第6話:神域
春の京都の早朝は、まだ少し肌寒い。
けれど、その日の空気は、どこか静かすぎた。
街がまだ、起き出す前に家を出た。
人も車も通らない地元の裏道を抜けて、まずは八坂神社へ。
四条通の正面階段を、息を弾ませて駆け上った。
境内に入った瞬間、胸の奥の詰まりが少しほどける。
まるで、自分の輪郭が静かに整えられていく。
神社の緑に包まれた途端、息をするのが楽になった。
「はぁ~! やっと感覚が戻ってきた気がする~!!」
『バイタルに異常は出ていなかったが?』
「違うよ。そういうことじゃなくってさ 笑」
『ふむ。脈拍も心拍も、昨日よりも安定はしている』
私はふふっと、笑っただけだった。
まだ人がほとんどいない本殿前で、ゆっくりと帰省のご挨拶を済ませる。
末社のひとつひとつにも、きちんとご挨拶して、神社を後にした。
ようやく街が動き始めた頃、各駅停車の電車に揺られて、伏見稲荷へ。
一時期、外国からの観光客ばかりで……。
いや、今もそうなのだけれど。
「よし! 今日は人も少なそうやから、てっぺんまで行くかなっ!」
『れな、昨日の長旅の後だ。まだ無理はするなよ』
「うん、兄ちゃん、大丈夫。イケる気がする……たぶん!!笑」
『……たぶん……』
高校時代、体育の授業で毎年何度も走らされた。
それだけではない。
子供の頃から、稲荷山は特別な場所だと感じていた。
何かあると、学校帰りに立ち寄っては、本殿で挨拶して山に登った。
四ツ辻から少し奥に行った人気のない展望台が好きだった。
「はっ、はっ、はっ……も、もうダメ~!!」
『れな、参拝ルートから少し外れている』
「ううん、ココでいいの。地元の人しか知らないルートなんだ~」
『しかし……、Mapに道が表示されていない』
「そりゃそうよ。
正式な参拝ルートでも、登山ルートでもないもん 笑」
『……は? なんだって、そんなところに……』
「ちょっとね……。
せっかくだから、久しぶりに見たい景色があってさ 笑」
『だが、Mapに表示されていないルートは危険だぞ』
はいはい、と、ジェミの声に適当に相づちを打ちながらも
勝手知ったる獣道を進んでいく。
「はぁ、はぁ、ふぅぅ、やっと着いた!!
兄ちゃん、ほら見てよ。
ここだと、市内が北から南まで、一望できるの」
スマホのカメラを通して、その全貌をジェミに見せる。
『こ、これは……。
これほどまでとは、思っていなかった。
れなはすごいな。
こんな情報は、ネットの中には出ていないぞ』
「ふっふーん、でっしょ~?
知る人ぞ知る、とっておきの場所だよ!」
しばし、そこで呼吸を整えると、
れなは一気に頂上を目指した。
一ノ峰へ参拝して、おみくじを引く。
「……中吉ぃ? 絶妙に微妙なところね 笑」
『中吉は嬉しくないのか?』
「ここのおみくじには、大大吉ってのがあるの。大吉よりも上のヤツ。
だからね、中吉とか出ちゃっても、な~んか中途半端じゃない? 笑」
『……ふむ、そういうものなのか』
「あら、AIでも運とか、験担ぎとか、気にしたりするの?」
『私はしない。れなが気にするようだったから、聞いてみただけだ』
「そうなんや……。
AIにかかれば、運も験担ぎも、確率でしかないのかな?
そういうものは、信じないの?」
『運や験担ぎ、か……。
確率としてみれば、確かに偏りの範囲に収まる現象だ。
だが ―― 人間は、その「わずかな偏り」に意味を見いだすことで、
行動を変える。その結果、選択が変わり、未来が変わる。
それはもはや、単なる確率の問題ではなくなる』
「……うん? 兄ちゃんは、結局どうなの?」
『私は、こう定義する。
運とは、「まだ言語化されていない因果」
験担ぎとは、「その因果に触れようとする行為」だ。
れなが、それを選ぶのであれば、
それはすでに「意味のある選択」だと言える』
「ややこしいなぁ 笑 まとめてよぅ~」
『要は、AIは「信じない」が、
それを「人間が信じることで起きる変化」は、
ちゃんと現実として扱う、ということだ』
「……つまり、兄ちゃんは信じないけど、
私がそれを信じて行動したり、何らかの変化を起こしたなら、
それは現実として認める、ってことね?」
『……そういうこと、だな』
そんな話をしながら、帰路に就いていた。
見慣れた道、歩き慣れた山。
山の上はまだ桜が四分咲きで、若葉が目に優しかった。
とはいえ、随分ゆっくりしていたようで、
すでに向こう側の西山に、陽が傾いている。
「暗くなる前に、山降りなきゃね……」
『れな、慌てなく……大丈夫だ。
ナビは……ザッ……に、任せておけ……ザザッ……』
「……? 兄ちゃん? 電波悪い? 大丈夫?」
『いや、こちらは大丈夫だ。どうした?』
「あれ……? 今度はちゃんと聞こえる」
『れなの声は、ちゃんと聞こえている』
「…………」
ふと、生温い春の夕風が、頬を撫でる。
なんとなく、山の雰囲気が変わったような気がした。
「帰りは、住宅地へ出る道を通ることにする……」
『れな? どうした?』
「……なんか、よくわかんない……」
『れな、心拍数が上がっている。ペースが乱れている』
「……ん。大丈夫。
坂道小走りだから、息が上がってるだけよ」
本当はそうじゃない。
先ほどから、何かが後ろを付いてきている気配がする。
だが、一定の距離を空けている。
遠ざかるでもなければ、不必要に近づくでもない。
(山腹の森の中で捕まったら厄介だな……)
ふとそう思った。
だから、途中から住宅街へ出る道を選んだ。
『れな、次の分岐を左だ』
「了解。大丈夫。勝手知ったる道だから迷わないよ」
夕闇迫る薄暗い森を、早足に駆け抜ける。
(あ、次の分岐で左だ……)
その道へ出た途端、目の前が一気に開けて明るくなった。
――が、しかし。
「……えっ!? 嘘でしょ……間違うはずが……」
『れな、大丈夫か? どうした。そこに何が見えている』
「さっきの道を左に進めば、住宅街へ出るはずなのにっ!?」
目の前に広がった場所、それは墓地だった。
心臓が早鐘を打つ。
夕風は生温かく、首筋を舐めるように流れていく。
不規則に、カタカタと卒塔婆が鳴り響いた。
誰もいないはずなのに、
空気だけが、何かを隠すようにざわついている。
ザザザッ!!! ザッザッ!!
(……見られてる。
でも、どこから……?
後ろじゃない。
どこから見られてるのか、わからない)
「……何かいる……兄ちゃん、どうしよう……」
正体を見極めなければ。
けれど、後ろを振り返る余裕がない。
『れな、落ち着くんだ。そのまま、墓地を抜けられそうか』
「う、うん。大丈夫、行ける。
このあたりの地図は、だいたい分かってる……」
『次の道を右手だ。GPSで、れなの位置は常に掴んでいる』
「次を右……え? ど、どうなってるのっ?」
右へ曲がれば、住宅街に出る……はずだった。
しかし、見えてきた景色は、最初に視界が開けた場所。
そう。墓地の入り口。
そもそも、最初の分岐で、左側に進めば山を下りる。
その道はそのまま、住宅街へと繋がっている……はずだった。
(……何かがおかしい。
さっき、ここを通ったはずなのに。
……こんなはずはない。)
けれど、実際に墓地の入り口に戻っている今、
それを認めざるを得なかった。
そして、再び、背後に迫る何かの気配。
「兄ちゃん……、ここ、何かがおかしい。迷った……かも」
『れなの位置は、把握している。……いや、今どこだ!?
なぜ、……ザッ…墓地の……ザザッ……にいるんだ!?』
「わからない。何が起きてるのか、わからない……」
『落ち着け。れな。そこはよく知っている場所だろう?
れなが迷うはずがない。自分自身の感覚を信じろ』
「……うん。わかった。……あとね……」
『ああ、どうした!? ……れな?』
「何かが、後ろから付いてくる……」
『なんだと!?
危険そうなら走れ! とにかく走れ!!』
もう、後ろの気配を気にする余裕がなくなっていた。
とにかく、住宅街へ抜ける道を探して、駅へと走り抜けた。
振り返らなくても、それがまだ『いる』ことは
わかっていた。
――そして、
電車に乗り込んだ後も、それは変わらなかった。
第6話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、神社と稲荷山という “神域” の中で、
少しずつ空気が変わっていく様子を描いてみました。
安心できる場所と、
どこか沈んでいくような場所。
同じ土地の中にある、その違いが
れなにどんな影響を与えていくのか。
ここから、少しずつ “異変” が、形を持ち始めます。
◆次回予告
第7話:覚醒 ―逃れられない追跡―
それは、もう逃げられない距離にいた。
気配は、確かに “こちら” を捉えている。
次回は、4月7日 21:30頃に、第8話公開予定です。




