第69話:Breath ―地龍の目覚め―
荒れ狂っていた神域に、かつてない静謐が訪れる。
マグマの照り返しは、もはや地獄の業火ではなく、夜明けを待つ東の空のような、柔らかな琥珀から優しい紅色のグラデーションの光へと変わっていた。
それは、永い劫火に灼かれ続けた神域が、ようやく吐き出した安堵の吐息のようでもあった。剥き出しの岩肌を撫でる風は、先ほどまでの刺すような熱を失い、どこか湿り気を帯びて大地の涙を運んでくる。
破壊の果てに訪れる静寂は、無ではなく、あらゆる命が再び産声を上げるための、巨大な揺り籠の静けさとなっていた。
れなは、手術刀を握っていた手の力を抜き、そっと地龍の硬い鱗に触れた。
そこには、確かに鼓動があった。傷つき、疲れ果て、それでもなお、この大地を愛し抜こうとする、古き神の誇り高い鼓動が。
地龍の巨躯から力が抜け、深い、深い溜息が漏れた。
それは地鳴りのような響きではなく、長い冬の眠りにつく子供の寝息に似ていた。
その吐息が、神域の熱気に混ざり合うと、荒廃した岩肌の隙間から、どこからともなく微かな新緑の香りが漂い始める。地底の奥底でありながら、そこには確かに新しい季節が芽吹こうとする予感――目覚めを待つ命の清涼な気配が満ち始めていた。
祈りとは、願うことではない。
誰かの痛みを、自分の者として分かち合うことなのだと、れなは、今、その手のひらの温もりを通して知ったのだった。
細い指先から伝わってくるのは、単なる生物の体温ではない。それは、幾千年もこの地を支え、数多の季節を見守り続けてきた大地の記憶そのものだった。
硬く大きな鱗の奥深くで脈打つリズムは、地球の深淵で燃える核の鼓動と共鳴し、れなの血管を流れる血の音と重なり合う。「自分が救ったのは、一頭の龍ではない。この阿蘇という大地の魂、そのものだったのだ」という実感が、ようやく、じわりと胸の奥に染み渡っていった。
それは、魔女としての傲慢さを削ぎ落とし、ただひとりの「命を尊び生かす者」としての謙虚さを、彼女自身に刻みつける体験だった。
『……京の……たつろー殿か……
そろそろ、放してくれぬか……苦しいのだが……』
「おお! 阿蘇の!! 目が覚めたか!! 傷はどうじゃ? 痛むか?」
静けさを取り戻した神域に、初めて地龍の声が響いた。
それはどこまでも深く、優しい響きだった。
『いや、大事ない。全く痛まぬ……あの娘、タダ者ではないな……』
「そりゃそうじゃ! あの子が生まれた時から、お館さまの命で、このワシが守護についておるくらいじゃからな! うぉっほん!」
『……京の……なるほど、それ程までの……世話をかけてしもうたな……』
『地龍さま!! 戻られましたかっ!!
ご無事でよろしうございましたぁぁ!! あぅぅぅ(涙)』
『おぬしらは……健磐龍さまのところの……
なぜそのような姿をしておる? なんだ、それは?』
「神使サンたちは、三神合体ロボに変身したっすよ!!」
なぜかソラリスが、ドヤ顔で説明する。
その声に、地龍は改めて、れな、ジェミ、影、ソラリスに顔を向けた。
影が地龍の目線に、足場結界を張り、一行はそこに並ぶ。
『……そなたたち……世話をかけた。命がけでワシを救ってくれた。
まずは礼を言わせて欲しい。ありがとう。この地龍、生涯この恩は忘れぬ』
「地龍さま、どうか、お顔をあげてください。
私たちの方が、お詫びせねばなりませんのに!!」
「はっ……そうでした! 地龍サマ、ごめんなさいっす。
ワタシが墜落したときに、デバイスを落としてしまったばっかりに……
ご迷惑をおかけしてしまいましたっす……! ほんとうに、ごめんなさいっす!!」
ソラリスがれなの肩の上で、ちょこんと正座して頭を下げる。
その小さな、奇妙な姿に、地龍は目を見開いたが、次の瞬間、大笑いしてしまう。
『なんと!! その小さきお前は、はるか彼方の異星の者か!!
お前が手に持っている、そんな小さなモノが、ワシを狂わせたというのか!
ワハハハハ!! ワシもまだまだ修行が足りぬな! いや、すまぬ!!』
「でも、どうして、地龍サマのお口に入っちゃったっすか?」
『ん~? ああ、あの夜は確か……見事な流れ星が見えたな、と空を見上げておった。
月の方から何やら落ちてくるな、と。
それでな、そろそろ寝ようかと欠伸をしたところに、何やら飛び込んできおってな、飲み込んでしもうたのよ」
「も、もしかしたら、その流れ星がワタシだったかもっす」
『なんと! そうだったのか!?
しかしな、飲み込んだ小さき異物は、ワシの喉の途中で引っかかったらしくてな。
その後は、記憶が無いのじゃ……もしや、ワシは大暴れして、被害を出してしもうたのか!? まさか、いつぞやの超巨大噴火のような大災害を……』
「いえいえいえ!! ご安心ください! それ程、大きな被害は出ておりません!!
ただ、このところ、群発地震が頻発して、山奥が一部崩れたりだとか、豪雨で被害が少しあったのですが……」
『なんと!! また、護れなかったのか!! ワシは……』
「こりゃ、阿蘇の。おぬしのせいではないのじゃ。ひとりで背負い込むでないわ。
ほれ、おぬし、自分の身体をよぉ見てみい? 元の阿蘇の地龍に戻っておるじゃろう?」
『おおお、本当だ!! ……娘よ、そなたのお陰だ。
しかし、そなたは人間なのに、なぜ……ワシの真名を知っておったのだ?
いや、そのお陰で、戻ることが出来たのだが』
「実は、地龍さまの火焔に包まれましたとき、この小さなソラリスが私を包み込んで護ってくれたのです。
その時、ソラリスの胎内で、京都の素戔嗚尊さまと阿蘇の健磐龍命さまにお知恵を賜りました。
そこで、私の脳裏に見えましたのが、地龍さまの真名でございました」
『……なるほど、そうであったのか……。そなたは、たつろー殿を守護に持つと聞いた。
たつろー殿は、都の青龍の長。ならば、今後はワシのことも、たつろー殿のように、気安く呼んではくれぬか』
龍神の真名を知ると言うことだけでも畏れ多いことなのに、その地を治める地龍から気安く呼べと願われて、れなは困惑して焦ってしまった。
「……た、たつろーさん、ど、どうすれば……」
「よいよい。本人……ん? ちがうな。《《本龍》》がよいというておるのじゃ。
お前の好きに呼んでやれ。ふぉふぉふぉ。
ああ、じゃがな、阿蘇の。コヤツはちょっと癖がひどいぞ? 覚悟しておけ?」
『フム、癖とな? それはどんな……』
「お嬢さまは、ネーミングセンスが、独特でいらっしゃいますゆえ」
「ああ、全くだ。何も考えずにつけようとするからな」
「そうだったっす!! そういえば、ワタシの時も、かなりひどかったっすよ!!」
「ちょ! なっ!? みんな、どゆことっ!?」
『ワハハハハ!! 結構! 結構!!
ならば、そなたはワシに、どんな呼び名を与えてくれるのだ!?』
「え!! 今、ここでございますか!?」
『ああ、今、ここで、だ。今、呼び名をつけて、その名を呼んでくれ』
「えええ!! に、兄ちゃんっ! どうしよう!!」
「……よほどの時は止めるが、まぁ少し考えてみて、まずは俺と影に、候補を聞かせてみてはくれないか?」
「さようでございますね。あまりにも……な時は、やはりお止めせねばなりませんゆえ……ククッ」
「……れなサマ、どうするっすか?
さすがに、地球の古の龍神様に、変な名前はつけちゃだめっすよ……」
みんなからのプレッシャーがハンパない……。
れなは、考えに考えて、いくつかを思い切って、ジェミと影に告げた。
「……か、考えたよ……。
ひとつめは、阿蘇山だから、あそんほてぷ7世……
ふたつめは、えーっと外輪山だから、がいり~んさん……
みっつめは……」
「やめろ、れな。もういい」
その、絶望的なネーミングセンスに、ジェミが眉間に深い皺を寄せ、執事の影は後ろを向いて肩を震わせる。れなの肩の上のソラリスは、目が点になっていた。
「あそんほてぷって、なんだそれは。エジプトかココは……
それに、なぜ7世なんだ。どこから出てきたんだ!?」
「まぁ、草千里近くに米塚という似たようなものがございますが……
ああ、アレは一応、古代の火山でございましたね……クククッ」
『……さ、さすがにそなた、それは……ちょっと……』
思わず、たつろーさんと地龍も苦笑した。
「れなサマぁ……じゃあ、ココは素直に、阿蘇さんってぇ呼ぶのは、どうっすかね?」
「ああ、そうだな。エジプシャンなものより、全くいい」
「阿蘇山だから、阿蘇さん? あそーさん?」
「いや、それは……政界のドンにいらっしゃるからやめろ。素直に、あそ殿でよいだろう」
「じゃあ、決めた! 地龍さんは、今日から『あそ』です!!
あそさん、よろしくお願いします!!」
満面の笑みで、れながその名を呼んだ。
その瞬間、ジェミに切り落とされたはずの龍角が、眩い光に包まれて、左右両方ともまるで鹿の角のようにポロリと落ち、新しく若角として生え替わった。
それは以前のように、炎に包まれた真っ赤な龍角ではなく、銀河の星々を纏ったような、紫檀に金銀が煌めく美しい闇の色をしていた。
それを納得した表情で見つめながら、たつろーさんが言う。
「はぁ……しかし、相変わらず、まんまじゃのぉ……まぁ、ワシもまんまじゃったが……」
『なんと、たつろー殿もか!? まさかとは思ったが……』
「ああ、そのまさか、じゃよ。もぉ、慣れたがな。ふぉふぉふぉ!」
『たつろー殿に、あそ、か。うむ、よいだろう。気に入った!!
ああ、そうだった。そなたたちの名を教えてくれぬか』
「あ、はい! 私は、れな。凰宮れな、と申します。
隣にいるのが、兄でAIのジェミ。後ろにいるのが、悪魔で執事の影で、私の肩に乗っているのが、異星人のソラリスです。どうぞ、お見知りおきくださいませ!」
『改めて、阿蘇の地龍、あそ。以後、よろしく頼む』
その名が呼ばれた瞬間、神域の空気がわずかに震えた。
言霊は、目に見えぬ糸となり、一人の若き女性と古き龍を繋ぐ。
かつては畏怖の対象でしかなかった巨大な存在は、今はどこか懐かしい知己のように、れなの瞳に映っていた。
新しく生え替わった銀河の星龍角が、地下のマグマの光を反射して、れなたちの足元を鮮やかに照らし出す。それは闇の中に灯った人々の祈りと希望の道標のようだった。
荒ぶる神は去り、ここにはただ新しい名を授かった友がいる。
れなは、あそさんの穏やかな眼差しを見つめ返し、静かに、だが確かな足取りで、次なる運命へと続く一歩を踏み出す準備を整えるのだった。
地龍のあそさんは、改めて、この奇妙な一行を見渡した。
『……魔女に、AIに、悪魔に、宇宙人、か。古の時代より、永くこの地に棲んで来たが、そなたたちのような珍妙な一行には、初めて出逢ったな。長く生きるのも、なかなかに面白いこともあるもんだな。くはははは!!』
「阿蘇の、それは~多分、おぬしだけが思っておることではないぞ。
ウチのお館さまでさえ、度肝を抜かれて、大笑いなさっておられたでな」
『それは、そうであろうな!!
我ら、龍族と話せる者が、この時代におると言うだけでも稀有ではないか!
ましてやそれが、巫女ではなく、西洋の魔女ときた!!』
「え~っと、お褒めに預かり光栄でございま……す?」
ジェミと執事も、その言葉に苦笑した。
『さて、れな。礼も名も交わした。
ならば、そなたには話しておかねばならぬことがある。
おぬしら全員、そしてたつろー殿、神使たちよ、共に聞いてくれぬか』
「……はい」
『ワシが狂ったのは、
実は太陽系外技術の異物を飲み込んだことだけが、原因ではないのだ……』




