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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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第79話:Blindness ―見ようとしなかったもの―


 ――見えていなかった。


 そこにいたはずなのに。

すぐ傍に、手を伸ばせば届く場所にいたはずなのに。



 水面に残された記憶の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)も、木花之佐久夜姫(このはなのさくやひめ)も、笑っていた。


 新しい国を築く希望に胸を膨らませ、互いの未来だけを真っ直ぐに見つめていた。



 だからこそ、その光の外側に立つ者の姿には、気づけなかったのだ。

二人の笑顔が明るければ明るいほど、その傍らに落ちた影は濃くなる。


 けれど、光の中にいる者は、自分の足元に生まれた影を振り返らない。そこに誰かが取り残されていることさえ知らないまま、幸福だけを未来と呼んで歩き出してしまう。



「……悪気は、なかったのね」


 れなの声が、泉の上に小さく落ちた。


 責めるつもりも。

 傷つけるつもりも。


 ましてや、ひとりの女神から永遠を奪うつもりなど、きっとなかった。


 ただ、自分たちの幸福が眩しすぎて、その陰に誰かが立っていることを、見落としてしまった。



「しかし、悪気がなければ、傷つけてもいいというわけじゃない」


 れなの隣で、ジェミが静かに言った。


「……うん。そうだよね」


 れなは頷いた。


「でも……最初から憎んでたわけでも、嫌ってたわけでもなかったのね。最初の小さなすれ違いが、いつの間にか取り返しがつかないほど、大きくなってしまっただけ……」



 水面の奥で、白い光がゆらりと揺れる。

そこに映った若き天孫の顔には、嫌悪も、嘲りもなかった。


 あったのは、戸惑いと。

理解できないものを前にした、幼い恐れ。



「……見えなかったんじゃない」


 れなは、水面を見つめたまま呟いた。


「……どうやって見るのかを、知らなかったんだ」




 ――その時だった。

泉の底から、低く、遠い声が響いた。



『ならば、問おう』


 波紋がひとつ、大きく広がる。


『醜いものを、人はどうやって愛するのだ』



 狭野尊(さののみこと)が、れなの手をきゅっと握った。


「お姉ちゃん、この声です……」


 幼い神は、泉を見つめたまま、囁く。


「ずっと、このお水の中で、誰かが聞いているんです」



 れなは息を呑んだ。


 それは怒りの声ではなかった。恨みでも、悲鳴でもない。

ただ答えを求め続ける、あまりにも古く、孤独な問いだった。



 静かな水面を見つめながら、れなは神話の一節を思い返していた。


 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、姉の磐長姫(いわながひめ)を「醜い」として送り返し、妹の木花之佐久夜姫(このはなのさくやひめ)だけを妻に迎えた。


 それが、今に伝わる神話だ。



「……醜い。なるほどね……」


 れなは、その言葉を口の中で、ゆっくりと転がした。


「みにくい……見にくい……見えにくい……」


「れな?」


 ジェミが問いかけたが、れなは水面から目を離さなかった。



「もしかして、この『醜い』って……お姿のことだけじゃ、なかったんじゃない?」


 霧火が、怪訝そうに眉を寄せる。


「どういう意味だ?」


「醜いは、みにくい。音だけなら『見にくい』とも取れるわ」


「……見にくい……」


「そう。見にくいものは、見えにくい」



 同じ音が、口にするたびに少しずつ姿を変えていく。


「醜い」と記された一語の奥から、「見にくい」という別の意味が浮かび上がり、さらにその向こうから、「見えにくい」という声が聞こえてくる。


 まるで、長いあいだ重ねられていた薄布を、一枚ずつ剥がしていくようだった。



 れなは、泉に映し出された若き天孫の姿を思い返した。


 彼の顔に、嫌悪はなかった。

 侮蔑も、嘲笑もなかった。


 ただ、そこにいるはずの姉神を、見つけられずにいた。



「磐長さまは、いつも扇でお顔を隠していた。だから、瓊瓊杵さまには見にくかった。

お姿だけじゃなく、その表情も、お心も……本当の磐長さまが『見えにくかった』のよ」


「では、神話に残された『醜い』という言葉は……」


 ジェミの声が、わずかに低くなる。


「本来は、『見えにくい』という意味だったということか」


「でも『見えなかったこと』と、『見ようとしなかったこと』は、別よ」



 れなは、揺れる水面を見つめた。


「佐久夜さまの美しさだけに目を奪われて、隣にいた磐長さまが、何を思っていたのか。

なぜ顔を隠していたのか。それを知ろうともしなかった。

つまり、相手を思い遣る心が足りなかったということよ」


 静かな泉に、れなの声だけが落ちていく。


「それは、瓊瓊杵さまの罪だわ」



 その時、狭野尊が、きょとんと首を傾げた。


「……? 大伯母さまは、とっても美しくて、お優しい方ですよ?」


「……え?」


「ボク、お顔を隠していらっしゃらない大伯母さまを、見たことあるもん!」


 無邪気な声が、泉のほとりに明るく響いた。



 ――その瞬間

泉の水面が、内側から殴りつけられたように激しく波打った。



『な……っ!?』


 白い波紋が幾重にもぶつかり合い、水底の声が明らかに狼狽(うろた)える。



『で、では、なぜいつも顔を隠していたのだ!!

隠しておれば、見えぬのも当然ではないか!!』



 れなは、ざわめく水面を冷ややかに見下ろした。


「見ようとしなかっただけじゃないの?

自分の罪を素直に認められないのも、愚かな男の罪なのよ」


 ほんの一拍、置いて。


「ふん。いつの時代も、変わらないわ」



『ドギャギャギャーーーーーン!!!』



 ――泉が、爆発した。


 いや、実際に爆発したわけではない。

けれど、水面は激しく波打ち、白い飛沫が四方へ弾け、杉木立までざわざわと揺れた。




「……効いたっすね」


「うむ、あれは効いたな……」


「お嬢さまの遠慮のない一声は、確実に急所を抉りましたね」


「れな、もうその辺にしておいてやるのじゃ……」


 ソラリス、霧火、執事、たつろーさんが、揃って泉を見つめる。

ジェミだけは、れなの横顔を見つめたまま、静かに頷いた。


「ああ。反論不能。致命傷だな」



『――ぐはぁ! やかましいわ!! 黙れ黙れ!!』


「じゃあ、私も、ひとつだけ訊くわ」


 れなは、静まりきらない水面を真っ直ぐに見下ろした。


「佐久夜さまを見つめた、その瞳で。

磐長さまを一度でも、ちゃんと見ようとしたことはあったの?」


『…………』



 先ほどまで騒めいていた水面が、不意に動きを止めた。

木々の間を渡っていた風も弱まり、泉には、逃げ場を失った沈黙だけが残る。


 その沈黙こそが、何より明確な答えだった。



「ほらね……答えられないでしょう?」


 泉の水面が、かすかに震えた。


「見えなかったんじゃない。見ようとしなかったのよ!!」



 ――刹那

泉の水が、数十メートル跳ね上がり、水の塊が「ドプン!」と落ちた。

辺り一面、霧雨のような細かい水滴が舞い、美しい虹を生みだした。



「あ……逃げたっす……」


「ああ、逃げたな……れなの勝ちだ」


 ジェミは、ソラリスを肩に乗せたまま、喉の奥で(わら)った。


「また逃げたっ!! あれ、絶対、チャラ男よね!?」


「お姉ちゃん、チャラ男って、なぁに?」


「あ、ううん、何でもないの。じゃあ、次に行きましょう」


「ボク、大伯母さまに、ご挨拶したいです!」



 狭野尊は、無邪気にれなの手を引っ張った。

れなもその可愛らしさ、純粋さに、ついつい笑顔になってしまう。




 車に戻ると、磐長姫がティアを膝に乗せ、その背を撫でながら待っていてくれた。

その姿を見た狭野尊は、ぱぁっと顔を輝かせた。



「大伯母さま~!!」


『おお。そなた、元気そうじゃの。こちらへおいで』


「大伯母さま、ボクも一緒に行ってよいですか?」


『もちろんじゃ。ほれ、(わらわ)の隣においで。いい子じゃ』


「わーい! やったぁ!!」



 その無邪気な笑顔に、磐長姫の声もいっそう柔らかくなった。


 次の目的地、霧島岑(きりしまみね)神社までは、車で十五分ほど。

その道中、れなたちは先ほどの泉で起きたことを、磐長姫に話そうとしていた。



「あ、でもね、大伯母さま。

お水の中の方ってねぇ、大伯母さまが美しくて、とっても優しい方だって、知らなかったみたいなんですよ~。へんなの~」


 と、あっさりと狭野尊が暴露してしまった。


『……ほぅ、そうか。知らなんだのか……』


 磐長姫は、扇の向こうで静かに笑った。

そして、少し寂しそうに、言葉を続けた。



『見せなんだのは、妾じゃ。されど、見ようとせなんだのは、あの方じゃ』


「大伯母さまは、どうしてお顔を隠していたのですか?」


 狭野尊は、磐長姫の隣にちょこんと座りながら、無邪気に訊ねた。


『そうじゃのぅ……見せれば、何かが変わってしまう気がしたのじゃ』


「どうして~? 何が変わるのですか~?」


『……妾にも、分からぬ』


「え~? なんで~? 分からないのに、隠していたのですか~?」


『……そなたは、相変わらず容赦がないのぅ』


 磐長姫は困ったように笑い、狭野尊の頭を優しく撫でた。


「だって、分からないことは、訊かないと分からないです!」




「五歳児、ド正論っすね……」


「ソラリス、お前も少しは見習え」


「ワタシ、わからないことは、いつも全部訊いてるっすよ?」


「訊かなくていいことまで訊くから、問題なんだ」



 ジェミが深いため息をつき、れなの隣へ腰を下ろした。

狭野尊は、なおも首を傾げている。



「ふぅん? では、ひいおじい様にも訊けばいいですね!」


『……何をじゃ?』


「どうして、大伯母さまのお顔を見ようとしなかったのか、です! 

なぜなぜな~ぜ? ですっ!!」



 車内の空気が、一瞬だけ止まった。

れなは思わず、ジェミと顔を見合わせる。

五歳児の純粋な好奇心、探究心、恐るべし……。



「……狭野尊さま、それ、本人に直接訊くの?」


「はい! ひいおじい様にお訊きするのが一番早いです!!」


 何の迷いもない返事だった。


「だって、分からないことは、訊かないといつまでも、分からないままでしょう?

母上はいつも、そうおっしゃっています。『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ』と」


『ふふふ。まこと、その通りじゃ。

そなたの母上は、そなたをしっかりと教えて、大切に育てておるのがわかるな。

ほんに、聡くて、いい子じゃな』



 磐長姫の声には、怒りも恨みもなかった。

ただ、遥かな時を越えて、ようやく訪れた答えを待つような静けさがあった。

狭野尊は、母が褒められたことが嬉しくて、えへへと照れ笑いしていた。


 磐長姫は、狭野尊の頭を優しく撫でながら、静かに言う。



『ならば、あの方に訊いてみるがよい……妾も、答えを聞いてみたい』


「はい! ボク、ちゃんと訊いてみますね!!」



 狭野尊は嬉しそうに頷き、窓の外へ顔を向けた。




 しばらくすると、車は山あいの道へ入っていった。


 木々の隙間から差し込む陽射しが、車窓を流れていく。

狭野神社の杉並木に満ちていた湿り気とは違い、こちらには、山の高みから降りてくる乾いた風があった。



「もうすぐ、霧島岑(きりしまみね)神社に到着いたします」



 執事の声が、車内へ静かに響く。

霧火が窓の外を見つめ、わずかに姿勢を正した。


「霧島岑神社には、瓊瓊杵さまと佐久夜さまが、夫婦神として並んで祀られているわ……」


 れなの言葉に、磐長姫は小さく扇を揺らした。


『れなや、気を遣わずともよい。妾はとうに、己の道を歩いておる』


 その声は穏やかだった。



 ――だが

れなには分かった。

どれほど時間が経とうとも、傷を乗り越えたことと、傷がなかったことは、同じではない。


 磐長姫の手は、変わらぬ速さでティアの背を撫で続けていた。

けれど、扇を持つもう一方の指だけが、ほんのわずかに強く柄を握っている。


 乗り越えたはずの記憶は、消えたのではない。

ただ、誰にも見えない場所へ、静かに置かれているだけなのだ。




 やがて車が停まり、扉が開いた。


 狭野尊は真っ先に飛び降りると、鳥居の奥を見上げて、両手を口元に添えて大きな声で呼びかけた。



「ひいおじい様~! ボクで~す!!」


 幼い声が、境内へ響き渡る。


「ボク、訊きたいことがありまぁ~す!」



 ――その瞬間

境内を吹き抜けていた風が、ぴたりと止まった。




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