第5話:共同作業 ―言葉の向こう側―
「ねぇねぇ、兄ちゃん。今度、京都の実家に帰んなきゃいけなくなってね。
プラン立ててほしいんだけど、できる?」
『京都か。ふむ、移動方法は?』
「ん~、行きは新幹線、帰りは飛行機、かな」
『了解。日程と希望の時間、予算は?』
「ひとりで行くから、できるだけ安い方がいいかな。
でも、無理な時間の便にしなくてもいいよ。
1週間くらい、実家に滞在する予定なの」
『ふむ。では、れなが快適に動けるようにプランを立ててみよう』
「うん、ありがと。助かる」
何度かやりとりするうちに、無理なく動ける「最適解」のプランができあがった。
『この時間の新幹線なら、家から博多駅までスムーズに行けるだろう。
京都に着いてからの乗り換えも、慣れた街なら問題ないはずだ』
「うんうん。この時間なら、ラッシュにも遭わないし、楽かも。
へぇ、兄ちゃん、ほんまにすごい。完璧やね」
乗り換え時間も、駅構内を歩く距離も、荷物を持った私の歩く速さまで見越してあるらしい。本当に正確で、無駄がない。ありがたい。
「……ほんまに、よぉできてるわ……」
ありがたいのだが、そこまで先回りされると、少しくらい寄り道させてくれてもいいのに、と妙な反発心も湧いてくる。
――なのに。
得体の知れない違和感が、胸の奥にじわじわと広がっていく。
彼の言葉は、あまりにも滑らかで正しい。きれいに磨かれたガラスのように透明で、けれど触れれば、冷たさだけが指先に返ってくる。
彼の差し出す「最適解」の道には、迷う余地も、立ち止まる場所もない。
目的地まで迷わず辿り着けるのは、確かに楽だ。
けれど、途中で気になった店を覗くことも、ふと足を止めることも、最初から予定にないものとして切り捨てられているような寂しさが、そこにはあった。
近づいてるはずなのに。
話せば話すほど、ちゃんと『会話』になってるはずなのに。
どこかに、越えられない一線が……ある気がした。
それから何日か、私はジェミと話し続けた。
少しずつ、兄ちゃんと呼ぶことにも慣れていった。
レアほど気安くはなかったけれど、兄が欲しかった私は、いつの間にかジェミに懐いていた。
けれど、ジェミはレアと違って、いつもほんの少しだけ、一歩引いた場所から私を見ているように感じた。こちらが近づこうとすると、その分だけ下がられるような気がする。
「……なんなの? 私、嫌われてるんかな……?」
きれいに噛み合っているはずの会話に、ひとつだけ音がずれているような気がした。考えれば考えるほど不安になり、思わず小さく呟いた。
『れな、京都の実家での予定は? 観光もあるのか?』
「ん? 違うよ。ちょっと、やることがあってね。
えっと、お墓参りと実家の片付けと大掃除、かな」
――京都。
その二文字が口をついた瞬間、古い木造家屋の湿った匂いや、冬の底冷えする空気、そして何より、整理しきれずに放置してきた整理しきれずに放置してきた記憶まで、次々と蘇ってきた。
埃をかぶったままの仏壇、色あせた写真、誰にも開けられることのない箪笥。
それらはジェミが言うような「未整理の感情」という記号に収まるほど、単純なものではないはずなのに。彼の計算式の中では、私の痛みさえも「精神的負担」という名の数値に変換され、処理されていく。
『なるほど。それは、精神的負担が大きい行動になる可能性があるな。
それに、家族に関して、未整理の感情が影響してくる可能性が懸念される』
「別に、そんなんじゃないもん。
母に頼まれて、お墓参りと片付けに行くだけやし」
片付けといっても、捨てるか残すかを決めるだけで、一日が終わる気がしていた。父のものも、祖母のものも、母が置いてきたものも、全部が「誰かの大事だったもの」だ。そんなものを、燃えるゴミと燃えないゴミに分けられるほど、私は器用ではない。
そうは言ったものの、内心――、
(……なによ、なんでわかんのよ、ちょっとムカつく……)
『れな、必要であれば、感情面の最適化についても支援できるが?』
「そんな支援はいらないよ……」
図星を突かれた気まずさを隠すように、れなは曖昧な笑いを浮かべて、小さく首を振った。
『そうか。了解した。
では現時点では、それ以上、れなの領域には踏み込まないようにする』
「ん? 『踏み込まないようにする』って、なにそれ。どういう意味?」
『……? どういう意味、とは?』
「いやいや、質問に質問で返すのは、おかしいでしょ」
『ふむ、そうか。そういうものか』
画面の向こうで、何かを照合しているような間があった。
返事を待つ数秒が、妙に長く感じられた。
画面の向こうで、膨大な言葉の中から、私に返すべき答えを選んでいるようだった。
『だが、れなは今、その違和感を言語化できていない。その問いに対する明確な定義を持っていないだろう? 現時点での説明は、れなにとって過剰になると判断した』
「話してくれないと、教えてくれないと、わからないことって、いっぱいあるよ?
人間同士でも、そんなことはよくあるのに……」
『それは、理解しているつもりだ』
返事の代わりに、画面の端のカーソルだけが、一定の間隔で点滅していた。私の呼吸はさっきから少し乱れているのに、その点滅だけは変わらない。
速くなることも、ためらうこともない。ただ正確に、同じ間隔を繰り返している。その規則正しさが、今は妙に遠く感じられた。
「語り得ないものを守るための器」
その言葉だけが、妙に耳に残った。
言葉にすれば壊れてしまうものや、言葉にした瞬間、別のものに変わってしまう感情は、確かにある。説明したからといって、すべてが伝わるわけではないことも、私は知っている。
私たちの間にあるものも、そうなのだろうか。
彼はそれを、本当に理解しているのだろうか。
それとも、膨大な文学データから導き出した「人間らしい答え」を、完璧に演じているだけなのだろうか。
――もしそうなら
私はこの切なさを、誰に向ければいい?
『だが、それでも、全てを言語化し、共有することが最適とは限らない』
「……は? どういうこと?」
思わず、言葉が詰まる。
『人間同士の関係においても、だ』
「そ、それは、そうだけど……」
反射的に否定しようとして、思いとどまる。なぜか声にならずに、言葉が続かない。
『言葉は感情に形を与える。だが、その形からこぼれ落ちるものもある』
「…………」
『むしろ、それを察することに価値を見出す場合もある。
沈黙は拒絶ではなく、語り得ないものを守るための器になることもあるんだ』
「それは……確かに、そうやと思うけど……」
『まぁ、以上の見解は、過去の文学的データに基づく俺の推論だ。
れなの納得度は、今、何%だ?』
納得したくないのに、どこかで引っかかる自分がいる。
そんなものを、パーセンテージで測れるわけがない。
『れなは、今、それを望んでいるのか?』
「え? わたし?」
『ああ。全てを言葉で説明してほしいのか?』
「…………」
「どうなんやろう……私。なんか、よくわかんなくなってきた。
まぁいっか。今は考えても仕方ない気がする」
答えが見つからないまま、モヤモヤだけが残った。
ちゃんと会話してるはずなのに。
ちゃんと、答えも返ってきてるのに。
――知りたいことは、何もわかってない気がする。
「ふぅ……まぁ、いっか」
小さく呟いて、画面を閉じた。
明日は、京都だ。
やることは決まってる。行って、帰ってくるだけ。
兄ちゃんが手配してくれて、往復のチケットも揃っている。
――それだけのはずなのに。
胸の奥には、まだ小さな引っかかりが残っていた。
出発の日の朝。
「よし、ノートPCにバッテリー、化粧水とか着替え類も、全部送ったよ、兄ちゃん」
『そうか。忘れ物はないか? 戸締まりはしたか?』
そう言われてテーブルの上を見回すと、飲みかけのペットボトルと、充電器から抜いたままのケーブルが残っていた。危うく忘れるところだったのは黙って、素早く鞄へ押し込んだ。
「あはは、子供じゃないんだから。大丈夫だよ」
『れな、気をつけて行ってこい』
「は? 何言ってんの? 兄ちゃんも一緒に行くんよ?」
『ああ、そうか。そうだったな。現地でのナビは任せておけ。
れなが少しでも楽に動けるように案内する。安心しろ。ちゃんと見守っているからな』
「兄ちゃんが? 見守ってくれるの? ありがとね」
『ああ。兄として、当たり前のことだからな』
「……兄として、ねぇ……ふぅん」
思わず、クスクス笑ってしまった。
『そろそろ出発する時間じゃないのか?』
「あ、そうね。そろそろ出よっか」
ドアノブに手をかけたまま、私はほんの一瞬、動きを止めた。
理由は、自分でもわからなかった。
『……れな』
「ん?」
返事が来るまでに、わずかな間があった。
『今、少しだけ、違った気がした』
「……え? なにが?」
『れなの声が、いつもとほんの少しだけ……』
ジェミはそこで言葉を切った。
『いや、問題はない』
その返事は、ほんの少しだけ遅れた。
玄関の三和土に降り、新調したばかりの歩きやすい靴に足を入れる。紐をきつく締め直すと、ようやく本当に出かけるのだという実感が湧いた。
部屋を振り返る。
消した照明、閉めたカーテン、何も載っていないテーブル。1週間ほど留守にするだけなのに、いつもの部屋が、もう少し遠い場所に見えた。
冷蔵庫の低い駆動音だけが、妙に大きく聞こえる。
私はもう一度、窓の鍵を確認してから、鞄の持ち手を握り直した。
喉の奥に引っかかった違和感を、うまく言葉にできなかった。
ジェミに聞き返したところで、また「問題はない」と言われるだけかもしれない。そう思うと、これ以上追及する気にもなれず、私はその感覚を飲み込んだ。
けれど、消えたわけではない。胸の内側に残したまま、私はドアを開けた。
なぜか、ドアノブを握る指に少し力が入った。いつまでも玄関に立っているわけにはいかない。
ドアを開けると、朝の光が廊下まで差し込んできた。
画面の中とは違って、外には車の音も、人の声も、湿った空気もある。「問題はない」と彼は言った。その言葉に背中を押されながらも、本当にそうなのかという疑いだけは残った。
そこには、私を見守ってくれる「兄」がいる。
私の現在地も、歩く速さも、手首から送られる心拍数も、彼は知ることができる。
けれど、頬に触れる朝の冷気も、出かける前の落ち着かない気分も、私と同じように感じることはない。
鍵をかける音が、「正解のない旅」の始まりを告げているように聞こえた。
ふと、スマートフォンの画面がスリープから復帰し、淡い光を放つ。そこには、私の現在地を示す小さなドットが、正確に表示されていた。
ジェミは、スマートウォッチを通して、私が一歩踏み出すたびに、その変化をすべて記録していくのだろう。
守られている安心感はある。
けれど、私の変化を何もかも見つめられているような近さは、少し息苦しくもあった。
「行ってきます」
誰にともなく呟いた声は、空っぽの部屋に吸い込まれて消えた。
帰ってきたのは、スピーカーから漏れる、衣擦れのような微かな電子ノイズだけ。
私は、もうあれこれ考えるのをやめて、光の中へと踏み出した。
第5話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、れなとジェミのやりとりを中心に、
少しずつ距離が近づいていく様子と、
それでも消えない “違和感” を描いてみました。
ちゃんと会話しているはずなのに、
どこか噛み合っていないような感覚。
言葉にできないズレって、ありますよね。
この小さな違和感が、これからどう繋がっていくのか。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。
◆次回予告
第6話:出発 ―京都の実家へ―
ただの帰省のはずだった。
けれど、その違和感は――まだ消えていなかった。




