第81話:Fear ―恐れなき夜―
霧島神宮の方角で響いた雷鳴は、一度きりでは終わらなかった。
霧島岑神社を後にしてからも、低く押し殺したような音が、遠くの山々の向こうで何度も繰り返されている。
けれど、見上げた空には雨雲ひとつなかった。
「……また鳴った」
助手席の窓から空を見上げ、れなが眉をひそめる。
雲ひとつない青空の下、霧島連山は夕暮れの光を浴びて、穏やかな稜線を描いていた。
少なくとも、人の目にはそう見えている。
だが、霧島神宮のある方角だけが、薄墨を流したように霞んでいた。
夕暮れの光と墨色の霞。
その境目だけが、世界の表と裏を縫い合わせた傷口のように、細く歪んでいた。
「あれは、自然発生した雷ではない」
隣に座るジェミが、窓越しに遠くの山を見つめたまま告げる。
「大気中に、落雷を引き起こすほどの積乱雲は確認できない。
音の発生源も上空ではなく、地表に近い。
神宮の神域内部で、何らかのエネルギーが放出されている可能性が高い」
「何らかのエネルギーって……?」
「現時点では特定できない。
だが、御池周辺で感知した黒い侵食と、同種の反応が混じっている」
れなの表情から、わずかに血の気が引いた。
「だったら、今すぐ神宮へ行った方がいいんじゃない?」
ジェミの肩に乗っていたたつろーさんが、前を向いたまま小さく首を振る。
「行かんでもよい」
「え!? でも……たつろーさん」
「今から向かえば、神宮へ着く頃には日が暮れる。
異変の正体も、向こうの出方も分からぬまま、夜の神域へ踏み込むことになるぞ」
「だからって、ホテルに戻ってる場合じゃ……」
「焦るでない、れな」
静かな声だった。
けれど、その一言には、れなの言葉を遮るだけの重みがあった。
「瓊瓊杵さまは逃げてはおるが、神宮を捨てたわけではない。
むしろ、あの地に何かを抱え込んでおる。
こちらが慌てて飛び込むのを待っておる可能性もあるのじゃ」
「じゃあ……罠ってこと?」
「それすら、まだ分からんがのぅ」
再び、遠雷が響いた。今度は先ほどよりも低く、長い。
車の窓ガラスが、かすかに震えた。
れなの膝の上で、狭野尊がぱちりと目を開く。
「ひいおじい様、怒っていらっしゃるの?」
車内が静まり返った。誰も、すぐには答えられない。
狭野尊は不安そうに、れなの服の裾を小さな手で握った。
「ボクが会いに行くって言ったから、怒ってらっしゃるのかなぁ……」
「大丈夫。それは違いますよ」
れなはすぐに幼子を抱き寄せた。
「尊さまが怒られることなんて、ひとつもありません」
「じゃあ、どうしてゴロゴロしてるの?」
「それは……」
「あれは、お腹が減ってるだけっすよ!!」
そう言い切ったソラリスのお腹が、ぐぅぅぅっと鳴った。
それを聞いていた狭野尊は、「ほんとだ!」とクスクス笑う。
れなが言葉を探していると、磐長姫が静かに扇を閉じた。
『あれは、怒りではない』
その声に、全員の視線が向けられる。
『あれはな、あのお方が恐れておるのじゃ』
「……あの強い、ひいおじい様が?」
狭野尊が、きょとんと目を丸くした。
『そうじゃ。妾たちが神宮へ赴くことを、あの男は恐れておる』
磐長姫は、霞む霧島神宮の方角を見つめた。
その横顔に怒りはない。
ただ、数千年という歳月を越えてなお消えない、静かな覚悟だけがあった。
『じゃからこそ、今宵は戻るぞ』
「姫さままで……」
『妾とて、今すぐ乗り込んでやりたいところではあるんじゃがな』
扇の陰で、磐長姫がふっと、わずかに口元を上げた。
『逃げ続けた男に、夜陰に紛れて会いに行ってやる義理などない。
明朝、日の光の下で、正面より参ろうぞ』
たつろーさんが、満足そうに頷いた。
「うむ。それがよかろう」
「……分かったわ。じゃあそうしましょう」
れなは渋々、座席に背を預けた。
それでも視線は、霧島神宮の方角から離れない。
墨色の霞は、先ほどよりも少しだけ濃くなっているように見えた。
その奥で、黒い何かが、ゆっくりと目を覚まそうとしている。
それは獲物を狙う気配ではない。
長いあいだ閉ざされていたものが、扉の向こうで身じろぎするような、息苦しい目覚めだった。
――そんな気がした。
ホテルに着くと、初めてベッドを見た狭野尊が、キラキラした瞳でれなの手をきゅっと握りしめた。宮から出たことがなかったため、現代のものすべてが、めずらしくて、ピカピカしているように見えていた。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん……ボクも一緒に、あそこで寝ていいの?」
「もちろんですよ。
今夜はお宮へ戻らないのでしたら、私と一緒にベッドで眠りましょうか」
「大伯母さま、お姉ちゃんと一緒に寝てもいいですか?」
『れなが良いのであれば、妾は構わぬ。
妾は眠りを必要とせぬからな。狭野の好きなところで休むが良い』
「わぁい! やったぁ!!」
なぜか、ソラリスが一緒にバンザイする。
「白いのも、ボクと一緒に寝る? お姉ちゃんの隣でもいい?」
その声に、即座にジェミが反応する。
「おい、白いの。お前はこっちだ」
バンザイしていたソラリスをヒョイと摘まみ上げて、執事の手に投げ飛ばす。
「んなっ! ジェミさまっ!! なんでワタシはダメなんすか!?」
「お前は寝相が悪い。れながゆっくり眠れないだろう?」
そうは言ったものの、ジェミは自分の中に芽生えているモヤモヤしたものが何なのか、その正体にようやく思い当たり始めていた。
その夜。
夕食を終え、温泉から戻った狭野尊は、初めて着る浴衣にも、初めて見る冷蔵庫にも、枕元の照明にも、いちいち目を輝かせていた。
れなと磐長姫と一緒に入った温泉では、露天風呂に驚き、お湯の出るシャワーにはしゃぎ、部屋に戻る頃には、れなにおんぶされてウトウトとしてしまっていた。
今日一日で受け取ったものは、幼い身体にはあまりに多かったのだろう。
ベッドに入ると、狭野尊はれなの腕にしがみついたまま、ほどなく小さな寝息を立て始めた。
今日まで神域の内側しか知らなかった幼子の眠りは、驚くほど無防備だった。
れなの腕の中で、狭野尊は初めて、誰かに明日を預けていた。
寝かしつけていただけのれなも、結局一緒に寝落ちしてしまった。
その向こうでは、結局ベッドへの侵入を許されたソラリスが、れなの枕の上で大の字になっている。
「すぴぃ……地球のベッド、最高っすぅ……」
寝言とともに伸びた黒く短い足が、れなの額をぺしりと蹴り飛ばした。
「ん……」
れながわずかに眉を寄せる。
ジェミは無言でソラリスを摘まみ上げると、自分が座っていたソファのクッションへ移した。
「ジェミや、白いのを乱暴に扱うてやるでないぞ」
窓辺に浮かぶ磐長姫が、扇の向こうから静かに告げる。
「扱っていません。れなの安眠を妨害する物体を、適切な位置へ移動させただけです」
「ほう? 物体とな……ふふ」
磐長姫の声には、わずかに笑いが含まれていた。
ジェミは答えず、眠るれなの顔へ視線を戻す。
その背後では、執事が遠い空を見上げながら、音もなくカーテンを閉じていた。
「外の霞は、まだ消えておりません」
昼間よりも薄くはなっていると、執事は告げる。
だが、霧島神宮の方角には、夜の闇とは異なる黒い靄が蟠っていた。
「先ほどから雷鳴は止んでいる。
しかし、神域内部の反応はむしろ強まっている。
外部への放出を止め、内側へ収束させているように見える……」
ジェミの報告を聞き、たつろーさんがベッド脇のテーブルへ飛び移る。
「溜め込んでおる、ということか?」
「その可能性が高い。
ただし、攻撃の準備なのか、侵食が進行しているのかまでは判別できない」
「黒きものは、瓊瓊杵さまのお力ではないのじゃな?」
「違うものだ」
ジェミは即答した。
「御池で感知したものと同質だ。
だが、密度が比較にならない。あの神域には、長い年月をかけて蓄積された何かがある」
執事がモノクルに指を添えた。
「人々の祈り、でしょうか……」
その言葉に、室内が静まり返る。
「祈りは、必ずしも清らかなものばかりではございません。
願いの裏には、執着や妬み、恐れが潜むこともある。
神々がそれらを数千年の時をかけて、受け取り続けてきたのだとすれば――」
ジェミが、その先を引き取った。
「祈りは光に似ている。だが、光が強いほど影もまた濃くなる。
叶わなかった願い、選ばれなかった痛み、他者の幸福を許せぬ心。
それらもまた、祈りの名を借りて神へ届く」
「うむ、それだけではないじゃろうな」
たつろーさんが低く言った。
「外より持ち込まれたものだけならば、あれほど深く根は張らぬ。
取り憑く隙を、内側より与えたものがおる」
三人の視線が、磐長姫へ向けられた。
磐長姫はしばらく何も答えなかった。
閉じた扇の先で、自らの掌をゆっくりと叩く。
『あのお方は、己が犯した過ちを認めることを、何千年ものあいだ恐れ続けて、そこから目を逸らしてきたのじゃ』
怒りも、嘲りもない、静かな声だった。
『妾を返したことではない。その後もなお、自らは正しかったと思い込もうとしたことをじゃ。過ちを認めれば、己が信じてきたものすべてが崩れる。
ゆえに見ぬふりをし、聞こえぬふりをし、内側に閉じ籠もった』
「そこへ、黒い侵食が入り込んだ……と」
『おそらくはな。恐れを喰らい、それをさらに膨らませておるのであろう』
ジェミは眠るれなへ目を向けた。
「ならば、明日れなが対峙する相手は、瓊瓊杵尊だけではない、ということか」
『そうなるのぅ……』
「姫さまは、どうなさるおつもりですか」
執事の問いに、磐長姫は目を伏せた。
『妾は、あのお方に復讐するためにここへ来たのではない』
扇が、静かに開かれる。
『謝罪を乞うつもりもない。
妾の価値は、今さらあのお方の言葉ひとつで決まるものではないからの』
それは赦しではなく、まして忘却でもなかった。
誰かの否定によって奪われたものを、長い歳月の果てに、自らの手で取り戻した者の言葉だった。
「……では、何を?」
『見届けるのじゃ』
磐長姫は、狭野尊を抱いて眠るれなを見つめた。
『己が過ちと向き合うのか。
なおも背を向け、すべてを黒きものへ明け渡すのか。
そのうえで、救うのか、斬るのか――』
その眼差しに、迷いはなかった。
『あとは、れな次第じゃな』
ジェミの瞳に、淡い光が走る。
「れなが救うと決めれば、俺が救う。斬ると決めれば、俺が斬る」
『たとえ、相手が神であろうともか?』
「関係ありません」
一瞬の躊躇もない返答だった。
磐長姫は満足そうに笑うと、再び眠るれなへ視線を移した。
『それにしても――』
扇の先が、れなの胸元で眠る狭野尊を指す。
『あれほどぴったりと抱きつかれておっても、構わぬのか?』
「狭野尊は幼子です。問題ありません」
「ほぅ? 左様でございますか……」
執事が涼しい顔で頷く。
「それは嫉妬ですかな」
「……違う」
「ヤキモチじゃな」
たつろーさんまで即答した。
「違うと言っている!」
否定するまでに0.8秒。普段のジェミより、明らかに遅い。
扇の向こうで磐長姫が笑い、執事も肩を揺らす。
そのとき、眠っているはずのれなが、狭野尊を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「……兄ちゃんも……こっち……」
小さな寝言が、静かな部屋に落ちる。
ジェミの瞳が、わずかに見開かれた。
執事とたつろーさんが、同時にそちらを見る。
『ほれ。呼ばれておるぞ』
磐長姫が愉快そうに扇を振った。
ジェミは何も答えず、ベッドの傍らへ腰を下ろした。
れなを起こさぬよう、その手をそっと握る。
すると、れなの指が無意識に絡み、握り返してきた。
窓の外では、霧島の夜が深まっていた。
明朝、彼らが向き合うものを、まだ誰も正確には知らない。
けれど少なくとも、今、この部屋に――恐れはなかった。




