第73話:Passage ―神域を望む道―
阿蘇の山影が、少しずつ遠ざかっていく。
北熊本から九州自動車道へ入り、ハニー号は先行するファントム号を追いかけて、南へ向かっていた。
つい先ほどまで、地の底で燃え盛るマグマを見つめ、巨大な地龍と別れを交わしていたことが、まるで遠い夢のようだった。
窓辺に頬杖をつき、何気なく手首へ視線を落とす。
そこに腕輪の姿は見えない。
それでも、意識を向ければ、黄丹と黄金の光が、脈拍に合わせて静かに瞬いているような気がした。
流れる車窓の端で、阿蘇の稜線が午後の光を弾き、鮮やかな深緑色へと染まっていく。
それはひとつの物語の終焉であり、まだ見ぬ神域への序曲でもあった。
れなは、指先に残る微かな土の匂いと阿蘇の熱を確かめるように、そっと拳を握りしめた。
「……あそさん、元気でね。また会いに来るから……」
小さく呟いた声に、運転席のジェミが視線を向ける。
「あれほどの回復力だ。傷については、もう心配はいらないだろう」
「うん。わかってるんだけどね。なんか、阿蘇を離れるのが寂しくて」
「別れたわけではない。結縁したのだろう? 縁が深まったんだ」
そう言って、ジェミは自分の手首を軽く持ち上げた。
姿の見えない腕輪は、彼の腕にも確かに存在している。
その手首に、あの鮮やかな勾玉が、キラリと光ったように感じた。
「あそ殿は、必要なときには、必ず駆けつけると言っていた。
むしろ今後は、以前より近い存在になったと考えればいい。たつろー殿のようにな」
「……そっか。そうよね……」
れなが微笑んだ、そのときだった。
「れなサマ! れなサマ!!」
ソラリスが勢いよくカップホルダーから飛び跳ねる。
ソラリスの大きさだと、カップホルダーは、彼の特等席になっていた。
「どうしたの? ソラっち」
「さっきから、同じような形の山ばっかり流れていくっす!
霧島は、まだっすか!? もう着いちゃったっすか!?」
「ん? まだ高速道路に乗ったばっかりよ?」
「えええええ!? もう十分くらい走ったっすよ!?
でも、まだSAとやらにも、着いてないっす……」
『十分で着いたら、霧島ではなく、近所のスーパーですよ、ソラリス』
イヤホン越しに聞こえていたのか、先を走るファントム号から、執事のツッコミが入る。
「ソラ、長いこと車に乗るんじゃから、今のうちに寝ておくのじゃ。
SAに着いたら起こしてやるからのう」
「寝ないっす! ワタシ、地球の景色を全部見るっす!!」
そう宣言したソラリスは、窓へぴたりと張りついた。
――そのわずか、3分後。
「……すぴー」
「早っ!!」
れなの膝へ転がり落ちてきた小さな異星人を、そっと受け止める。
高速道路の向こうには、夏の雲が白く盛り上がっていた。
阿蘇から霧島へ。
二台の車を乗せた道は、神々の古い記憶が眠る南の大地へと、まっすぐ延びていた。
ハニー号は、やがて宮原SAに到着する。
「ソラっち、SAに着いたよ。少し降りて、休憩しましょう」
「ずっと寝てたヤツに、休憩が必要なのか?」
「寝てないっす! れなサマのお膝の上で、瞑想してただけっす!!」
「眠っているヤツに限って、そういう言い訳するんじゃ。ふぉふぉふぉ」
「たつろーさんまで、ジェミさまの味方するっすか!」
「はいはい! そこまで! おめざのアイス買ってあげるから。ね?」
「あいす、くりむ! やっと! やっと食べられるっすかーっ!!」
わーい! と、大きくバンザイした勢いで、ソラリスが肩から転げ落ち、そのまま駐車区画へ向かって、ぽよん、ぽよんと弾んでいく。そこへ、発進したばかりの車がゆっくりと近づいてきた。
「きゃああ!! ソラっちぃぃ!!」
ソラリスが轢かれたと思い、れなは悲鳴を上げて駆け寄った。
――その瞬間――
ぽよよ~~ん!!!
車に押し潰されてぺしゃんこになっていた、そのプリティボディが、風船のように膨らんで、ぽんっ! と、復活した。
ジェミは、その小さな身体へ〈Scan〉を走らせた。
だが、布の内側には何もない。
まるで空洞を覗き込んでいるかのようで、内部構造を解析できなかった。
「一体、どういう構造だ……?」
ジェミの瞳に映るのは、実体を持たぬ宇宙の虚空の揺らぎだった。
それは星々が生まれる前の静寂を孕み、光さえも吸い込むような深淵の断片。
この愛らしい「依代」の奥底に、どれほど膨大な銀河の記憶が眠っているのか。
ジェミは、未知の知性に触れたような戦慄を、静かに飲み込んだ。
眉間に皺を寄せるジェミに、ソラリスは自分の裾をぴらりと捲り、彼にだけ中を見せる。
「ワタシのプリティボディは、今の地球のテクノロジーでは、不可視なんじゃないっすかね~?」
その言葉に、ジェミは絶句した。
昨夜の温泉でも、水に濡れた身体は透明なクラゲのように透け、腹部ではダークマターエネルギーが小さな銀河のように渦巻いていた。
乾いているときのソラリスの身体。
もしかすると、太く短い黒い足は、そのダークマターを彼らのテクノロジーで引き延ばして足にしているだけなのかもしれない。ジェミはふとそんなことを思い、いやいや、と首を振ってその考えを追い払ったのだった。
執事が、インフォメーション付近で待っていてくれた。
そして、買い物を済ませた母たちが、周辺を散策していると教えてくれる。
無事に復活して、またれなの肩に戻ってきたソラリスが、そのインフォメに立っていた実物大くまモンのパネルに、ぴっ! と敬礼した。
「れなサマっ! 幸せ大使殿に敬礼しといたっす!!」
「うんうん、約束守れたね。これからもずっと、仲良くしてあげてね。
そのうちどこかで本物に出会えるかも知れないからね」
「……え? ほんもの? え!? 幸せ大使殿、動くんすかっ!?」
「ん? そうよ? この季節は、野外活動が暑さとの勝負になるけどね」
「なんと……それほどまでに、暑さに弱いっすか……」
ソラリスが心配そうに、しょぼんとしながら、そのパネルにそっと触れる。
その間に、執事がマンゴーソフトを買ってきてくれた。
「ほら、ソラっち、くまモンの心配はその辺にして、ソフトクリーム、買ってきてもらったよ。食べてご覧なさいな」
「そふと、くりむ? あいす、くりむ、とは、また違うヤツっすか!?」
「乳成分や主原料は、ほぼ同じだが、それらは明確に、温度と食感に違いがある」
ジェミが解説してくれる言葉に、れなもソラリスと一緒に「へぇ~!」と感嘆の声をもらす。
「ソフトクリームは柔らかくて、アイスクリームは固い、っていうだけかと思ってた!! あははっ!!」
「それが、温度の差によるモノだ。ソフトクリームは、固めずにそのまま食べられる温度だ。だから、ふんわりとしていて滑らかなんだ」
「さっすが、ジェミさまっす! ひとくち食べていいっすよ!!」
ソラリスが差し出したソフトクリームを断るかと思いきや、ジェミは意外にも、一口で半分くらい食べてしまった。
呆然とするソラリス。苦笑する執事。我関せずなたつろーさん。
三者三様の表情に、思わずれなが笑い出してしまう。
「……ジェ、ジェミ……さま……、なんつーこと……するっすか……」
コーンから山盛りにあったアイスが、半分減ってしまって、プルプルと震えるソラリスを一瞥して、ジェミはふんっと、鼻で笑う。
「お前が一口食べていいと言ったんじゃないか。俺は一口しか食べてない」
「ちょ……兄ちゃん、大人げないっ!! ほらほら、ソラっちも!!
私のをあげるから、プルプルしないの……いや、かわいいんだけど!!」
れなは笑いを堪えながら、ジェミに食べられてしまったアイスを手に持ってぷるぷる震えていたソラリスを慰めた。
そして、ソラリスに、まだ食べていないソフトクリームを手渡す。
「ほらほら、いつまでもプルプルしてると、溶けちゃうよ?」
「れ、れなサマぁぁ~……」
「よしよし。
ほらほら、初めてのソフトクリームでしょ? 食べてみて?」
れなに促されて、溶け始めているソフトクリームを、ハムッと大きな一口で頬張るソラリス。その次の瞬間……。
「うっひょーー! ちべたぁ~い!! これ、おいしいっすーー!!」
短い手を、頬らしき所にあてて、目をキラキラさせるソラリス。
それを見ていたジェミも執事も、ふっと口元を緩め、れなも釣られて笑顔になる。
たつろーは何も言わず、賑やかな一行を眺めていた。
その細められた目には、どこか懐かしむような、柔らかな光が宿っていた。
やがて、散策を終えて母たちが戻ってきて合流した。
石碑があったことや、江戸時代の技術で作られた石橋が再現されているオブジェがあったことなどを、休憩エリアで楽しそうに話してくれた。
「次は、えびのPAまで一気に行くからね。しばらくトンネルが続くし、寝てた方がイイかもよ? お母さん、トンネル苦手でしょ」
「え! そうなん!? じゃあ、次の休憩に着いたら、影さん、起こしてくれはる?」
「かしこまりました。
暑い中の散策でお疲れでしょうから、到着しましたらお知らせいたしますので、後ろでゆっくりお休みください」
「うんうん、ほなそうするわ。おおきにねぇ。
れなちゃんたちも気をつけてね~。ジェミさん、安全運転でお願いねぇ~」
「お母上さま、もちろんですよ。お任せ下さい」
ジェミも執事も、眩しいほどのイケメンスマイルで母たちに応えた。
「またトンネルっす! これで何個目っすか!?」
「十八個目だ」
「さっき十二って言わなかったっすか!?」
「お前が寝ている間に数え損ねたんだ」
「寝てないっす!! 瞬きが、ちょっと長かっただけっす!!
れなサマ、あと何個あるんすか?」
「全部で、二十三ヶ所あるって、SAに書いてあったよ」
「あと五つもあるっすか! 外が見えないの、退屈っす~~!!」
運転席と、助手席カップホルダーの攻防は、なおも続いている。
けれど、長いトンネルをひとつ抜けるたび、空の色が少しずつ南へ近づいていく。
阿蘇とはまた違う、南九州独特の気配が、だんだんと濃くなっていく。
それから、ほどなくして、えびのPAに到着した。
「や~~っと着いたっす! トンネル、つまんなかったっす!!」
「でもね、アレがあるお陰で、山道を越えなくて済むのよ?」
「ということは、地球人のテクノロジーが結集した結果ってことっすね」
ふむ、と少し考えるようなソラリスだったが、れなが連れて行った展望エリアから見える、霧島連山を見て、ほぅっと感嘆のため息を洩らした。
「あれが、次の目的地の、霧島っすね」
「……うん……」
晴れた空の向こう、少し霞むように見える霧島連山。
まだ霧島に入ってもいないのに、日向神話の神威は、すでにこの辺りまで漂っていた。
遠く霞む山嶺は、まるで天から降ろされた巨大な逆鉾が、大地を縫い止めているかのようだ。立ち昇る雲は、神々の衣の裾を思わせ、吹き抜ける風には、太古の祈りが混じっている。
そこは、理が書き換えられる場所。
れなは、自分の魂がその神気に共鳴し、微かに震えるのを感じていた。
そして、知らないうちに身構えていた自分に気づき、ふぅっと深呼吸した。
「どしたっすか? れなサマ、緊張してるっすか?」
「……うん、ちょっと、ね」
苦笑するれなに、ソラリスが首を傾げる。
後ろでその様子を見守っていたジェミは、そっとれなの肩に手を置いた。
「大丈夫だ。お前は、素戔嗚尊さまの名代として、霧島入りする。今は、健磐龍命さまやあそ殿もお前を支えてくださっている。そして、俺が側にいる。二度とお前を危険な目には遭わせないと約束する」
「……兄ちゃん……」
れなの胸が、トクンと跳ねた。
――その時、
もうひとつの声が、れなに響いてきた。
「……れな、私もそなたの側にいますよ……」
その優しく静かに響いた声に、れなはハッとして霧島を見つめた。




