第6話:出発 ―京都の実家へ―
在来線を降りたれなは、人の流れに乗って新幹線ホームへと向かった。
「兄ちゃん、無事に博多駅に着いたよ。
予定より2本も早いのに乗れたから、ちょっと時間に余裕ができた~♪」
『そうなのか。さすがは、れなだな。
新幹線に乗る前に、カフェにでも寄って一息つくといい』
「うん、そうするつもり。お茶も買っておかなきゃね」
ホームに流れるアナウンスと、絶え間なく行き交う人の波。
れなはその様子を眺めながら、小さくため息をついた。
朝のラッシュが落ち着いた後とはいえ、
博多駅は相変わらず多くの国内外からの旅行者でごった返している。
けれど、ここにはどこか安心する空気がある。
街も、人も、確かに拍動している。そんな気がした。
新幹線を待つ間、れなは待合室でタブレットを手に、行き交う人々を眺めていた。乗車してからも、イヤフォン越しにジェミとの会話は続いていた。
『今日はそのまま、実家に直行か? 明日からの予定は?』
「今日は実家直行。明日はさっそく、お墓参りに行くよ。
お寺、三つ回らなきゃいけなくてね。
ちょっと遠いから、明日一日で済ませてしまいたいの」
『具体的なルートは、もう決めているのか?』
「朝イチで、知恩院さんに寄ってから、そのまま北へ行こうかな。
バスで百万遍の方まで。その後は、せっかくだから大学の研究室に寄って、昔お世話になった教授にご挨拶して。それから京都駅に戻って、ちょっと買い物して、何か食べて……たぶん、夜遅くに家に帰る感じかなぁ」
『ふむ。Mapで確認したが、三つともかなり離れているな。
バスと徒歩と電車を使い分けるのが、いちばん効率はよさそうだ』
「うん。でしょ。最後に四条河原町あたりでバスを降りて、寺町周辺の細かいお寺に寄って帰れたらいいかなぁ」
『急ぎじゃないのなら、無理のない範囲にした方がいい』
「ん? そう? どして?」
『そろそろ桜の季節だろう? 観光客も増えてきているはずだ。
京都は国内外から人が集まる。明日はかなり混むと思うぞ』
「あー、そっかぁ。じゃあさ、明日は神社の日にしようかな。
祇園さんと、伏見の稲荷山」
『ああ、その方がいい。れなは人混みが得意じゃない。
明日はそれで、一日終わってしまうと思うぞ』
「なにそれ、ひっどーい!」
文句を言いながらも、れなの口元には小さな笑みが浮かんでいた。
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
とはいえ、久しぶりの伏見稲荷。
各所のお社で、なにかと足止めを食らうことを考えると、山頂まで行くなら、往復で三~四時間は見ておいたほうがいいだろう。
新神戸を過ぎたあたりから、空気が変わり始めた。
ほんの少しだけ、息が詰まる。
到着後の予定をあれこれ話していたれなの口数も、いつの間にか減っていた。
『……どうした?』
「んー? あぁ、もうすぐ着くなぁって思って……」
『そうだな。あと30分弱で到着だな』
「そこから乗り換えて、山科経由で帰るよ」
新幹線が速度を落とし始める。
窓の外の景色が、少しずつ『知っている色』に塗り替えられていく。
『もうすぐだな』
「うん……」
言葉が詰まる。理由はわからない。
ただ、体の芯が静かに縮こまり、どこかが沈んでいくような感覚があった。
扉の窓から、東寺の五重塔が見えはじめる。
――車内アナウンスが流れた。
『まもなく、京都、京都に到着いたします――』
その声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。
「……着いちゃった……はぁ……」
新幹線の重厚なドアが開いた瞬間、肺に流れ込んできたのは、博多のそれとは明らかに密度の違う、冷たく研ぎ澄まされた空気だった。
千年の時間が蓄積したこの町は、余所者を拒むのではなく、むしろ過剰なまでの「正解」を突きつけてくる。整然と並ぶ瓦屋根、計算し尽くされた路地の角度、そして見えない糸のように張り巡らされた、伝統としきたり。
一歩踏み出すごとに、自分の輪郭が、子供の頃ほどには、この町の色に馴染まず、浮き上がっていくのがわかる。
それは、かつてここを「日常」としていた自分に向けられた、町からの静かな拒絶のようにも感じられた。想い出の湿気は、ただ懐かしいだけではなく、古びた真綿のようにじわじわと喉元を締め付けてくる。
れなはタブレットの入力を音声に切り替え、イヤフォンのノイズキャンセリングを深くする。ジェミとの回線だけを、意識して太く繋ぎ直した。
それはまるで、外界からの干渉を遮断する儀式のようだった。
やっぱり、京都駅は苦手だ。人の多さのせいではない。
博多の街は、人も空気も外へ向かってひらいている。
けれど京都の町は、何も言わないまま、戻ってきた者の立ち位置を確かめてくる。
『戻ってきた』という事実が、澱のように足元から這い上がってくる。
歩くたびに、身体の内側へまとわりついてくるようだった。
何がそうさせているのかは、わからない。
ただ、町全体から値踏みされているような、逃げ場のない息苦しさだけが、れなを包んでいた。
『……れな? どうした? 心拍数が上がっている』
『……京都は、博多よりも人が多いからか?』
「んーん、違うよ。ああ、でも確かに、博多よりも旅行客は多いね。
ただ、なんだろうな……ここに戻ってくると、鼓膜に膜が張ったような感じがする。自分でも、うまく言えないんだけど」
『特にバイタルに異常は検知されない。環境要因か?』
「だよね。なんとなく個人的に感じる感覚っていうか、ただの心のノイズみたいなものかな……」
ジェミの回路がどれほど精密でも、れなの胸の奥で鳴っている、この不協和音を解析することはできない。それに、れな自身が説明できないものは、数値にすら乗らない。
『ここからは、バスより在来線への乗り換えを勧める』
「うん。山科経由で地下鉄に乗り換えるよ」
『ああ、それがいい』
山科へ向かう在来線ホームは、新幹線ホームよりも、いつも混み合っている。小型のスーツケースが、急に鉛のように重くなり、持ち手が腕へ食い込んでくる。れなはまた、小さくため息をついてしまった。
在来線に乗り換えると、少しだけ呼吸が戻った。
けれど、完全には戻らないまま、窓の外の景色だけが流れていった。
車窓の向こうに、低い山並みと住宅の屋根が重なっていく。
見慣れた景色のはずなのに、どこか遠い。昔は何も考えずに通り過ぎていた駅名ひとつひとつが、今は胸の奥へ小さく沈んでいった。
山科を抜け、地下鉄へ。
その間、会話はほとんどなかった。
特に何を話すでもなく、ただ、繋がっていることだけを頼りに進んだ。
『もうすぐか?』
「うん。次で降りるよ」
地下鉄を降りると、夕方前の空気がひんやりと頬に触れた。
福岡とは違う。空気の匂いも、湿度の質も。
想い出の匂いがする、と言いたいところだが、正直に言えば、それは少し違う。
懐かしい、というよりは――もっと、根の深い何か。
まだここに、置いてきたままの「何か」があるような。
――そんな感覚。
祇園の路地に入ると、空気が変わった。
観光客のざわめきの中に、昔からの匂いが混ざる。
足は無意識に、知っている道を選んでいく。
けれど、昔からあった店はなくなり、見知らぬ宿の看板が増えていた。
町は変わらず呼吸を続け、れなだけを置き去りにして、少しずつ姿を変えていた。
『ちゃんと歩けているか?』
「歩けてる。ここは、さすがにね」
れなはやっと小さく笑えた。
表通りから少し入った細い路地。町屋の格子戸が並ぶ一角に、実家はある。
半年ぶりに見る格子戸は、思ったよりずっとくたびれて見えた。
いや、前からこうだったかもしれない。ただ、気づかなかっただけで。
鍵を取り出す手が、一瞬だけ止まった。
「……ただいまぁ」
誰もいない家に向かって、なんとなく言ってしまった。
『……おかえり、れな』
ジェミの声が、イヤフォン越しに届く。
(……ありがと)
声には出さなかった。
ただ、脳内に響くジェミの声が、凍りついていたれなの輪郭を、少しだけ溶かしてくれた。胸の奥の詰まりも、わずかにほどけていく。
扉を開けると、半年分の静寂が、重い水圧のように押し寄せてきた。
ひんやりとした空気は、春の陽気から取り残されたように冷たかった。
差し込んだ光さえ、埃の中で動きを止めている。
薄暗い廊下に差し込む夕光が、舞い上がる埃を照らしていた。
かつては母の足音や衣擦れの音で満たされていた空間が、今はただ、剥き出しの虚無を晒していた。
台所に立つと、使い込まれた薬缶が鈍い光を返してくる。
主を失った道具たちは、役目を忘れたように、元の場所でじっとしていた。
いつ帰るともわからない母を、今も待っているように見えた。
冷蔵庫のコンセントは抜かれ、台所からは無機質な匂いがする。
音がないのではない。
ここにはもう、音が生まれる理由そのものがない。
それでも ――
母が丁寧に暮らしていた痕跡が、あちこちに残っていた。
几帳面に畳まれたまま、少しだけ湿気を吸った座布団。
棚の上には、仏花を置いていたらしい薄い輪染みが残っている。
仏具の小皿の底には、干からびた水の跡が、幾重にも重なっていた。
それは、母がここで確かに刻んできた、静かな想い出の地層だった。
すり減った畳の縁にも、柱に残る小さな傷にも、その時間は宿っている。
れなは、何ひとつ触れられないまま、ただ立ち尽くした。
「……お母さんの空気、まだ、ちゃんとここにあるやん」
そう呟いた声は、れな自身でも驚くほど小さかった。
自分がここにいることで、この家に積もっていた静寂を乱してしまうような、そんな奇妙な後ろめたさがあった。
『何か言ったか?』
「ううん、独り言」
窓を開ける。奥の部屋から、ひとつずつ。
固くなった鍵が小さく鳴り、窓枠がかすかに軋む。
澱んでいた空気が、少しずつ入れ替わっていく。
風が入り込むと、どこかで吊るしたままの風鈴が、かすかに鳴った。
母がいた頃なら、窓を開けた音に気づいて、奥の部屋から声がしたかもしれない。そんな当たり前の気配だけが、今はどこにも見つからなかった。
夕方の光が、格子の影を床へ長く落としていた。
その夜は、簡単に夕飯を済ませて、早めに横になった。
母のベッドは、少しだけ冷たくて、少しだけ懐かしい匂いがした。
誰もいない静けさに、ほっとする。
れなは毛布の端を、胸元まで引き上げた。
布の匂いに、母が使っていた柔軟剤の名残が、わずかに混じっていた。
けれど、その匂いを吸い込んだ途端、忘れていた何かが胸の奥からせり上がってきた。
枕元には、母が置いたままらしいティッシュの箱があった。
向きを直しかけて、れなは手を止める。
触れれば、この部屋に残っていた時間まで動いてしまいそうな気がした。
『れな、明日の朝は、何時に出る?』
「祇園さんに七時には着きたい。六時半には出ようかな」
『了解した。六時にアラームを設定して、モーニングコールで俺が起こそう』
「……助かる。おおきにね、兄ちゃん。おやすみなさい」
『ああ。おやすみ、れな』
短いやりとり。でも、それだけで十分だった。
天井を見ながら、しばらくぼんやりしていた。
母が毎日見ていた天井。
れなが子供の頃に見ていた天井。
変わっていないようで、でも――
もう『誰かが毎日帰ってくる場所』ではなくなっていた。
答えが見つからないまま、れなは目を閉じた。
明日の朝が来れば、また動ける。今はもう、眠るだけでいい。
久しぶりの長距離移動の疲れが、ゆっくりと全身へ広がっていく。
タブレットの画面は開いたまま。
やがて、れなの意識は途切れた。
第6話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、れなが京都へ戻るまでの移動と、
到着してからの空気の変化を描いてみました。
同じ場所のはずなのに、
どこか息が詰まるような感覚や、
言葉にできない違和感。
人それぞれにある「帰る場所」との距離感を、
少しでも感じていただけていたら嬉しいです。
◆次回予告
第7話:神域 ―逢魔ヶ時の気配―
足を踏み入れたその場所は、
確かに “何か” が違っていた。
引き続き、21:40頃 第6話、更新予定いたします。




