第80話:Entanglement ―ほどけない想いの先で―
風が止まると共に、それまで賑やかだった蝉時雨もピタリと止んだ。
どこか緊迫したような、重苦しい空気が境内を支配していく。
と、その時、ピクッとたつろーさんが本殿の奥を見据えた。
「ワシが来たこと、分かっておるのじゃろう? 姿を見せんのか?」
たつろーさんの声に応えるように、雲龍の御柱が淡く光った。
右の龍からは、深く澄んだ水の神気。
左の龍からは、雨雲と雷を孕んだ、重い天の気配が漂っていた。
向かって右には、水を司る弥都波能売神。
左には、雨、雷、雲、水を司る五帝龍神。
二体の龍は柱をするすると降りると、狭野尊の前に傅いた。
「あれぇ? 龍さんたちだけなのぉ? ひいおじい様とひいおばあ様は、どこぉ?」
「狭野尊さま。
ただいま、二柱の大神さまたちは、神宮にお戻りになっております」
「たつろー殿、ご無沙汰いたしております。遠路はるばる、ようこそ霧島へ」
うむ、とたつろーさんが、静かに頷いた。
「ねぇねぇ、ひいおじい様とひいおばあ様は、ボクがここに来ること、ご存知だったよねぇ?」
「えーっと……あ~……は、はい」
「さ、さようでございます……ね。はい……」
「ボク、鳥居の所で大きなお声で、お呼びしたのに、聞こえてなかったのかなぁ?」
慌てて、弥都波能売神が、あやすように答える。
「あ、いえ、しっかりと聞こえておりましたよ」
その声に続いて、五帝龍神も頷いた。
「うむ、うむ。狭野尊さま。
弥都波能売神の言うとおりでござりまするぞ」
「じゃあ、どうして、いらっしゃらないの? ボクのこと嫌いになっちゃったのかな……」
狭野尊は、しょぼんとしてしまい、今にも泣きそうな顔になっていく。
れなは慌てて、抱き上げて、「大丈夫ですよ」とあやした。
その姿に、二体の龍神たちも「そんなことはございません!」と慌てて、狭野尊周りをグルグルと飛び回り、今にも零れそうな涙を前に狼狽えるしかなかった。
狭野尊の大粒の涙が、ひとつ零れ落ちそうになった、その刹那。
『……狭野、なの?』
本殿の奥から、小さく弱々しい声が、微かに聞こえてきた。
磐長姫の呼吸が、すっと静かになる。
その場にいた全員の視線が、本殿の御簾の奥へと向けられた。
狭野尊の顔が、ぱっと明るくなり、大きな声でそれに答えた。
「ひいおばあ様~ぁっ!!」
『狭野……来てくれたのですね』
「えへへ! 会いに来ちゃいました!!」
『狭野……どうやって、ここへ?』
「大伯母さまと一緒に来ましたぁ!!」
『……え!? ……あ、姉上も、いらっしゃるのですか』
佐久夜姫の声が、一瞬にして凍りつくのがわかった。
「……? ひいおばあ様? ボク、来てはダメでしたか?」
『……そ、そんなことは、絶対にありませぬよ』
「よかったぁ!
ひいおばあ様はボクのこと、嫌いになっちゃったのかと思いました」
『わたくしが、狭野のことを嫌いになるはずが、ありません』
「嬉しいですぅ! ボクもひいおばあ様のこと、大好きだもの!!
ねっ! 大伯母さま~♪」
その無邪気な言葉に、境内の空気がさらに凍りついたような気がした。
そして、誰も言葉を発しない中、少し間を置いて、静かに響いた声。
『……そうじゃな、狭野よ。……久しぶりじゃの、佐久夜や』
呼びかけられた佐久夜姫は、なぜかすぐには答えられなかった。
答えられないというより、声そのものが出なかった。
『あ……姉上は、なぜこちらへ?』
やっと紡ぎ出せた声だったのに、なぜか本心とは違う言葉が零れる。
その佐久夜姫の問いかけに、磐長姫は静かに返した。
『狭野に連れられて来ただけじゃ』
『……さ、さようで……ございましたか』
途切れ途切れの声が、御簾の奥へ消えていく。
姉上に会えて嬉しい。その懐かしい声を、もう一度聞きたかった。
そのはずなのに、佐久夜姫の口から零れたのは、よそよそしい言葉ばかりだった。
責められると思っていた。怒りをぶつけられると思っていた。
けれど、磐長姫の声はあまりにも穏やかだった。
――だからこそ
その静けさが、かえって怖かった。
御簾越しに姉の姿を窺う。だが、扇に隠された表情は見えない。
何を言えばいいのか。何から謝ればいいのか。
数千年もの間、胸の内で繰り返してきたはずの言葉は、ひとつも声にならなかった。
ただ、一緒に来た狭野尊だけが、れなに抱っこされたまま、にこにこしていた。
姉妹の声は、静かに響き合った。
『姉上は……お変わりなく』
『そなたも、息災そうで何よりじゃ』
けれど、会話は長くは続かない。
その様子に、にこにこしていた狭野尊は、首を傾げて無邪気に言い放った。
「あれぇ? 大伯母さま、ひいおばあ様に会いたかったんでしょう? ひいおばあ様も、大伯母さまに、ずっと会いたかったんですよね?? なのに、どうしておふたりとも、にこにこしてないんですか? にこにこは、どこへいっちゃったですかぁ? ボク、探してきましょうか!?」
姉妹の呼吸が、一瞬止まる。いや、姉妹だけではない。
れなたち一行も、水を打ったように静まり返った。れなは、この素直すぎて怖いものなしの五歳児を「天才か!!」と心の中で賞賛していた。
そこに申し訳なさそうに、消え入るような声で佐久夜姫が呟いた。
『わたくしは……姉上に、お会いする資格など……』
『ふん。……そのような資格など、誰が決めるものか』
『ですが、わたくしは、姉上を置いて……』
『そなたが妾を置いていったのではない。それに……妾はもう、気にしてはおらぬ』
『……姉上……』
『妾は、そなたを恨んではおらぬ。されど、傷つかなかったわけではない』
御簾の奥で、何かが小さく息を呑んだ。
責められることばかり恐れていた佐久夜姫にとって、その言葉は、怒りよりも深く胸へ刺さった。
『わ、わたくしも姉上を傷つけたくなど、ありませんでした。
けれど、わたくしは、あの方の傍に……』
それは、誰かに責められたからではない。
佐久夜自身が、数千年もの間、自分へ突きつけ続けてきた言葉だった。
『愛しておったのじゃろう? ならば、そなたの選択は当然のことじゃ』
『でも、わたくしは……あの方を止める事も出来ませんでした!
だから……だからっ!!』
『じゃから、妾がそなたに対して、未だ怒りを持っておると?
そなたを許しておらぬと、そう申すのか?』
『そうではございませぬ!
わたくしは、姉上に嫌われたのだと……思っておりました』
『妾もまた、そなたが妾を選ばなんだと……ずっと思っておった』
狭野尊が、れなにそっと耳打ちした。
「ひいおばあ様も、大伯母さまも、どうして言い訳ばっかりしてるの?」
れなは、救いを求めるようにジェミを見た。
だが彼もまた、幼子に返す言葉が見つからず、互いを想うがゆえに絡まり合った姉妹神の感情を、解析しきれずにいた。
「おふたりとも、素直にごめんなさいって、言っちゃえばいいんですよ!」
れなとジェミが言葉を探している間に、更に狭野尊が、爆弾を投下した。
「あーっと、狭野尊さま。
大人同士の間には、ごめんなさいだけでは終わらないものが、あったりするんですよ……」
「え~? それはなぁに? なんで、ごめんなさいで終わらないの??」
「……!? なんで!? な、なんででしょう、ね? あははは」
「母上は、いつもボクにおっしゃるよ?
自分が悪かったと思ったのなら、すぐに『ごめんなさい』しなさいって!」
「……で、ですよね~」
「ひいおばあ様も、大伯母さまも、とってもお優しい方なのに、どうしてごめんなさいって、しないのですか? そしたら、きっとまたにこにこが戻ってくるでしょ? おふたりとも、仲良しの方が、ボクは嬉しいです!」
『狭野や……そなたは、どうしてそう思うのじゃ?』
磐長姫が、静かに、けれどとても優しい声で問いかける。
その言葉に、狭野尊は元気よく、ハキハキと答えた。
「だって、ボク、おふたりのことが、だぁ~いすきなんですものっ!!」
『……狭野……』
『……ふふ、そなたという子は、本当に……』
れなは、狭野尊のあまりにも純粋で、優しい答えに涙が溢れた。
その様子を見ていたジェミが、そっとソラリスを……いや、ハンカチを差し出してやる。
それを見ていた狭野尊は、ジェミに笑顔で言う。
「ね! お兄ちゃんも、そう思うでしょう!?
お姉ちゃんのこと、だぁいすきだから、いつもにこにこでいて欲しいですよね!!」
ジェミは、その言葉に、ふっと微笑み返す。
「ああ。そうだな。大好きな人には、いつもにこにこでいて欲しいな」
そのジェミの言葉に、ソラリスは嬉しそうに、大きく目を見開いた。
「執事サン……あれは、ジェミさまの告白ってことで、いいっすよね?」
「しーっ、ソラリス。今は見守るときですよ」
「まぁ、あれは告白でいいと思うんじゃが、あの子がのぉ……」
「え? たつろーさん、どういうことっすか?」
「アレは自分の恋愛となると、とことん気づかんところがあるでなぁ」
「確かにお嬢さまは、ご自分のこととなるとサッパリでございますからねぇ」
「え、え? ど、どゆことっすか……」
ソラリスは、慌ててれなの方へ目を戻すと、れなはジェミの言葉はもっともだとでもいうように、うんうんと頷いていた。
「あちゃー、ほらな? やっぱり、分かっておらんっぽいのじゃ」
「お嬢さまの恋愛オンチは、もはや不治の病のようなものでございますね」
「ジェミ本人にも、その自覚は無さそうじゃがのぉ」
「えっ!? ジェミさまも、アレ分かってないんすか!?」
「まぁ、あれらも似た者同士、ということじゃな」
「……はぁぁ、おふたりとも……」
ソラリスが、情けないやら、悲しいやら、姉妹に負けないほどの感情がこんがらがってしまったような瞳で、れなとジェミを見つめていた。
狭野尊が、小さな手をパチン!と叩いて、思い出したように言う。
「あっ! 思い出しました!!
そういえば、ボク、ひいおじい様にも、お訊きしたいことがあったのです!」
その場にいた全員が、一斉に固まる。
そんな大人の微妙な空気はお構いなしに、幼子は再び爆弾を投下した。
「ひいおばあ様、ひいおじい様には、どこに行ったら会えますか!?」
佐久夜姫は、すぐに返事ができなかった。
夫が一行を見張りながら逃げていることも、神宮へ赴いてなお、姿を隠す可能性があることも知っていたからだ。
「……ひいおばあ様?」
狭野尊は心配そうに、もう一度問いかけた。
『あ、ああ、そ、そうですね。じ、神宮に来れば……恐らく……』
「わかりました! では、明日にでも、みんなで神宮へ行きましょう!!」
狭野尊のキラキラとした無邪気な声に、誰もすぐには答えられなかった。
ただ、霧島神宮の方角から吹いてきた風だけが、境内の空気を冷たく撫でていった。
れなが、ハッとして一歩前に出て、更に追い打ちをかけた。
「佐久夜さま!!」
『は、はい……』
「あのチャラ男……じゃなかった、瓊瓊杵尊さまに、『今度こそ逃げるな!』って、お伝えください!!」
れなは鼻息荒く、拳を握って訴えた。
『……ちゃ、ちゃら……?』
狼狽える佐久夜姫。そんなふたりの様子に、磐長姫がボソッと呟いた。
『ふふっ……まこと、言い得て妙じゃ』
その呟きは、風に乗って佐久夜姫の耳に届き、彼女は固まってしまうが、なんとか答えて体面を保った。
『……承知、いたしました。必ず、お伝えいたします』
佐久夜姫の声には、ほんの少しだけ笑みが混じっていた。
「まったく……韋駄天さまと、どっちが逃げ足速いのかしら」
れなが、ぶつぶつと呟く。
「れな……比較対象が神速すぎるだろう」
ジェミは、呆れたように息を吐いた。
その時、遠く霧島神宮の方角で、低い雷鳴が響いた。
――霧島神宮
逃げ続けた天孫との対峙が、いよいよ始まろうとしていた。




