第74話:Biosphere ―地球という奇跡―
えびのパーキングエリアを出てから、景色はゆっくりと山の色を濃くしていった。
窓の向こうを流れていくのは、幾重にも重なる深い緑と、夏の光を弾く遠い稜線。
ついさっきまで雲の向こうに霞んでいた霧島連山は、もはや隠れようともせず、進行方向に大きく横たわっている。
「近づいてきたな」
ハンドルを握るジェミが、静かに呟いた。
れなは返事をせず、窓越しに山を見上げる。
阿蘇とは違う。
同じ火の山でありながら、この地から伝わってくる気配は、もっと穏やかで、それでいて底知れない。
燃え盛る炎ではない。
厚い岩盤の奥に火を抱いたまま、長い歳月をじっと耐えてきたような――そんな気配だった。
それは、遠い神話の時代から積み重なった歳月を、地熱とともに岩盤の奥へ封じ込めたような、硬く、それでいて熱を帯びた静けさだった。
「なんか、阿蘇よりも空気が重いっすね……」
れなの膝の上で、ソラリスが小さな両手を広げる。
「重いというより、密度が高い」
ジェミが窓の外へ視線を向けた。
「地熱、水脈、火山性ガス。それだけでは説明できない反応もある」
「ここは……阿蘇とは、また違う神域ってこと?」
「ああ。しかも、ひとつではない」
その言葉に、れなはわずかに眉を寄せた。
山の奥から、誰かに見られている。
――敵意ではない。けれど、歓迎とも違う。
こちらが何者なのか。
この地へ何を求め、どこまで踏み込むつもりなのか。
山の奥に潜む何者かが、れなたちの出方を見定めているようだった。
『本日の目的地までは、あと40分ほどです』
イヤホン越しに、執事の落ち着いた声が聞こえる。
「了解した。後でホテルのロビーで落ち合おう。
お母上たちには、先に部屋で休んでもらってくれ」
『かしこまりました。では、後ほど』
通信が切れ、車内に再び静けさが戻る。
れなはもう一度、遠くに連なる山々を見つめた。
霧島は何も語らない。
けれど、山の奥から向けられる視線は、少しずつ明確になっていた。
その日は予定どおりホテルへチェックインし、早めに身体を休めることにした。
阿蘇での一件を終えたばかりである。
誰も口には出さなかったが、身体にも心にも、思っていた以上の疲れが残っていた。
部屋に入った瞬間、全員の腕にある見えない腕輪の勾玉が共鳴した。
れなが魔法陣を引くよりも早く、影が結界を張るよりも早く。
その共鳴は部屋全体を包み込み、阿蘇の空気を満たした。
お陰で、れなたちはようやく肩の力を抜き、揃って大きく息を吐くことができた。
母たちには、それぞれの部屋でゆっくり過ごしてもらい、れなたちも夕食までは何をするでもなく、久しぶりに穏やかな時間を過ごした。
そして、各部屋へ運ばれてきた夕食には、この土地で採れた海の幸と山の幸が、所狭しと並べられていた。
彩り豊かな刺身。
香ばしく焼かれた地鶏。
季節の野菜を使った煮物や、小鉢の数々。
ひと目見ただけで、この土地の土と水が育んだ、豊かな恵みが伝わってくる。
数千年にわたって噴火と再生を繰り返してきた霧島の大地が、形を変えて皿の上に並んでいるようだった。
「れなサマ……」
ソラリスが、爪楊枝に刺した黒っぽい肉を持ち上げた。
「この、ちょっと焦げてて、ぐにぐにしてて……噛むと肉汁が出てくる、ちっちゃいこれはなんすか? 牛さんや馬さんとは、また違う味がするっす」
もぐもぐと口を動かしながら尋ねる姿に、れなが笑う。
「それは宮崎地鶏の炭火焼きね。わたしも好きよ。美味しいよね」
「宮崎地鶏……?」
ソラリスは、手元の肉をまじまじと見つめた。
「鳥さんっすか? エルピーみたいな?」
「んー、エルピーとはまた違うかな。もっと大きな、ニワトリって呼ばれる鳥よ」
「へぇぇ……」
感心したように頷いたソラリスは、今度は刺身の皿へ顔を向ける。
「じゃあ、こっちのピカピカしてるのは?」
「それは、お魚のお刺身ね。白いのが鯛で、赤いのがマグロかな。
オレンジ色のは鮭。その赤くて丸いのはイクラ。鮭の卵よ。透明のヤツはイカね」
「お魚?」
「翠みたいな形をしてて、水の中で生きてる生物たちよ」
「へぇぇ……水の中で生きてるっすか!」
ソラリスは刺身と翠を交互に見比べている。
何か言いたげに身体をくねらせる翠を見て、れなは苦笑した。
「形が似てるってだけで、翠は食べないから安心して」
小さなイルカが、ほっとしたように身体の力を抜く。
「地球には、お魚さんみたいなのが、いっぱいいるんすか?」
「ああ」
ジェミが箸を置いて、空中にウィンドウとホログラムを展開して見せた。
「現在、地球上で確認されている鳥類だけでも、およそ1万種いるとされている」
「ええっ!? 違う鳥さんが、1万種類もいるっすか!?」
ソラリスは食事の手を止め、目を丸くした。
「牛や馬を含む動物全体では、現在知られているものだけでも150万種を超える。
未発見の種まで含めれば、その数は770万種前後に達するという推定もある」
「……見つかってない方が多いじゃないっすか!」
「ほんとね……」
れなも思わず箸を止める。
「わたしも、そんなにいるとは知らなかった。うはー……」
「じゃあじゃあ、お魚さんたちは、どのくらいいるっすか?」
「現在確認されている魚類は、およそ3万5000種ほどだ。
そのうち、海に生息する海水魚は、1万4500種から1万5000種前後とされている」
「……ん?」
ソラリスが首を傾げた。
「じゃあ、残り半分はどこにいるっすか?」
「川や湖だ。海水ではなく、淡水の中で暮らしている」
「ちょ、ちょっと待って」
れなが会話へ割り込んだ。
「地球上の水って、ほとんどが海水でしょ?
川とか湖の水なんて、1%にも満たないんじゃなかった?」
「ああ、そうだ」
「そこに、海と同じくらいの種類の魚がいるってこと?」
「そういうことだな」
ジェミは小さく頷いた。
「淡水魚は、およそ1万5000種から1万8000種ほど確認されている。
海は広大だが、環境が連続していて比較的安定している。
一方、川や湖は地域ごとに分断され、環境も大きく異なる。
そのため、それぞれの場所に適応した種へ細かく枝分かれしやすかったと考えられている」
「は~~……!」
ソラリスが、感嘆の声を漏らす。
「地球って、すごいっすね!
そんなにたくさんの生命体が、それぞれ違う場所で生きてるんすか!」
「ちなみに、人間を含む哺乳類は、全体で6000種余りだ」
「たったそれだけっすか?」
「動物全体から見れば、かなり少ない。
陸上では、昆虫をはじめとする小さな生物の種類が圧倒的に多い」
「うっそー!!」
れなは反射的に肩を震わせた。
「虫が一番多いってこと!? やだぁぁぁ!」
「れなサマ、虫さん苦手なんすか?」
「得意ではないわね!
特に夜飛ぶやつと、脚がいっぱいあるやつと、急に動くやつ!」
「ほとんど駄目ではございませんか。特にそれは、例の『G』……」
「影っ!! それを口にしたら、どうなるかわかってるわよね!!」
執事の淡々とした指摘に、れなは鋭い視線で睨み返した。
ソラリスは、何やら納得したように何度も頷く。
「ってことは、ジェミさま。れなサマみたいな人類は、何種類いるんすか?」
「現在生き残っている人類は、一種類だけだ」
「はへっ!?」
ソラリスが素っ頓狂な声を上げた。
「たった一種類っすか!? なんでっ!?」
「およそ700万年前に人類の祖先が現れて以降、ネアンデルタール人をはじめ、複数の系統の人類が存在していたことが化石などから分かっている。
分類方法にもよるが、これまでに20種以上の人類が存在したと考える研究者もいる」
「今は、ホモ・サピエンスだけってことよね?」
「ああ。他の系統はすべて絶滅した」
ソラリスは、しばらく黙り込んだ。
「……ホモ・サピエンスは、どうして生き残れたっすか?」
「理由はひとつではない。環境への適応力や道具を作る能力、他の集団との交流など、複数の要因があったと考えられているんだ」
ジェミは、れなへ視線を向ける。
「その中でも、言葉を用いて大人数で情報を共有し、協力できたことは、大きな強みのひとつだったとされている」
「みんなで団結したから、生き残れたっすか」
「そう単純に言い切れるものでもないがな」
ジェミは、れなからソラリス、影、たつろーさん、そして式神たちへと、ゆっくり視線を移していった。
人類が生き残った理由を語りながら、今ここに集まった顔ぶれを、どこか興味深そうに、そして何かを確かめるように眺めていた。
ソラリスは腕を組み、難しい顔をした。
「生存競争に勝った、ホモ・サピ最強……」
「いや、ソラリス。それは違う」
「え? どういうことっすか?」
「人類が、この星でもっとも繁栄している生命体とは限らない」
ジェミの言葉に、ソラリスが目を瞬かせる。
「この星には、目では見えないほど小さな生命の世界もある。
フェムトテクノロジーを扱うお前なら、その規模を想像しやすいだろう」
「小さな生命……?」
「細菌などの微生物だ」
ジェミは、自分の指先を見つめた。
「地球上に存在する微生物の種類は、推定で1兆種に達する可能性があるとも言われている。しかし、人類が確認し、名前をつけられたものは、そのごく一部にすぎないんだ」
「1兆種!?」
ソラリスが両手を跳ね上げる。
「虫さんたちより、ずっと多いじゃないっすか!」
「種類だけではない。個体数となれば、さらに途方もない」
ジェミは続ける。
「ウイルスは、そもそも生命と呼べるかどうかについて議論があるが、地球上に存在する粒子の総数は、およそ10の31乗に達するという推定もあるんだぞ」
「……影」
れなが、遠い目をした。
「ゼロが、何個つくのかな……」
「お嬢さま。10の31乗であれば、1の後ろにゼロが31個でございます」
執事が即座に答える。
「「31個ぉぉぉ!?」」
れなとソラリスの声が、きれいに重なった。
「宇宙に存在する星の数よりも、はるかに多いと考えられているな」
「地球、ウイルスだらけじゃないっすか!」
「そういう、れなの身体の中にも、膨大な数の微生物が共生している」
「えっ……」
れなの動きが止まった。
「体内や皮膚の表面に存在する微生物の総数は、数十兆個規模とされている。
ウイルスも含めれば、さらに多い可能性がある」
「ああ……腸内フローラってやつね……」
れなは、自分の腹部へ恐る恐る視線を落とした。
「うへぇぇ……わたしの中にも、そんなにいるんだ……」
ソラリスも、れなの身体を上から下までしげしげと見つめる。
「ってことは~」
「何よ……」
「……れなサマって、微生物とウイルスでできてるんすか?」
「ちょ! ソラっち!!」
れなは思わず両腕で、自分の身体を抱えた。
「怖いこと言わないでよ!」
「あながち、完全な間違いとも言えないが……ククク」
「兄ちゃんまでっ!!」
「人間は、人間の細胞だけで成り立っているわけではない。
多くの微生物と共生することで、消化や免疫機能などを維持している」
「いやあああ!
これ以上聞いたら、ご飯食べられなくなるぅぅ!!」
れなが刺身の皿から目を逸らす。
その横で、ソラリスはますます目を輝かせていた。
「いやぁぁ、地球の生命体系って、実に興味深いっす!」
「ソラっちは楽しそうでいいわね!」
「はいっす! こんなにたくさん生物がいる星、母星系にもなかなかないっすよ!」
この夜の食卓には、ソラリスの楽しそうな歓声と、微生物に怯えるれなの絶叫が、交互に響き渡った。
久しぶりに笑いが絶えないまま、穏やかな時間が流れていった。
霧島の夜は、れなたちを静かに包んでいる。
……だが、どこかから向けられる視線は、まだ消えていなかった。
窓の外に広がる闇は、街中の夜とはまるで違う。
古い神々の気配を含んだ空気が重く、窓を閉めた部屋の中にまで入り込んでくる。
山の奥にいる何者かは、明日から彼女たちがどう動くのかを、じっと待っている。
彼女たちがどこへ向かい、何を求めるのかを。
――その時、
れなの闇鏡が反応して、ひとつの通信を受け取っていた。




