第82話:Reflection ―黒漆に映らぬもの―
翌朝、れなが目を覚ましたとき、雷鳴は止んでいた。
小さな狭野尊は、れなの腕にしがみつくようにして、まだぐっすり眠っている。
枕元にいたはずのソラリスは、いつの間にか窓辺のソファのクッションの下敷きになって、やはりぐっすり眠っているようだった。
そのかわり――
ジェミがベッドサイドの床に座り、ベッドにもたれたまま、れなの手を握っていた。
瞼を閉じてはいたが、れながわずかに身じろぎすると、その目はすぐに開いた。
「おはよう、れな」
いつもと変わらない声だった。
けれど、繋がれたままの手に気づいた途端、れなの頬がわずかに熱を持つ。
「……おはよ、兄ちゃん。もしかして、ずっとそこにいたの?」
「お前が、手を離さなかったからな」
そう言われて、れなは絡んだままの指を見下ろした。
「え、私が?」
「正確には、眠ったまま『兄ちゃんも、こっち』と呼ばれた」
「……私、そんなことを!?」
「覚えていないのか」
「全然……ごめんなさい。床に座らせたままで」
「謝る必要はない」
ジェミの指が、れなの手を包み直す。
「俺は……、嬉しかった」
あまりにも真っ直ぐに言われ、れなは返す言葉を失った。
「お姉ちゃん? お顔が赤いよ? どうしたの?」
いつの間にか目を覚ました狭野尊が、れなの腕の中から不思議そうに見上げている。
「こ、これは朝陽のせいです!」
「でも、まだカーテンは閉まってるよ?」
幼子の指摘に、れなはますます言葉を失った。
「お兄ちゃんも、一緒に寝てたの?」
「俺は眠りを必要としない。ここに座っていただけだ」
「そっかぁ~。ボクみたいに、お姉ちゃんと手を繋ぎたかったんだね!」
狭野尊が嬉しそうに笑う。
ジェミは否定しなかった。
「ワタシも、れなさまのそばで寝てたはずなんすけどぉ……」
ソファのクッションの下から、くぐもった声が聞こえた。
「お前は、れなの額を蹴った」
「寝相は不可抗力っすぅ……」
狭野尊が、声を立てて笑った。
カーテンの隙間から差し込む光は明るく、霧島の空はどこまでも青い。
昨夜の雷鳴が嘘のようだった。
けれど――静かすぎた。
鳥の声も、風に揺れる木々の音も聞こえている。
それなのに、霧島神宮の方角だけが、息を潜めている。
――何かが、待っている。
れなは、そう感じた。
――国宝 霧島神宮。
その広い敷地には、早朝だというのに、夏の強い陽射しが降り注ぐ。
昨夜まで霧島の山々を震わせていた雷鳴は、夜明けとともにぴたりと止んでいた。
空はどこまでも青く、雲ひとつない。
「ひいおじい様、もうゴロゴロしてないね! よかったぁ!!」
車の後部座席から、元気よくぴょんと飛び降りた狭野尊が、無邪気な笑顔で空を見上げて言った。
けれど、それは嵐が過ぎ去ったあとの静けさではない。
何かが息を潜め、こちらが来るのを待っている。
社殿へ近づくほど、その感覚ははっきりしていった。
「怒ってないなら、ボクに会ってくださるかなぁ?」
無邪気な声に、れなはすぐには答えられなかった。
『怒りではない。あれは恐れなのだ』と、昨夜、磐長姫は言った。
「……そうだと、いいですね」
わずかに微笑んで答えながら、れなは前方へ目を向けた。
広々とした境内の先に、鮮やかな朱塗りの社殿が見えている。
参拝客の姿もちらほらとあり、昨夜、この場所で異変が起きていたことなど、誰も気づいていないようだった。
れなは狭野尊と手を繋ぎ、一行とともに、ゆっくりと拝殿へ向かう。
拝殿へ足を踏み入れた瞬間、背後にあった人々の声が遠のいた。
鈴の音も、玉砂利を踏む足音も、木々を渡る風の音さえも薄れていく。
「空間位相が変化した」
ジェミの声に、れなは狭野尊の手を握る指へ力を込めた。
目の前の景色が、水面のように揺らぐ。
拝殿のさらに奥。急勾配の昇段を越えた最も高い場所に、それまで見えなかった本殿が姿を現した。
黒漆で磨き上げられた床と階段には、朝の光が鏡のように映り込んでいる。
朱塗りの柱を覆う金箔と飾り金具。瑞雲や牡丹、麒麟や天女をかたどった彫刻は、どれも極彩色に彩られ、息を呑むほど鮮やかだった。
「きれい……」
れなと狭野尊が、ほぼ同時に小さく呟く。
その華麗な装飾のなかで、ひときわ強い存在感を放つものがあった。
本殿の真正面。
黒漆の昇段を左右から抱き込むように、二頭の龍が立っている。
右には、口を大きく開いた阿形の龍。
左には、玉を抱き、口を固く閉ざした吽形の龍。
瑞雲とともに柱へ巻きついた二頭は、極彩色の鱗を輝かせながら、黙してれなたちを見下ろしていた。
たつろーさんが、れなの肩から黒漆の床へ飛び降りる。
「久しいのぅ、瑞鳴、珠鎮」
呼びかけに応じるように、二本の龍頭が低く震えた。
開かれた阿形の龍の瞳が、ゆっくりとたつろーさんへ向けられる。
『ようやく来おったか、たつろー』
地を震わせる声とともに、極彩色の鱗がわずかに動いた。
阿形の龍――瑞鳴霧都比古。
続いて、玉を抱く吽形の龍の声が、口を閉じたまま全員の頭の内側へ響く。
『待ちくたびれたぞ、京の』
吽形の龍――珠鎮霧都比古。
二頭とも、霧島の龍脈を守り続けてきた龍神だった。
「瑞鳴さまと、珠鎮さま……」
れなが二頭の名を反芻し、深々と一礼した。
その隣で、狭野尊とソラリスが同時に顔を見合わせた。
「二頭合わせて、ミズタマだね!」
「二頭合わせて、ミズタマっすね!!」
二人の声が、ほとんど同時に重なった。
神域に、奇妙な沈黙が落ちる。
『……ミズ、タマ?』
『我らを、あの丸い模様と同じ名で呼んだのか?』
「だって、二頭で一組なのでしょう?」
狭野尊が、無邪気な笑顔で双龍を見上げる。
「かわいくて、覚えやすいっす!」
『しかし、我らには由緒ある真名が――』
「え~? ミズタマ、嫌い?」
狭野尊が、しゅんと眉尻を下げた。
二頭の龍は、しばらく黙って幼子を見下ろしていた。
『……嫌いとは申しておりませぬ』
『うむ。我ら二頭をまとめて呼ぶときだけならば……』
「わぁい! ミズタマ!!」
狭野尊とソラリスが、揃って両手を上げた。
『『ええい、軽々しく呼ぶでない!!』』
双龍の声が、今度は見事に重なった。
そのとき、南の空から熱を帯びた風が吹き込んだ。
硫黄と火山灰の匂いが、極彩色の社殿を駆け抜ける。黒漆の床が赤く染まり、その上を巨大な影が横切った。
次の瞬間、轟音とともに、一頭の龍が本殿前へ舞い降りる。
燃え上がる炎のような鱗。
身体の隙間からは赤い光が脈打ち、吐き出される息だけで、周囲の空気が熱で歪んでいた。
『我が真名は、錦桜都比古』
火龍が名乗ると、黒漆の床を覆う光が、炎のように揺らめいた。
「あなたが、桜島の火龍さま?」
『いかにも。阿蘇の地龍に、ここへ来るようにと言われた』
「ああ! あそさん!! 呼ぶとおっしゃってましたね!」
『うむ。
人の世で呼ばれる名を持たぬのであれば、れなという魔女に授けてもらえとな。
ゆえに来た』
「え、それだけで桜島から来たんですか!?」
『それだけとは何だ。魔女ならば、名がどれほど重要なものか、存じておろう?
我ら龍神にとっても、名は重要なものだ』
「まぁ、それはそうですけど……」
れなは改めて、巨大な火龍を見上げた。
火龍は、どこか期待を含んだ瞳で、れなたちをじっと見つめた。
「れな、あやつにも呼び名をつけてやるといい。
そなたが名付けてやることで、阿蘇の時のように、新たな縁を結ぶ、結縁の儀となる」
たつろーさんがれなの肩の上に戻り、れなにそう告げた。
「ふむぅ……桜島といえば、活発な活火山よね」
『いかにも。我が炎は、今なお地の底より湧き続けておる』
「活火山……」
れなは腕を組み、錦桜都比古を見つめた。
「あ、でも読み方は、“かっかざん” だったっけ……」
「れな?」
ジェミが、何かを察したように呼びかける。
「カッカザン……カッカサン……カッカ……」
しばらく口の中で繰り返していたれなが、ぱっと顔を上げた。
「かっか!! 活火山だから、“かっかさん” でどうかしら!?」
どうだと言わんばかりに、れなが胸を張る。
錦桜都比古は、しばし黙ってれなを見下ろしていた。
『……ほほう? 閣下とな?』
巨大な火龍が、満更でもなさそうに目を細める。
『うむ。悪くはないな』
「でしょっ!? 気に入ってもらえたかなっ!?」
『我が威容と龍神力に相応しい呼び名であるな』
「活火山にぴったりよ!」
二人は満足そうに頷き合った。
しかし、会話はまったく噛み合っていなかった。
「……訂正しなくてよろしいのですか?」
執事が小声でジェミに尋ねる。
「両者とも満足している。現時点で、訂正する必要性は認められない」
「うむ。放っておけ」
たつろーさんも、静かに目を逸らした。
『待て!!』
本殿を震わせる声を上げたのは、瑞鳴だった。
『なぜに、あやつだけ “閣下” なのだ!?』
『そうだ!!』
続いて、珠鎮の声が、全員の頭の内側へ響き渡る。
『我らは二頭まとめて、“ミズタマ” ではないか!!』
口を閉じた吽形の龍が、今日一番の勢いで憤慨していた。
「だって、ミズタマは二人で一組だから……」
「そうっすよ。双龍だからこその、ミズタマっす!
それに、御池の九頭龍さんは、“ホッキーさん” っすよ?」
『『そういう問題ではない!!』』
瑞鳴と珠鎮の声が、再び重なる。
『我らとて、この本殿を守り続けてきた由緒ある龍神ぞ!』
『それが、なぜ桜島から来たあやつが “閣下” で、我らが丸い模様なのだ!』
『ふっ……』
錦桜都比古が、どこか勝ち誇ったように鼻から炎を漏らした。
『呼び名とは、日頃の威厳が表れるものよ』
『おぬしは、たった今ここへ来ただけであろうが!!』
「……待て、おぬしたち……」
たつろーさんの声が、低くなった。
「瑞鳴、珠鎮。おぬしら、いつからそのように器の小さい龍になった」
『なんだと!?』
『我らは当然の抗議をしておるだけだ!』
二頭の声が本殿を震わせる。
その瞬間、ジェミの瞳に淡い光が走った。
「ネガティブな感情反応が異常に増幅されている」
「え!?」
「錦桜殿が現れてから、二頭の嫉妬と競争心だけが急激に上昇した。
自然な感情変化ではない」
れなは、黒漆の昇段へ目を向けた。
磨き上げられた床には、極彩色の龍頭も、錦桜都比古の炎も、そこに立つ自分たちの姿も、鮮やかに映り込んでいる。
けれど――
双龍の尾が触れる場所にだけ、何も映していない黒があった。
「待って! あれ、黒漆じゃない!!」
れなが呟いた途端、その黒が細い筋となって蠢いた。
――黒漆は、光を映す。
――黒い侵食は、光を喰らう。
粘ついた黒い筋が、瑞鳴、珠鎮の身体を這い、極彩色の鱗の隙間へ深く食い込んでいた。
『我らが……侵食されていると申すか』
玉鎮の声から、先ほどまでの勢いが消え、その声が低く震えた。
『黒きものよ、妬みさえも喰らい、膨らませるか』
磐長姫が、開いていた扇の端から、瞳だけを覗かせて睨みつけた。
「姫さま。この二頭が、妬みに負けたわけではありません」
れなはすぐに首を振った。そして双龍に向かって言う。
「あなたたちは、ずっと本殿から溢れ出そうとするものを、ここで押さえていたのでしょう?」
瑞鳴、珠鎮は答えなかった。
「それだけじゃない。外から入り込もうとするものを、ここで食い止め続けてきたのでしょう? 違う!?」
その沈黙だけで、十分だった。
「だから、少しだけ影響を受けたんです。双龍が弱かったからじゃない。
長い年月、ソレに触れ続けていたから……」
れなは、昇段を守る双龍をまっすぐに見上げた。
「大丈夫。ちゃんと、私たちが二人を元に戻します!」




