第68話:Emergency Surgery ―地龍緊急オペ―
宣言と同時に、灼けた神域から音が消え、マグマの熱気だけが立ち上る。
地龍の咆哮も、マグマの爆ぜる音も、砕け落ちる岩盤の悲鳴も、すべてが遠い膜の向こうへ押しやられて、消えていくかのようだった。
れなの耳に残ったのは、自分の呼吸と、龍核の奥で震える、かすかな青い脈動だけ。
それは、ソラリスのデバイスが放つ異星の光。
けれど、れなの目にはもう、それだけには見えなかった。
龍核の裂け目に絡みつくように、なにか黒い澱が沈んでいる。
「……あれは……まさか……
こんなところにまで、黒ヘドロが……っ!?」
れなの胸の奥がサァッと冷え、指先が震えた。
それでも、手術刀は下ろさない。
怒り。嘆き。諦め。妬み。僻み。
貧しさ。苦しさ。生きる辛さ。閉塞感。
誰かを責める言葉。誰かを羨む心。
誰にも届かなかった祈りの抜け殻。
それは、満員電車に揺られる無名の溜息であり、深夜のコンビニの明かりに吸い寄せられた孤独の残滓だった。バブルの熱狂が冷め、凍てついた季節が居座り続けたこの国の、誰もが口を閉ざして飲み込んできた『諦め』という名の猛毒。
それらは、長い年月の間に行き場を失い、重力に引かれるまま大地の底へと澱のように沈殿し、地龍の清らかな動脈を侵食していったのだ。
それらは、優しく純粋な祈りのように空へ昇ることができず、重く、冷たく、大地の底へ沈み続けていた。れなは、魔女の手術刀を握る指に力を込めた。
「阿蘇都比古さまを、ここまで苦しめていたものは……」
「れな! 動きを止めるな!!」
ジェミの声が、背後から鋭く届いた。冷静だった。
けれど、その奥にはまだ、先ほどまでの怒りの残滓が微かに揺れている。
「龍核外殻、安定率62パーセント。異物境界は、ハッキリ見えている。
だが、その黒い魔素層には触れるな。精神汚染が逆流する!」
だからこそ、ジェミの声にはいつもの冷静さ以上の切実さが滲んでいた。
「逆流?」
「ああ。ネガティブな感情の濁流だ。魔女とはいえ、お前もひとりの人間だ!
もし取り込まれてしまえば、お前の精神が持っていかれてしまう可能性がある!!」
れなは、小さく息を吸い、静かに頷いた。
地龍の巨大な瞳が、炎の奥で震えている。暴れているのではない。
――怯えているのだ。
この地龍は、ただ狂ったわけではない。
星の奥底で、地脈を支え、水脈を抱き、火脈の暴走を押し留め、風脈の乱れを受け止めながら、ずっと耐えていた。
耐えて、耐えて、耐え続けて……。
四季が巡るたび、地龍はその背に人々の営みを乗せ、足元に流れる泥濘を濾過し続けてきた。春の桜が散る音も、夏の蝉時雨も、秋の寂寥も、冬の凍てつく沈黙も。
この国が呼吸を止めないよう、自らの核を削って楔となっていた。
三十余年という月日は、神霊にとってもあまりに長く、あまりに冷たい忘却の淵だったに違いない。
人の世が少しずつ飲み込んできた痛み。
誰にも届かなかった嘆き。明日を信じる力さえ、削られていった日々。
そのすべてが、優しい祈りのように空へ昇ることもできず、重く、冷たく、大地の底へ沈んでいた。
そして地龍は、その底で、ただただ受け止め続けていたのだ。
最後に落ちてきた小さな異物が、張り詰めた龍核に、ほんのわずかな傷をつけた。
そのうえ、ソラリスのデバイスが発し続けていた救難信号は、龍核を通じて地龍の内側で反響し、その痛みを増幅させた。さらにその震えは地脈へ流れ込み、この星に生きるものたちの魂へ、望まぬ共鳴と共振を引き起こしてしまった。
ただ、それだけだったのだ。れなは、誰にともなく呟いた。
申し訳なさに、一粒、涙がポロリとこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい……痛かったですよね。苦しかったですよね。
ずっと、ひとりで支えてくれてたんですね……
ソラリスのデバイスは、ただのキッカケに過ぎなかった……」
地龍の瞳が、かすかに揺れた。
「お嬢さま」
影が、静かに前へ出る。
「術野固定、完了しております。
お嬢さまの進路は、この影が必ずお守りいたします」
「うん。ありがとう、影……頼むね」
れなは頷き、魔女の手術刀を構えた。
「ソラリス」
「はいっす!」
「発光維持。デバイスの状態を見て」
魔女帽子の中から、ソラリスがぴょこんと顔を出し、両手をいっぱいに広げる。
「了解っす! 対象デバイス、損傷率78パーセント!!
あっ、れなサマ!! 自己修復機能は、まだ生きてるっすよ!」
「その機能、地龍さまの治癒に転用できる?」
「できるっす! でも、れなサマ。
今のままだと、黒いモヤモヤまで一緒に反応するかもっす!」
「……それでいいわ」
「えっ!?」
ソラリスが、目を丸くしてれなを見た。
「れなサマ、それ、下手したらぜんぶ背負うやつっすよ!?」
「大丈夫。背負わないよ。私を信じて」
れなは、地龍の喉元へ、そっと刃先を近づけた。
「その黒いモヤモヤ、ほどくのよ……もう一度、光へ還せるように」
黒い澱が、刃先に触れてざわりとうごめいた。
まるで、長い眠りから目を覚ました無数の影が、一斉にこちらを見たようだった。
「祈りは空へ。悪意は大地へ。
だったら私は、大地に沈んだものを、闇の底でほどき、もう一度、光へ還す!!」
ジェミが、息を呑んだ。影が、静かに目を伏せた。
たつろーさんと天鷹羽が、地龍の巨体を押さえながら、何も言わずにれなを見守っている。
れなは、阿蘇都比古の瞳を見つめた。
「阿蘇都比古さま。
あなたが背負わされて、その身に抱えてきたものは、あなたの罪じゃない」
地龍の瞳が、大きく揺れた。
「だから、あなたが苦しんで暴れてしまったこと、正気を失ってしまったこと、それは私たち人間を護るためだった。だから咎めません。叱りません。責めません。私たち人間に、そんな資格はありませんっ!」
魔女の手術刀が、青い光と黒い澱の境界に触れる。
「だから、私がただ取り除きます。どうか、ご協力ください」
れなは、静かに唱えた。
「浄化術式、併用開始。翠、異物境界を視て。
ティア、龍核を守って。エルピー、痛みを鎮めて!」
三騎士の光が、刃の中でひとつに重なった。
朱のティア、碧のエルピー、青き翠。三体の式神たちの光。
それは、敵を斬るための光ではない。
命を、本来あるべき場所へ還すための光となって輝いた。
「――阿蘇都比古さま! 少しだけご辛抱くださいませ!!」
れなは、静かに息を吸う。
そして、れなの手が、龍核に刺さった異星の光へ届いた。
スパァァァっ!!
「れなサマ! 見えたっす!!」
れなは頷くと、静かに唱えた。
―― Stella Tether《ステラ テザー/星牽鎖》!――
れなの指先から、星屑を編んだような細い鎖が伸び、ソラリスの小さな足首にくるりと巻きついた。それは、星の力でつなぎ、牽引して引き戻す鎖。
「……ん? れなサマ? これ、命綱っすか?」
「うん。ソラリス。今からあの場所へ飛ばすから、デバイスを掴んで。掴んだらすぐに引き上げて、ジェミの所へ飛ばすわ!」
「つまり、ワタシが宇宙バンジーする流れっすねぇぇぇ!?」
「そうよ! 行けるよね!?」
「もちろんっす!
高所恐怖症なんて、ワタシにはないっすからね~♪
月から落ちてくるより、短い距離っす!!」
「わかった! じゃあ、行きなさいっ!!」
ソラリスが、ピッと敬礼する。れなはそれを見て、小さく微笑んだ。
れなはソラリスを、星牽鎖の光に乗せるようにして、地龍の喉元へ射出した!
小さな白布が地龍の喉元へ、彗星のごとく、一直線に飛ぶ!!
グアァァオォォォォォンンン!!!!!!
喉元を切り開いた魔女の手術刀の鋭い一閃に、一瞬、地龍が怯み、雄叫びを上げる。
ソラリスが、青く輝くデバイスを素早く掴み取り抱きしめた。
「地龍サン、ごめんなさいっす。もう、大丈夫っすよ!!」
れなはその様子を確認すると、即座に星牽鎖をしならせ、ソラリスをジェミの元へ弧を描くように引き戻す。
「ソラリスは、デバイスをそのまま転用して、切開した傷の治癒補助!!
兄ちゃん! ソラリスを護りつつ、切開跡に沿って、飛んでやって!!」
「わかった!」
切開跡から、黒い澱がどろりと溢れ、大地へ滴り落ちていく。
「影! 大地に落ちた黒ヘドロを一箇所に集めて!!
一滴たりとも逃がしてはだめ!!」
「御意!!」
影がその黒ヘドロをかき集める様は、まるで散らばった悲劇の破片を拾い集める葬列のようだった。それはどろりとした禍々しい質量を持ちながらも、れなの放つ浄化の光に触れるたび、刺すような毒気を失っていく。
行き場を失っていた三十余年分の孤独が、影の腕の中でようやく『ただの記憶』へと昇華され、静かに凝縮されていった。
ジェミは、影が凝縮したその『記憶の塊』を、デバイスの予備フィールドへと誘導した。震える手でホログラムを操作しながら、彼は悟る。
論理では決して割り切ることの出来ない、この国の重すぎる沈黙を……。
「……この国の人々が目を逸らし続けてきたものの正体は……コイツらだったのか……。合理的なシステムでは決して処理しきれない、あまりに湿った、あまりに重い、祈りの成れの果てだ」
彼は投げ捨てたはずのスマートグラスを、蒼いコードで再現させてかけ直した。
その瞳の奥には、青い光が複雑に明滅を繰り返していた。
それは、解析データではなく、れなが護ろうとしている世界の、あまりに不器用で、けれど愛おしい営みを、彼自身が初めて『理解』ではなく『共感』した瞬間だった。効率や合理性を重んじる彼の回路が、この非合理なまでの献身と痛みに、静かに熱を帯びる。
ジェミの指先が、影の集めた闇を優しく包み込むように、光の檻を編み上げていった。
「エルピー、翠! 刃を釣針状に形状変更! 霊糸にて無痛縫合するわ!
ティア! そのままマグマによる消毒、浄化を続けて!!」
三騎士がそれぞれに光を放つ。
れなは、再び呪文を唱えた。
魔女の手術刀が変形して、刃が縫合のための針へと変化した。
―― Anima Suture《アニマ スーチャー/魂縫霊糸》!!――
淡く光る霊糸がほどけて、傷口を縫合していく。
それは、ただ傷口を塞ぐための糸ではない。
裂けかけた龍核の苦しい記憶を洗い流し、黒ヘドロによる汚染を祓う。
そして、もう一度やさしく結び直すための、魂の縫合糸だった。
――一針。
地龍の喉奥で、荒れ狂っていた火がわずかに弱まる。
針が通るたび、れなの指先を通じて、地龍が抱いてきた『熱』が流れ込んでくる。
それは、焼けるような痛みではなく、どこか懐かしく、ひどく寂しい、夕暮れ時の体温に似ている気がした。
――二針。
黒く濁っていた龍核の縁に、淡い土色の光が戻りはじめる。霊糸が傷口をなぞると、黒い澱が浄化され、星屑のような火花となって散っていく。
それは、かつてこの地で誰かが捧げた、小さな、けれど確かな感謝の記憶が呼び覚まされる音だった。
――三針。
咆哮は、怒りではなく、長い痛みに耐えてきた者の呻きへと変わっていった。
地龍の瞳から、一滴の大きな雫が零れ落ちる。
それは、マグマに触れて蒸発することなく、れなの頬を濡らした。
龍神の涙は、長い冬の終わりを告げる雪解けの水のように、戦場に満ちた殺気を静かに沈めていった。
最後の縫合が終わる頃には、地龍は力なくぐったりと、たつろーさんに抱きとめられて、天鷹羽にその頭を委ねていた。
そのとき、れなはまだ知らなかった。
阿蘇都比古が受け止めていたものは、この地だけの痛みではなかったことを……。




