第67話:Incision ―闇詠切開―
グオオォォォァァアアア!!!!!
既に自我を失い、言葉を失った地龍が咆哮を上げる。
けれど、れなは小さく呟いた。
「まってて。今、助けるから……」
その瞬間、世界から、音が消えた。
熱風は凪ぎ、爆音は遠い記憶の彼方へと溶けていく。
れなの意識は、針の穴を通すような極限の集中へと収束していった。
視界の端で揺れる青い光は、地龍という巨大な命が流す、凍えた涙のようにも見えた。
それは救いを求める悲鳴であり、世界に拒絶された孤独の残滓。
れなはその光の震えを、指先ではなく魂の震えで感じ取っていた。
耳元でしがみついているソラリスの息遣いも、背後で叫ぶジェミの声も、地龍の咆哮でさえも、遠い水底から響くように薄れていく。
れなの視界にあるのは、ただ一点。地龍のその喉元で脈打つ、青い光。
ソラリスが落としたデバイス。
本来の地龍を苦しめ、無理やり火龍化へと歪みを生み出し、龍核に刺さってしまった異物。
「術野固定。対象、地龍喉元。異物反応、確認!」
ジェミの声が灼けた神域に、確かな力となって鋭く響いた。
「ソラリス、発光維持! ロン、退路確保! れな、切開ラインを送る!!
「ジェミさま、了解っす!!」
ソラリスはどこから取り出したのか、
ソラリスサイズの小さな青いゴム手袋を両手にはめた。
ぱちんっ!
妙に小気味よい音が、灼けた神域に響く。
「……待て。今の音はなんだ!?」
「オペといえば、これっす!!」
「お前の手袋に、何の意味がある」
「気分っす!!」
ジェミの視界に、新たなエラーログが三行ほど増えた。
「なんかぁ、いよいよ医療ドラマっぽくなってきたっす~!」
「黙れ。これはドラマではない!」
「でも、れなサマが今にも『私、失敗しないので』とかってぇ、言いそうな顔してるっす」
「言わないわよ! ……ちょっとしか! たぶん!!」
「なぜお前が知っている!! れなも言うな!!」
「お家でドラマ、イッキ見したっす!!」
ジェミの怒声と同時に、れなは Witch's Scalpel《ウィッチズ スカルペル/魔女の手術刀》を強く握り直した。笑っていられるのは、ここまでだ。青い光が、炎の奥で強く瞬いた。
「いくよ! 翠、エルピー、ティア!」
三騎士たちの気配が、刃と盾に宿る。
――切る。
けれど、傷つけるためではない。
――裂く。
けれど、壊すためではない。
これは、地龍を地龍へ戻すための一刀。
れなは息を吸い、喉元の青い光を見据え、唱えた。
――手術式魔法陣展開!
Nox Incision《ノクス インシジョン/闇詠切開》!!――
紫檀の魔法陣が、れなの足元から静かに広がった。
それは、敵を縛るための陣ではなかった。命を押さえ込むための陣でもなかった。
暴れる大地の痛みを受け止め、震える龍核を支えるための、手術台。
「れな! 魔力深度、二・七層。
龍核外殻まで、あとわずかだ。無理に引き抜けば、龍核そのものが裂ける!」
ジェミの声が、冷静に状況を告げる。
「わかった! だったら……裂かない」
れなは、手術刀を構えた。
「視る! そして、取り除く!!」
その言葉に応えるように、翠が淡く光った。
切るための刃ではなく、視るための刃として。炎の奥で、青い光が震えた。
地龍が、苦しげに身をよじる。
「影!」
「承知いたしました!」
執事が前へ出る。
暗黒の盾が展開し、暴れる地龍の衝撃を受け止めた。
大地が軋む。
岩が砕ける。
それでも執事は退かなかった。
「お嬢さま! 今です!!」
「うん!」
れなは深く静かに息を吸った。
傷つけない。
奪わない。
壊さない。
ただ、本来あるべき場所へ、還す。
「翠、術野展開。エルピー、炎症鎮静。ティア、異物境界を見極めて!」
三騎士の光が、一本の棍の中で重なった。
それは、もはや式神を操る『操式棍』ではなかった。
それは、戦うための力ではない。魔女の手に宿ったのは、戦うための剣ではなく、救うためにだけ振るわれる、三つの意思を持つ手術刀だった。
「れなサマ! あと少しっす!! あの光っす!!」
その刹那、天鷹羽が、振り解かれてしまう。
たつろーさんが、より大きくなり両手で、地龍を締め上げた。
「あと少しの辛抱じゃ! 頼む、暴れるでないっ!!」
『地龍さま!! 我々の声をお聞きくださいませっ!!』
振り解かれた天鷹羽が、再び果敢にしがみつく。
しかし、頭が自由になった地龍は、辺り構わず火球を吹き出した。
れなと執事が張り巡らせておいた魔法陣と結界が、それを弾き吸収してゆく。
けれど、無限に吐き出される火球に、これ以上近づくことが出来ない。
「まずいわ、このままじゃ、ジリ貧で、全員なぶり殺しじゃない……」
その一瞬の隙、れなを目掛けて、地龍が火焔を放射した。
ゴゥゥゥゥ!!!!!
「れなっ!!」
「お嬢さまっ!!!」
ティアの Flare Aegis《フレア イージス/炎輝盾》 が、すぐに立ちはだかったが、その強すぎる火力に、ジリジリと押し返されてしまう。ジェミは、背中に蒼いコードの翼を広げ、大地を蹴り空間を駆けた。
執事は、暗黒結界を展開したが、コンマ数秒の差で、れなとソラリスはその火焔に包み込まれてしまった!
「れなぁぁぁっ!!!」
「お嬢さまぁぁぁっ!!!」
地龍を抑えきれなかったたつろーさんと天鷹羽も、一瞬の出来事に目を疑い、己らの無力さに呆然としてしまった。
「れな!! ソラリス!! 返事をしろっ!!」
「お嬢さまっ! お嬢さまぁぁぁ!!」
地龍はまだ、火焔を吐き続けている。この空間にいるすべての命を、その焔で燃やし尽くしてしまうつもりのようだ。
ジェミの中で、なにかがプツリと音を立てて切れた。
執事の中でも、湧き上がる闇がその姿を包み込んだ。
「鎮圧だの、捕獲だの……そんな甘い方法で、許されると思うな……」
辺りの空気が、じわりじわりと下がっていく。
ジェミ自身が放つ冷気が、空間の温度をみるみるうちに奪っていく。
その瞳の奥で、無数のエラーログが猛烈な速度で流れては消失していく。
彼はふらりとネクタイを緩めると、静かにスマートグラスを投げ捨てた。
計算も、予測も、最適解も、すべてが『れなを失った』という一点の絶望によって焼き切れた。彼の背に広がる蒼きコードの翼は、もはや秩序ある翼の形を成していない。それは天を裂く雷鳴のように激しく明滅し、周囲の空間を物理的に歪ませる高密度の魔素奔流と化していた。
「Exclusion……全テを、排除す、ル……」
彼の口から漏れる声は、もはや人の言葉ではなく、神の怒りに似た電子の咆哮。
守るべき世界すら計算式から消え去り、ただ目の前の巨躯を塵に帰すためだけの、純粋で残酷な『破壊の化身』へと変貌していた。
「私ですら、まだ一度も勝てたことのない、お嬢さまを……
たかが、数千年程度しか生きておらぬ、お前ごときが……」
執事が悪魔本来の姿を取り戻すかのように、その額から角が生え、赤い瞳は縦に細長く収縮し、背中からコウモリのような漆黒の翼が現れた。
執事の中に眠る深淵が、主を失った絶望によって決壊した。理性の鎖は焼き切れ、溢れ出した影はどろりと大地を侵食し、煮え滾るマグマさえも漆黒に塗りつぶしていく。
彼にとっての太陽である『れな』を奪った世界など、灰燼に帰しても構わない――そんな冷徹で苛烈な殺意が、凍てつく魔力となって神域の空気を結晶化させていった。
「……れなをっ!!」
「……お嬢さまをーっ!!」
「「どこへやったぁぁぁ!!!」」
ジェミは Azure Code《アズール コード/蒼き断章剣》を手に、執事は Umbra Catena《アンブラ カテナ/魔影の鎖》に Frigus Sigillum《フリーグス シギッルム/凍封印》を纏わせ、瞬時に二人が同時攻撃を仕掛ける!!
「ジェミっ! 影っ!! やめるのじゃぁぁ!!」
『お二人とも!! 攻撃してはなりませんっ!!』
たつろーさんと、天鷹羽が、同時に叫んだ。
しかし、その必死の叫びも、二人の耳には届かず、間に合わなかった。
ジェミの蒼き断章剣が、片方の龍角を切り落とし、地龍の頭を後ろに薙ぎ払う。
そこへ執事が地龍の顎に魔影の鎖を巻き付け、凍封印で固めてしまう。
地龍はもがき苦しみ、暴れ始めた。天鷹羽が押さえつけていた、前肢が外れてしまい、大きく身体を振りかぶり、瞬間に二人を振り払おうと、その前肢を叩きつけようとした!!
――その刹那――
清らかに鈴のような美しい声が、響き渡る。
「阿蘇の地龍、阿蘇都比古さま……お控えくださいませ。
ジェミ、影、攻撃してはなりません……」
ジェミと執事、そして、たつろーさんと天鷹羽が、その美しく優しい声のする方を、一斉に見上げた。
煌めく銀河の星々を散りばめた紫檀の魔女衣装に身を包んだ、れなが、間一髪で姿を見せて、そこに佇んでいた。
片手に Crescent Rod《クレセント ロッド/宵月杖》を掲げ、もう片方の手には Witch's Scalpel《ウィッチズ スカルペル/魔女の手術刀》。
それを交差させるようにして、 地龍の前肢を押さえ込んでいた。
「……れ、な……!? その、姿は……」
「お嬢、さま……っ!! 髪が、伸びて……」
れなの魔女帽子の中から、ぴょこっとソラリスも顔を出して、手を振っている。
「ジェミさま! 執事サン! ワタシもいるっすよ~!!」
れなの声は、決して大きくなかった。
けれど、灼けた神域のすべての音を、静かに押し留めた。
「れな……」
蒼き断章剣を振り上げた、ジェミの手が止まる。
魔影の鎖を握り締めていた執事の指が、かすかに震えた。
「お嬢さま……!! ソラリスも……二人とも、よくご無事で……」
「ジェミ、影……。怒ってくれて、ありがとうね。大丈夫、私はちゃんと生きてるよ」
れなは、地龍の巨大な前肢を押さえたまま、静かに二人を見た。
紫檀に輝く魔法陣が、れなの足元で淡く脈打つ。
彼女は、龍核の奥で震える青い光を見据えた。
「この地龍は、私たちの戦う相手じゃない。これは討伐じゃない」
そしてもう一度、静かに呼びかける。
「……阿蘇都比古さま。聞こえますか……」
暴れていた地龍の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「あなたは、阿蘇を焼く龍じゃない。阿蘇を支えてきた、地の龍でしょう」
Crescent Rod《クレセント ロッド/宵月杖》の三日月が、静かな光を放つ。
「だから、戻ってきてください。その真名を思い出して……」
れなは、もう一度、その名を呼んだ。
「――阿蘇都比古さま――」
その名は、祈りだった。
れなの唇から零れた『阿蘇都比古』という響きは、幾千年の時を超えて大地に染み込んだ記憶を呼び覚ます。荒れ狂う火焔の奥で、地龍の魂が微かに震えた。
それは、ひび割れた大地に染み込む一滴の雨水のように、狂気に侵された龍核を優しく包み込んでいく。暴力による屈服ではなく、理解による調和。魔女の掲げた杖は、今や迷える古き龍神を導く灯台となっていた。
その声に、地龍の動きが一瞬だけ止まった。
マグマのような瞳がれなを、じっと見つめる。
同時に、ジェミの瞳が揺れる。
執事の赤い瞳も、細く収縮したまま、ゆっくりとれなを見つめていた。
「……影」
「……はい」
「元の姿に戻って……」
その一言で、執事の背に広がっていた漆黒の翼が、わずかに震えた。
「お嬢さま!? ……ですがっ!!」
「大丈夫。私はここにいるから」
れなは振り返って、ほんの少しだけ笑った。
「だから、守って。壊さないで」
執事は、苦しげに目を伏せた。
「……承知、いたしました」
ジェミは何か言いかけ、けれど言葉にできず、蒼き断章剣を下ろした。
「兄ちゃんも……」
「……わかっている」
「ほんとに?」
「ああ、わかっている!」
「目、怖いんだけど……くすっ」
「今、それを言うな……」
「ジェミさま、手術中にキレるのは、医療安全的にアウトっすよ~!
医療事故の元っす~!!」
「黙れ! 白布!! 布のくせになぜ燃えていないんだ!!」
「地球の布じゃないっすも~ん!
ワタシ、不燃性の太陽系外高級素材っすからね~!! えっへ~ん!!」
「おぬしら! ええかげんにせい!! 動くなら今じゃ!!」
たつろーさんの切羽詰まった声に、全員がれなを見た。
「うん、ソラリス、行くよ。兄ちゃん、影、お願いね」
「はいっす!」
「ああ」
「御意」
「阿蘇都比古さま、これより外科手術を開始いたします」




