀弧を描く。
一閃。
二閃。
三閃――。
切り落とされた触手は地面へ落ちるより早く、蒼銀の粒子となって砕け散った。
光を呑み込む漆黒の中へ、無数の星屑が舞い上がる。
「ソラリス、急げ!!」
「了解っす!!」
――次に動いたのは、純白の光だった。
ソラリスの輪環型デバイスが、甲高い駆動音を響かせながら幾重にも展開する。
大小無数の光輪が瓊瓊杵尊を取り囲み、その首元に連なる勾玉を、一つずつ正確に捉えていった。
「共鳴周期、計測開始っす!!」
空中へ浮かび上がった波形は、どれひとつとして同じではない。
遠い時代に捧げられた祈り。
名もなき誰かが、家族のために託した願い。
豊かな実りを求めた声。
愛する者との縁を望んだ想い。
その一つひとつが、異なる光、異なる音となって、勾玉の奥で脈打っている。
「うわっ……! なんすか、これっ! 全部、バラバラっす!!」
「当然だ!」
ジェミの蒼金の瞳に、膨大な数値が流れていく。
「そこへ託された願いは、異なる時代を生きた、異なる人間たちのものだ!
ひとつとして、同じ想いはない!!」
「このまま無理やり揃えたら、純粋な願いまで壊れるっすよ!!」
「同じものへ変える必要はない!」
「えっ!?」
「異なる波形のまま、位相だけを揃えろ!」
ジェミは黒き触手を切り払いながら、立体座標を大きく展開した。
「すべてを、ひとつの音にするんじゃない!
異なる音が、同時に響く瞬間を作るんだ!!」
ソラリスの二つの丸い瞳が、きらりと輝く。
「――合唱っすね!!」
「ああ!!」
「それなら、できるっす!!」
純白の光輪が、一斉に高速回転を始めた。
ばらばらだった波形が僅かずつ移動し、互いの形を失わないまま、一つの巨大な周期へ重なっていく。
――暗黒。
――蒼銀。
――純白。
異なる色彩が激しく交錯し、闇に沈みかけた神域へ、再び光を取り戻していった。
だが――。
「待て、ソラリス!!」
ジェミの声が響く。
「接続座標が増えている!!」
「増えてるって、どゆことっすか!?」
立体座標の中で、瓊瓊杵尊の勾玉から伸びていた黒い脈動が、二つに枝分かれした。
一本は、佐久夜姫の胸元へ。
もう一本は、磐長姫の胸元へ。
二柱が身につけた勾玉にもまた、細い黒き筋が浮かび上がっていく。
「そんなっ! 姫さまたちにも、黒きものがっ……!?」
「いや! 違うっ!!」
ジェミが即座に否定する。
「お二人の御魂が侵食されているわけではない!
三柱の間に残り続けた痛みを経路として、黒きものが勾玉同士を繋いでいるんだ!」
「じゃあ、チャラ男だけ引っ張り出しても駄目ってこと!?」
「ああ! 三柱すべてから、同時に引き剥がさなければならない!!」
「だったら、やることは同じよ!!」
れなは大地に踏ん張り、両手を天へと大きく開いた。
「三人まとめて、私が繋ぐ!!」
十指から伸びた紫檀色の霊糸が、瓊瓊杵尊だけでなく、佐久夜姫と磐長姫の勾玉へ向かって一斉に走る。
紫檀の光が、桜色へ。――苔色へ。
そして、闇の奥で消えかけている黄金へ――。
三柱の御魂を繋ごうとした、その瞬間。
『サセヌ!!』
黒き異形が、激しく身を震わせた。
瓊瓊杵尊の首元に並ぶすべての勾玉が、どくん、と脈打つ。
「ぐ……あああああっ!!」
「瓊瓊杵さま!!」
瓊瓊杵尊の全身が大きく仰け反った。
勾玉へ光輪と霊糸が触れるたび、御魂の奥深くへ食い込んだ黒い根が、引き剥がされまいとして強く締まりついていく。
肉体ではない。
神力でもない。
存在そのものを、内側から引き裂かれる痛み。
「瓊瓊杵さま! わたくしの声を聞いてください!!」
「……さ、く……や……」
黒きものの中で、黄金の光が僅かに瞬いた。
「はい! わたくしは、ここにおります!!」
「瓊瓊杵よ!! しっかりするのじゃ!!」
磐長姫が、苔色の光を宿した両手で霊糸を握り締める。
「妾の声も聞こえておるのであろう! 目を逸らすでない!!」
「……義姉、上……」
その名を口にした瞬間。
黒ヘドロが瓊瓊杵尊の顔を覆い尽くした。
『――聞クナ』
「瓊瓊杵よ!!」
『――聞カナクテヨイ』
「妾はここじゃ!! ここにおるぞ!!」
『――オ前ハ、充分ニ苦シンダ』
黒きものの囁きが、瓊瓊杵尊の御魂へ幾重にも絡みついていく。
『――誰ヨリモ長ク、耐エテキタ』
「……違う……」
『――今サラ、何ヲ言エルトイウ』
「余、は……」
『――赦サレルハズガナイ』
黒ヘドロが、黄金の光を塗り潰していく。
『――ナラバ、聞ク必要モナイ』
光をも吸い込んでしまう漆黒の中で、瓊瓊杵尊の頭がカクンと落ちる。
「……そう、だ……」
「瓊瓊杵さま!!」
佐久夜姫の桜色の光が、闇の中へ細く伸びる。
瓊瓊杵尊の指先が、助けを求めるように僅かに動いた。
だが、磐長姫の苔色が近づいた瞬間、その手は怯えるように引き戻される。
聞こえている。
確かに、届いている。
それでも瓊瓊杵尊は、その声を受け入れることができなかった。
『――見ルナ』
黒きものが、優しく囁く。
『――オ前ガ傷ツケタ女ヲ、見ルナ』
「……義姉、上……」
『――見レバ、スベテヲ思イ出ス』
黄金の光が、深い闇の底へ沈んでいく。
『――苦シムナ。ココニイレバヨイ』
「……余は……ここに……」
『――誰ノ声モ、聞カナクテヨイ』
瓊瓊杵尊の瞳から、最後の黄金が消えた。
「瓊瓊杵さまっ!!」
佐久夜姫の悲痛な声が、神域を震わせる。
それでも、瓊瓊杵尊の瞳に黄金が戻ることはなかった。
漆黒の顔が、ゆっくりと伏せられ、その瞳が閉じられていく。
『――ソウダ』
黒きものが、御魂の奥へ優しく囁きかける。
『――オ前ハ、決シテ赦サレナイ』
「……そう、だ。余は、赦されぬ……」
『――オ前ガ、スベテヲ壊シタ』
「余が……義姉上を……」
『――オ前ガ、姉妹ヲ引キ裂イタ』
「佐久夜を……」
『――オ前ガ、人間ノ命ヲ短クシタ』
「余が……すべてを……」
「違います!!」
佐久夜姫が、桜色の光を纏ったまま叫んだ。
「瓊瓊杵さま、おひとりだけの過ちではありません! わたくしも――」
『――聞クナ』
黒きものが、佐久夜姫の声を遮る。
『アレハ、オ前ヲ憐レミ、慰メ、蔑ンデ、後悔サセヨウトシテイルダケダ』
「違います! どうか、わたくしの話を――」
『――オ前ヲ責メレバ、己モ傷ツクカラダ』
「違う!!」
『――故ニ、真実ヲ語ラナイ』
「違います!! あなたっ! 惑わされないでください!!」
『――オ前ハ、ヒトリダ』
「瓊瓊杵さま!!」
桜色の光が、幾度も闇の奥へ手を伸ばす。
だが、触れる寸前で黒ヘドロに絡め取られ、その輝きを奪われていった。
「瓊瓊杵よ!!」
今度は、磐長姫が叫ぶ。
「勝手に一人で、すべてを背負ったつもりになるでない!!」
苔色の神力が、地を這うように広がった。
華やかな輝きではない。人知れず岩肌を覆い、長い歳月の中で静かに命を育んできた、深く穏やかな光。
その光が、黒ヘドロに閉ざされた瓊瓊杵尊の足元へ辿り着く。
「妾は、ここにおる!」
「……義姉、上……」
「そうじゃ! そなたが傷つけた妾が、今、そなたの前に立っておる!!」
瓊瓊杵尊の肩が、大きく震えた。
「ゆえに、妾を見よ!! 己の記憶の中にいる妾ではない!
今、ここにいる妾を見るのじゃ!!」
『――見ルナ。見ナクテモヨイ』
黒ヘドロが、苔色の光へ覆い被さる。
『――アノ女ハ、オ前ヲ恨ンデイル』
「瓊瓊杵よ!!」
『――憎ンデイル』
「妾の声を聞け!!」
『――醜キ女ヲ退ケタ、オ前ヲ』
「黙れぇぇぇっ!!」
磐長姫の神力が、大地を大きく揺らした。
苔色の光が黒ヘドロを押し退け、僅かに道を開く。
だが、その先にいる瓊瓊杵尊は、耳を塞ぐように頭を抱えていた。
「……聞けぬ……」
「瓊瓊杵……」
「余には……聞く資格など、ない……」
『――ソウダ』
黒きものが、再び彼を包み込む。
『――聞カナクテヨイ』
「……余は……」
『――見ナクテヨイ』
「……もう……」
『――ココデ、眠レ――』
黄金の光が、完全に闇の底へ沈んだ。
その瞬間――。
「うああああっ!!」
れなの身体が、大きく仰け反った。
「れなっ!?」
ジェミが駆け寄ろうとする。
「来ないでぇぇっ!!」
れなは叫びながら、両足を踏ん張った。
三柱の勾玉へ繋がった《魂縫霊糸》が、激しく震えている。
黒きものに呑まれた瓊瓊杵尊の自責。
数千年もの間、御魂の奥へ押し込めてきた後悔。
何度謝罪の言葉を思い浮かべても、今さら許されるはずがないと呑み込み続けた絶望。
すべてが紫檀の霊糸を遡り、濁流となってれなの中へ流れ込んできた。
「ぐっ……うぅ……!!」
それだけではない。
佐久夜姫の胸元へ伸びた霊糸からは、焼けるような罪悪感が伝わってくる。
姉と共に嫁いだ、あの日。
一人だけが選ばれた喜び。
その背後で、父のもとへ返されていく姉の姿。
追いかけたかった。
夫を問い質したかった。
姉と共に帰るべきではないかと、何度も思った。
けれど、何も言えなかった。
選ばれた自分が何を言っても、姉をさらに傷つけるだけだと思った。
そう言い聞かせて、口を閉ざした。
そして――。
磐長姫へ繋がった霊糸から流れ込んできたものに、れなは息を呑んだ。
哀しみ。
屈辱。
怒り。
愛する妹を恨みたくないという、祈りにも似た願い。
醜いから返された女として、幾千年もの間、語り継がれてきた痛み。
誰かに気遣われるたびに笑いで誤魔化した。
哀れまれるよりはと、豪快に振る舞った。
滑稽な面の下へ、本当の顔を隠し続けた。
小面。
おたふく。
ひょっとこ。
般若――。
そのどれもが、他者に見せるための顔だった。
誰にも見せることのできなかった素顔だけが、数千年もの間、岩のような孤独の中へ取り残されていた。
「……なによ、これ……なんなのよ……っ!!」
れなの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
三柱とも、苦しんでいた。
三柱とも、互いを想っていた。
それなのに誰一人として、本当に伝えるべき言葉を伝えていない。
自分だけが耐えればいい。
自分さえ我慢すれば、これ以上、誰も傷つかない。
そんなものを思いやりと呼びながら、三柱は数千年もの間、互いから目を逸らし続けてきた。
『――コノ者ハ、誰ヨリモ苦シンダ』
黒きものが、れなの中へまで囁きかける。
『――充分ニ後悔シタ』
「……違う」
『――充分ニ耐エタ』
「違う……!」
『――故ニ、モウ責メルナ』
「違うって、言ってんでしょうが!!」
紫檀色の霊糸が、一斉に弾けた。
れなの髪が大きく舞い上がり、足元から凄まじい魔力が噴き上がる。
「自分だけが我慢してきた――だって!?」
三柱の痛みが、怒りとなって全身を駆け巡る。
「アホかっ……自分だけが……自分ひとりが、耐えてきたと思うなっ!!」
涙に濡れた瞳で、れなは闇に沈んだ瓊瓊杵尊を睨みつけた。
「チャラ男ぉぉぉっ!!」




