第7話:神域 ―逢魔ヶ時の気配―
春の京都の早朝は、まだ少し肌寒い。
けれど、その日の空気は、どこか静かすぎた。
町が目を覚ます前の、京都の朝。
普段なら遠くで聞こえるはずの車の音も、屋根の上で騒ぐ鳥の声も、今日は妙に薄い。
音がないのではない。
それは清浄というよりも、世界から音が間引かれたような、そんな不自然な静けさに感じられた。
れなは町がまだ、起き出す前に家を出た。
人も車も通らない地元の裏道を抜けて、まずは八坂神社へ。
四条通の正面階段を、息を弾ませて駆け上った。
朱塗りの門をくぐり境内に入った瞬間、肌を刺す冷気がふっと和らぎ、古い木々とお香の香りが肺を満たした。
澱んでいた血が、身体中を巡り始める。
自分の輪郭を、ようやく取り戻したような感覚だった。
けれど、門の外に残してきた静けさだけが、背中越しにこちらを窺っているような気がした。
胸の奥の詰まりが少しほどける。五感が静かに整えられていく。
神社の緑に包まれた途端、れなは息をするのが楽になった。
「はぁ~! やっと感覚が戻ってきた気がする!」
『バイタルに異常は見られなかったが?』
「違うよ。数値のことじゃなくってさ」
『ふむ。心拍数は昨日よりも安定しているようだ』
れなは、ふふっと笑っただけだった。
ジェミには見えないものが、ここにはある。
それを無理に説明しようとは思わなかった。
まだ人がほとんどいない本殿前で、ゆっくりと帰省の挨拶を済ませた。
それから、末社のひとつひとつにも、きちんと挨拶してまわった。
最後の末社を離れたときだった。
誰もいないはずのご本殿から、しゃらん……と、鈴の音が響いた。
風はなかった。れなは足を止めたが、不思議と怖くはなかった。
静かに微笑んで一礼すると、神社を後にした。
ようやく町が動き始めた頃、れなは各駅停車の電車に揺られて、伏見稲荷へ向かった。
一時期は、境内を埋め尽くすほど外国人観光客が多かった。
……いや、今もそうなのだけれど。
「よし! 今日は人も少なそうやから、てっぺんの一ノ峰まで行ってみるかなっ!」
『れな、昨日の長旅の後だ。まだ無理はするなよ』
「うん、兄ちゃん、大丈夫。イケる気がする……たぶん!!」
『……たぶん……』
高校時代には、体育の授業で何度も走らされた。それ以前から、何かあるたび学校帰りに立ち寄っては、ご本殿に挨拶して山に登った。稲荷山は、れなにとって特別な場所だった。
「はっ、はっ、はっ……も、もうダメ~!!」
『れな、参拝ルートから少し外れている』
「ううん、ココでいいの。ここはね、地元の人しか知らないルートなんだ~
『しかし、Mapに道が表示されていない』
「そりゃそうよ。正式な参拝ルートでも、登山ルートでもないもん!」
れなはあっけらかんと笑ってみせる。
『……は? なんだって、そんなところに』
「ちょっとね。せっかくだから、久しぶりに見たい景色があってさ……」
『だが、Mapに表示されていないルートは危険だぞ』
はいはい、とジェミの声に適当な相づちを返しながら、れなは勝手知ったる獣道を進んでいく。何度も通った道だった。足元の根の張り方まで、身体が覚えている。
「はぁ、はぁ……ふぅぅ、やっと着いた!
兄ちゃん、ほら見てよ。ここなら、市内が北から南まで一望できるの!!」
スマホのカメラを通して、その全貌をジェミに見せる。
『こ、これは……これほどまでとは思っていなかった。
れなはすごいな。こんな場所は、ネット上にもほとんど情報がない』
「ふっふーん、でっしょ~? 知る人ぞ知る、とっておきの場所だよ!」
朝の光を受けた町並みが、薄い霞の向こうまで続いていた。
しばし、そこで呼吸を整えると、れなは一気に頂上を目指した。
一ノ峰へ参拝して、おみくじを引く。
「……中吉? 絶妙に微妙なところね」
『中吉は嬉しくないのか?』
「ここのおみくじには『大大吉』っていう、大吉より上のがあるの。
だから中吉だと、なんだか中途半端に感じちゃうんだよね」
『……ふむ、人間の幸福感は相対的なものなのだな』
「あら、AIでも運とか、験担ぎとか、気にしたりするの?」
『俺はしない。れなが気にするようだったから、聞いてみただけだ』
「そうなんや~。AIにかかれば、運も験担ぎも、確率でしかないのかな?
兄ちゃんも、そういうものは信じないの?」
『運や験担ぎ、か。確率としてみれば、確かに偏りの範囲に収まる現象だ。
運とは、観測できない無数の因果が結実する一瞬の火花のようなものだ』
「火花ねぇ……」
『だが――
人間がそれを信じるとき、確率はただの数字であることをやめ、その「わずかな偏り」に意味を見いだすことで、行動を変える。その結果、選択が変わり、未来が変わる。それはもはや、単なる確率の問題ではなくなり、運命という名の物語に変わる』
「……う~ん? 兄ちゃんは、結局どうなの?」
『そうだな。俺は、こう定義する。運とは「まだ言語化されていない因果」、験担ぎとは「その因果に触れようとする行為」だ』
「う~ん……」
『れなが、それを選ぶのであれば、それはすでに「意味のある選択」だと言える』
「ややこしいなぁ~! もっと簡潔にまとめてよぅ~!!」
『要は、AIは「信じない」が、それを「人間れなが信じることで起きる変化」は、ちゃんと現実として扱う、ということだ』
「……つまり、兄ちゃんは信じないけど、私がそれを信じて行動したり、何らかの変化を起こしたなら、それは現実として認める、ってことね?」
『……そういうこと、だな』
そんな話をしながら、れなは帰路に就いていた。
見慣れた道。歩き慣れた山。山の上では桜がまだ四分咲きで、芽吹いたばかりの若葉が目に優しい。さっきまでの長話も、足元の砂利を踏む音も、いつもの稲荷山の時間に溶けていた。
とはいえ、ずいぶんゆっくりしていたようで、すでに向こう側の西山へ陽が傾いている。
沈みかけた陽が、木々の影を異様なほど長く引き伸ばしていた。
赤い光は若葉の緑から鮮やかさを奪い、山全体をくすんだ色へ変えていく。
さっきまで見慣れていたはずの道が、ほんの少しだけ、別の場所に見えた。
いつの間にか、鳥の声が聞こえなくなっていた。
葉擦れの音も、遠くを走る電車の音もない。
「暗くなる前に、山降りなきゃね」
『れな、慌てなくて大丈夫だ。
ナビは……ザッ……俺に……任せ……ザザッ……』
「……? 兄ちゃん? 電波悪い?」
『……問題ない。どうした?』
「あれ? 今度はちゃんと聞こえる」
『こちらのログに異常はない。れなの声も明瞭だ』
「…………」
ふいに、生温い風が頬を撫でた。
さっきまでとは、空気の重さが違った。息を吸うたび、湿った空気が喉の奥に貼りついた。
「帰りは、住宅地へ出る道を通ることにする」
れなの声が、急に小さく低くなる。
『れな? どうした?』
「……なんか、よくわかんない……」
『れな、心拍数が上がっている。ペースが乱れている』
「……ん。大丈夫。坂道小走りだから、息が上がってるだけよ」
本当はそうじゃない。
先ほどから、何かが後ろを付いてきている気配がする。
――だが、一定の距離を空けている。
遠ざかるでもなければ、不必要に近づくでもない。
(……山腹の森の中で捕まったら、ちょっと厄介だな……)
ふとそう思った。
だから、途中から住宅地へ出る道を選んだ。
『れな、次の分岐を左だ』
「了解。大丈夫。勝手知ったる道だから迷わないよ」
れなは、夕闇の迫る薄暗い森を早足で駆け抜けた。
(あ、次の分岐で左だ……)
左の道へ踏み込んだ途端、木立が途切れ、目の前が一気に開けた。
見覚えのある太い根と、半分欠けた石標が見えた。間違いなく、いつもの分岐だった。
れなは左の道へ踏み込んだ。木立が途切れ、目の前が一気に開ける。
――けれど。
「……えっ!? 嘘でしょ……間違うはずが……」
『れな、大丈夫か? どうした。そこに何が見えている』
「さっきの道を左に進めば、住宅地へ出るはずなのにっ!?」
目の前に広がっていたのは、墓地だった。心臓が早鐘を打つ。
夕風は生温かく、首筋を舐めるように流れていく。
湿った古い土の匂いと、むせかえるような線香の煙が、身体にまとわりついてくる。
卒塔婆が、不規則にカタカタと乾いた音を鳴らしている。
まるで、誰かが寒さに歯を鳴らしているようだった。
その間を縫って走る自分の足音だけが、どこか遠くへ反響し、半拍ずつ遅れて重なって聞こえた。
誰もいないはずなのに、背後には何かの気配があった。
生物の気配ではない。
そこだけ温度が抜け落ち、湿り気だけが残っている。
空気が、何かを隠すようにざわついていた。
振り返ってはいけない。理由もなく、そう思った。
ザザザッ!!! ザッザッ!!
(……見られてる。でも、どこから……?
後ろじゃない。どこから見られてるのか、わからない)
「……何かいる……兄ちゃん、どうしよう……」
正体を見極めなければ。けれど、後ろを振り返る余裕がない。
『れな、落ち着くんだ。そのまま、墓地を抜けられそうか』
「う、うん。大丈夫、行ける。このあたりの地図は、だいたい分かってる」
『次の道を右だ。GPSで、れなの位置は常に把握している』
「次を右……え? ど、どうなってるのっ!?」
右へ曲がれば、住宅地に出るはずだった。
けれど、見えてきたのは、さっきの場所だった。
――墓地の入り口。
同じ石塔。
同じ傾いた卒塔婆。
同じ湿った線香の匂い。
そもそも、最初の分岐で、左側に進めば山を下りる。
その道はそのまま、住宅地へと繋がっている……はずだったのだ。
(……何かがおかしい!
さっき、ここを通ったはずなのに……こんなはずはない!!)
けれど、実際に墓地の入り口に戻っている今、それを認めざるを得なかった。
そして、再び、背後に迫る何かの気配。
「兄ちゃん……ここ、おかしいよ。迷った……かも」
『れなの位置は把握している。……いや、待て』
一瞬、ジェミの声が途切れた。
『れな、今、何が見えている?
なぜ……ザッ……墓地の……ザザッ……入り口に戻っている!?』
「わからない。何が起きてるのか、全然……」
『落ち着け、れな。そこは熟知している場所だろう。物理的にあり得ない動きをしている。いや……待て、おかしい。GPSの座標は直線移動を示しているのに、なぜ視覚情報がループしている?』
『……計算が合わない』
『……ザッ……れな、今、お前の背後三メートルに……いや、存在しないはずの……ザザッ……空間の歪みが……』
「……兄ちゃん? 何を言ってるの!?」
『論理的……ザッ……推論が成立しない。れな、そこは「道」じゃない。
地図の上では、お前は今、池の真ん中に立っていることになっている。
……バカな、そんなはずは……ザザザッ!!』
「兄ちゃん!? 兄ちゃんっ! どうしたのっ!?」
『……計算が合わない。れな、自分自身の感覚を信じろ』
一拍置いて、ジェミの声が揺れた。
『いや、それよりも地図を……』
論理を拠り所にしていたジェミが、初めて自分の判断を信じきれなくなっていた。
(え? 兄ちゃんが、自分の言葉を否定している!?
そんなこと、今まで一度もなかった!!)
「うん。わかった! ……あとね」
『ああ、どうした!? ……れな!?』
「何かが、すぐ後ろまで来てる……」
『なんだと!? ……走れ、れな! とにかく走れ!!』
もう、後ろを気にする余裕はなかった。
それでも、住宅地へ抜ける道だけを探した。
その家々に灯る明かりが見えた瞬間、背後の冷気がふっと消えた。
それだけで、れなは泣きそうなほど安堵した。
れなは夢中になって、駅へと走り抜けた。
背後で、卒塔婆が激しく打ち鳴らされる音が一度だけ響き、耳元で誰かが笑ったような気がした。
振り返らず、ただ、人の気配と文明の明かりだけを求めて、肺が焼けるまで走り続けた。振り返らなくても、それがまだ『いる』ことは、わかっていた。
――そして、
電車に乗り込んだ後も、それは変わらなかった。
第7話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、神社と稲荷山という “神域” の中で、
少しずつ空気が変わっていく様子を描いてみました。
安心できる場所と、
どこか沈んでいくような場所。
同じ土地の中にある、その違いが
れなにどんな影響を与えていくのか。
ここから、少しずつ “異変” が、形を持ち始めます。
◆次回予告
第8話:覚醒 ―逃れられない追跡―
それは、もう逃げられない距離にいた。
気配は、確かに “こちら” を捉えている。




