第75話:Lustration ―霧島をひらく水―
霧島の夜を裂いて届いた通信の主は、英彦山の大天狗、彦山豊前坊。日本八大天狗の一角である。
『れなよ。鞍馬の大天狗、僧正坊より、話は聞いておる。
明朝、案内の者を迎えに遣わす』
用件は、それだけだった。
鞍馬の僧正坊もまた、日本八大天狗の一角であり、京都に帰省した際に、れなが闇鏡で通信していた相手でもあった。
どこへ案内するのか。
誰が来るのか。
こちらに拒否権はあるのか。
れなが尋ねる間もなく、闇鏡に映っていた厳めしい顔は、ぶつりと消えてしまった。
「相変わらず、説明が足りないのよねぇ……」
挨拶することもなく、伝えることだけを伝えた後、ブツンと一方的に切られた通信に、れなは苦笑した。
そして翌朝。
約束の時刻より五分早く、れなたちがホテルの玄関を出ると、そこには一人の山伏が立っていた。
黒い頭巾に、鈴懸と結袈裟。
背には艶やかな一対の黒翼を畳み、手には錫杖を携えている。
足には、一本歯の高下駄。
いかにも霊山の使者らしい、隙のない出で立ちだった。
――ただし。
「……ちっちゃ」
れなの口から、感想がそのまま漏れた。
「聞こえているぞ、人間!」
山伏姿の青年が、鋭くこちらを睨み上げる。
……見上げる。
そう。
れなよりも、少しだけ背が低い。
一本歯の高下駄で懸命に高さを稼いでいるが、それを差し引けば、さらに小柄なのは明らかだった。
「お嬢さま。初対面の方に、そのようなことを申されては失礼でございます」
執事が静かに窘めながら、青年の頭上へ視線を落とした。
「とはいえ、ずいぶんと愛らしいお使いでございますね」
「愛らしいとか言うな!」
「申し訳ございません。では、健気と」
「もっと言うな!!」
黒い翼が、ばさりと大きく膨らんだ。
威嚇のつもりなのだろうか。しかし羽毛の先がまだ柔らかく、身体に比べて翼だけが妙に大きい。どうやら、本来はまだ幼い烏の姿なのだろう。精いっぱい霊力を使い、青年の姿を保っているらしい。
ジェミは青年をひと目見ただけで、冷静に告げた。
「変化の維持率、八十三パーセント。右翼の端が戻りかけているぞ」
「なっ!?」
青年が慌てて振り返る。
黒い翼の先から、小さなカラスの尾羽が一本、ぴょこんと覗いていた。
「……っく! 見るな!」
「見てないっす!」
れなの肩に乗ったソラリスが、両手で顔を覆う。
ただし、指の隙間からは、しっかり見ている。
「お前だ! 見るな!!」
「見てないっすってば!」
「指を閉じろ!」
朝の静かなホテル玄関に、若いカラス天狗の声が響き渡った。
れなは笑いを堪えながら、その彼に目線を合わせた。
「それで? あなたが豊前坊さまから遣わされた案内役?」
「……そうだ」
青年は咳払いをひとつすると、錫杖を地面へ突いた。
「霧島山東麓、霧島東神社に仕える烏天狗、霧火だ。
豊前坊さまより、お前たちの案内を命じられた。ついてこい」
霧火は、霧島東神社を拠点に、霧島山域と六社権現の間を飛び回る伝令兼案内役らしい。
「なるほど。霧島東神社に属し、六社権現の間を行き来する神使でございますか」
「属しているのではない。守っているのだ」
「それは失礼いたしました。見習いながら、立派なことですね」
「見習いではない!」
「霧火くんね。よろしくね」
「“くん”をつけるな!」
「じゃあ、霧火ちゃん?」
「なぜ悪化した!?」
霧火の翼が、再び勢いよく逆立った。
その向こうで、朝靄をまとった霧島連山が、静かにれなたちを見下ろしている。
火と水をその身に抱く山々は、何ひとつ語らない。
ただ今日もまた、彼女が何を見て、何を感じ、どのような道を選ぶのかを、深い沈黙の底から見定めていた。
「それで、霧火よ。すぐには霧島神宮へは向かわんのじゃな?」
たつろーさんが、いつもよりひと回り大きな龍の姿となり、れなの肩越しから霧火を見下ろした。
霧火は一瞬「ひっ!」とたじろいだものの、足を踏ん張り、怯みそうになる視線を必死に上げて挨拶した。その身から放たれる龍気に、たつろーさんの正体を悟ったらしい。
「京の都を守護する、青龍神の長さま。霧火と申します。
霧島山麓の龍神さまたちの元へご案内いたします……」
「うむ。頼んだぞ」
「たつろーさんには低姿勢なのね、霧火くん……くすくす」
たつろーさんは満足そうに喉を鳴らすと、再び手のひらほどの大きさへ戻った。
朝陽を受けて楽しそうに笑うれなの横顔に、霧火は一瞬で耳まで赤くなった。
何か言い返すはずだったのに、鈴を転がすような笑い声を、もう少し聞いていたいと思ってしまった。
その様子を、腕を組んで後ろで睨みつけていたのが、ジェミだった。
(たかが少年が、れなを見て頬を染めている。
それだけのことだ。なのに、なぜこんなにも苛立つ……?)
れなが誰に笑いかけようと、彼女の自由だ。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが――面白くない。
すこしモヤモヤした気持ちで、ジェミは先に車に乗り込んだ。
そんなジェミの心の内など露知らず、れなはソラリスを抱えて、その隣に乗り込む。霧火はナビとして助手席に座った。
「最初に向かうのは、霧島東神社でよろしいですか? 霧火」
「ああ。まずは御池の水気に触れ、お前たちにまとわりついた阿蘇の火気を鎮める」
「……霧島東神社……天逆鉾のある……」
れなは小さく呟く。
「天逆鉾……って、なんすか? れなサマ」
「大昔の神話の時代に、瓊瓊杵さまが突き立てたって言われている鉾よ。
逆さまに突き立てたから、逆鉾って呼ばれてるの」
「なんで逆さに突き立てたんすかね? なんのためにっすか?」
「……さぁねぇ? あとで瓊瓊杵さまに聞いてみたら?」
「霧火サン、その天逆鉾、いまもあるっすか? 見られるんすか?」
「ある。だが、天逆鉾があるのは霧島東神社ではない。高千穂峰の山頂だ」
「じゃあ、あとで見に行くっす!」
「気軽に言うな! 標高千五百七十四メートルの山頂だぞ!?」
「飛べば、すぐっすよ?」
「お前は飛べても、他の者は飛べんだろうが!」
「ジェミさまのハニー号なら……」
「社宝へ、その妙な乗り物で乗りつけるな!!」
「え~~、ケチぃっすね~。ちょっとくらい、ちょんって……」
「高千穂峰の山頂は、霧島東神社の飛地境内だ。
そこに突き立つ天逆鉾は、今も当社の社宝として祀られている。
だから、勝手に触るな。抜こうとするなどもってのほかだ!」
「はぁ、ソラよ。おぬしは何にでも興味津々なんじゃなぁ……」
「だって、たつろーさん! ワタシの母星にはないものばっかりっすよ!!」
瞳をキラキラさせて言うソラリスに、呆れたように首を振る霧火だった。
神域の森へ近づくにつれ、車内の空気が少しずつ冷えていった。
窓を開けているわけではない。
けれど、深い森の奥から流れてくる水気が、阿蘇でまとった熱を静かに撫でていく。
「……涼しいね」
れなが小さく息を吐くと、腕に巻かれた落龍角の勾玉が、かすかに震えた。
「阿蘇の火気が、鎮まり始めている」
ジェミがそう告げた直後、木々の隙間から、青く澄んだ御池の水面が姿を現した。
「おお、あれじゃ、あれじゃ。九頭龍は、元気にしておるのかのぅ?」
「たつろーさん、顔が大きいっすね~」
「違うわよ、こういうときは、『顔が広い』って言うのよ」
「まぁ、どっちも間違ぉてはおらんがな~。ふぉふぉふぉ」
車を降りて、鳥居をくぐる。
参道の石段を上る途中も、木々の隙間から御池が見える。
聖域の森に抱かれた青い水面は、空を映す鏡というより、地の底へ続く巨大な瞳のようだった。太古から瞬きひとつせず、訪れる者の魂の澱まで見通してきたような、深く昏い水面だった。
「あれが御池だ。この地では、九頭龍神さまが棲むと伝えられている」
霧火のその言葉に、たつろーさんは、静かにじっと水面を見つめた。
「……なんじゃ、眠っておるようじゃな~」
「たつろーさん、わかるんすか?」
「起こさん方がよいものもおるのじゃよ。よいよい。眠らせておいてやれ」
「9つも頭のある龍神さん……ちょっと会ってみたかったっす~」
朱色が美しい山門をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。
誰かの姿が現れたわけではない。
声が聞こえたわけでもない。
ただ、姿なき神々の御神気が、深い森と水気の中に静かに満ちていた。
それは、すべてを生み出した温もり。
選び取ったものの重さ。
そして、取り戻せなかったものを悼む、深い悲しみ。
異なるはずの気配が、ここではひとつに溶け合っている。
「……誰かが、泣いてる……ううん、泣いてたんだ……」
社殿を見上げるれなの口から、知らず言葉がこぼれた。
「泣いていた……?」
ジェミが、れなの横顔を見つめる。
「うん。今はもう……静か。でも痛みは残ったまま……」
れなは胸元へ手を当てた。悲しみが消えたわけではない。
長い歳月をかけて、涙は大地や森や水の中へ溶けていったのだ。
かつて天から降り立った神々が抱いた、気高く、深い孤独。
形あるものは、いつか潰える。それを知りながら、なお失われぬよう願う祈りの名残が、木々のざわめきに混じり、れなの胸に言葉にならない痛みを残した。
霧火が声を落として告げ、社殿脇の細い道へと歩き出した。先ほどまでの子どもじみた怒声は消えている。神域に入ったからなのだろう。その背中には、神使としての凛とした気配が戻っていた。
深い木立を抜けた先に、小さな泉があった。
苔むした岩の間から、透き通った水が絶え間なく湧き出している。
水面には木漏れ日が揺れ、金色の光が細かな波紋となって広がっていた。
「これは、この霧島の山々を巡ってきた水だ」
霧火は錫杖を泉の前へ立てる。
「阿蘇で地龍の火に触れた者は、そのまま奥へ進めば、霧島の火と反発する。
だから、ここで鎮める」
「禊ぎって、頭から水をかぶるの?」
れなが尋ねると、霧火は眉をひそめた。
「かぶりたいなら止めんが?」
「夏でも山の水は冷たいですよ、お嬢さま」
「……やめとく」
即答するれなの横で、執事が恭しく銀の器を差し出した。
「こちらをお使いくださいませ」
「準備いいっすね!」
「執事でございますので」
霧火は泉の水を器へ汲み、まず、れなの左手から右手へと、静かに注いだ。
――冷たい。
けれど、ただ冷たいだけではない。
水が肌に触れた瞬間、阿蘇でまとった熱が、指先から細い煙となって抜けていく。
それは、焼けた大地に慈雨が染み込むような、静かな解放だった。
身体の奥に燻っていた熱が、冷たい雫に溶け、ゆっくりと鎮まっていった。
腕の落龍角の勾玉が淡く光って、すこし色が変わったように見えた。
燃えるマグマの黄丹色の輝きが落ち着いて、柔らかな橙へと変化したようだった。
次いで、ジェミ、執事、ソラリス、たつろーさんへと水が渡されていく。
ソラリスは身体の白布に受けた水を、興味深そうに覗き込んだ。
「きれいっすねぇ……飲んでもいいっすか?」
「禊ぎの途中で飲むな!」
「一口だけ!」
「駄目だ! 後にしろ!!」
静まり返っていた泉のほとりに、霧火の声が響く。
その声に、れなたちは思わず笑った。
笑い声とともに、最後に残っていた阿蘇の火気も、水の中へほどけて消えていった。
やがて泉の水面が、ひとりでに揺れた。
――風はない。
それでも波紋は、れなの足元から社殿の奥へ向かって、静かに伸びていった。
まるで、この先へ進むことを許すかのように。




