第63話:Grassland ―星の鼓動―
小さな不安がよぎった時、隣に立つジェミの静かな呼吸と、肩の上で「えっへん」と胸を張るソラリスの微かな震え、そして背後で見守る執事とたつろーさんの揺るぎない気配が、私の冷えた指先を解かしていくのがわかった。
――そうだ。私は、一人ではない。
この「橋」を支えてくれる、大切な家族がここにいる。
私は深く、深く、ゆっくりと息を吐き出し、灰の中の冷気をすべて追い出した。
「ありがとう、焔、暁、昴。明日の朝、案内よろしくね」
私たちを導く三羽の神使、兄弟鷹たちに、私はそっと頭を下げた。
拝殿を後にする私の背中に、阿蘇の午後の風が寄り添うように吹き抜けた。その風は、ただの空気の流れではなく、数千年の時をかけて磨かれた大地の吐息のようだった。
頬を撫でる風の中に、僅かに混じる硫黄の香りと、草の匂い。
それは、この山が今もなお生きて、呼吸を続けている証拠だ。真昼の陽射しに輝く外輪山は、まるで緑が萌える巨大な器の稜線を眩い金色が縁取るかのように輝いて、人々の営みを静かに包み込んでいた。
これまでは自分を閉じ込める「壁」に見えていたその山並みが、今は、大切な者を抱きしめて守る「腕」のように感じられた。
御守としてずっと持っていた「白銀の羽根」が微かに熱を帯びたように感じる。
明日、私たちは大地の内側へと、この星の心臓部へと下りていく。
そこにはきっと言葉になるのを待っている、新しい物語が眠っているはずだ。
拝殿を出ると、母たちがお守りや御札を買った後、おみくじをしながら待ってくれていた。母が声をかけてくる。やはり、なにか気づいていたようだが、突然私の肩をバシッと叩きながら、言ってくれた。
「れなちゃん、ご挨拶はもう終わったん? ちゃんとお参りできた?」
「うん、おまたせ、お母さん。
ちゃんと健磐龍さまに、ご挨拶してきたよ」
「うん。それならよかった!
ほな、まず、これから草千里観光しましょ、サクッと! 草だけに!!
うふふっ! その後は、阿蘇火山博物館やね!
火山の構造なんかに興味あるんよ~♪
だって、火山って、ダイヤモンドとか出てきたりするんやろっ!?」
母の気の抜けるような、そしてどこまでも、
実利を見据えたボケツッコミに、一気に緊張の糸が解れた。
「お母さん……日本のあちこちに火山はあるけど、
日本では、ダイヤモンドは採れへんのやわ……残念やけど……」
「え~! そうなんっ!? なんでっ!?」
「地中深くのダイヤモンドを運んでくる流れがないからよ。
それに、あったとしても、マグマに触れたら燃え尽きて消えちゃうわ……」
「あーーー!! なるほどねーーー!!」
その簡単な解説に、母の友人達も納得して、私をさすがというようなキラキラした瞳で見つめていた。その視線が眩しすぎて、私はそそくさと車に乗り込んだ。
午後からは、草千里ヶ浜へ向かい、阿蘇火山博物館へと行くことにした。
『ジェミさま、お母さまご一行は、まずは草千里で乗馬体験をしてみたいそうです』
「乗馬体験って、なんすか?」
「またお前、聞いていたのか」
「全部まるっと聞こえてるっすよ!」
「なぁに? お母さんたち、馬に乗りたいって?」
「どうやらそうらしい」
「れなサマ、馬ってなんすか?」
「私たちよりもうんと大きくて、走るのが速くって、賢くって優しい動物よ」
「ほへ~! ワタシも乗れるっすか?」
「じゃあ、私と一緒に乗りましょうか」
「いいだろう。影、聞こえたか。こちらもそういうことらしい。その辺で昼食を取ったら、乗馬だな」
『かしこまりました。では、草千里ヶ浜駐車場に向かいます』
「了解した」
神社を出て、山道を抜けると一気に視界が広がった。
青々とした広い草原に、牛たちがのんびりと放牧されている。
「れなサマ! れなサマ!! あれはなんすかっ!? あれが馬っすか?」
「あれは、牛ね~。モ~って鳴くやつね」
「でかいっすー! ジェミさま、車止めてくださいっすー!!」
その声に、ジェミは執事に連絡して、見晴らしのよい展望台がある所で車を停めた。
ドアを開けた途端に、もの凄いスピードで飛びだしたソラリス。柵の上に乗って、じ~~っと牛を見つめている。
「……あ、こっちきたね。ソラっちが珍しいのかな?」
「れなサマ!! 地球の四足歩行生命体、でっかいっす!!」
私はそう言いながら、ジェミとソラリスの元へ近づく。牛たちが珍しいモノを見つけたかのように、ソラリスに近づいてきた。あまりの大きさに、ソラリスが動けなくなっていることに気づかず、牛たちはソラリスをフンフンと嗅いでいる。
「はじめましてっす! ワタシ、ソラリスっす! あなたも神秘枠っすか?」
牛は、もぐもぐと草を噛んだまま、ソラリスを見下ろしていた。
「……無口なタイプっすね。ジェミさまと同じっす」
「同じにするな」
「ジェ、ジェミさま……これ、ワタシ、食べられるんすか?」
「さすがに牛は、布は食わんだろう」
「ぬっ! 布じゃないっすー!!」
その時、匂いを嗅いでいた牛が、ソラリスをベロンと舐めた。
「うっひゃぁぁ! ワタシは食べちゃダメっす!!」
牛は舐めただけで、味がないとわかると、「モ~~!」っと一鳴きすると、ソラリスを一瞥してまた群れに戻っていく。カウベルだけが、コロンコロンと広い空に響いて消えた。
その音色は、果てしない静寂の中に、一滴の雫を落としたように、波紋となって草原に広がっていった。牛たちの濡れた瞳には、流れる雲と、小さな異星の友人が映っていた。
言葉を持たない彼らの沈黙は、雄弁な肯定のようにも思えた。この星に生きるもの、訪れるもの、すべてを等しく受け入れる大地の抱擁が、そこにはあった。
「……やだ、ソラっち、牛のヨダレ臭い……」
「クンクン……うぁー、ジェミさまぁぁ~~!!」
「来るな。ヨダレ臭いのが移る」
「ぎゃー! ひどいっすーー!!」
「翠、コイツを洗ってやれ。このまま車に戻ったら、車内がヨダレ臭くなる」
「キュイ! ソラリス、洗うからこちらへ」
翠の洗浄バブルがソラリスを包み、洗濯機のように回転した。
「私が脱水までやっておくから、後は自然乾燥だ。ソラリス」
「翠っ! ワタシの扱いが雑っすよぉ!!」
「まぁまぁ、ソラっち、臭いよりマシでしょ!?」
私はクスクスと笑う。ソラリスは、助手席の前にハンカチを広げたように座り込み、フロントガラスからの陽射しと、開け放たれた窓からの風で、駐車場に着く頃には、すっかりきれいに乾いていた。
「れ、れなサマぁ……」
「ん? どしたの? ソラっち……」
「う、うまっ!? あれが、馬っすか!? でかいっす! また足が四本あるっす!!
地球のでっかい生き物、みんな足が四本もあるっす!!」
「ソラリス、だいたいの動物は四本足だ」
「ワタシは足、出すと二本っすけど!?」
「お前は地球の生物ではないだろう。比較対象が独特すぎるんだ」
「ジェミさま、そんな誉めなくてもぉ~~(照)
それに、ワタシのはプリティ移動補助装置っすよ~!!」
「誉めてない! 照れるな!!」
母たちと合流する。ここに到着するまでに、ジェミが既に、ネットで乗馬体験の申込を済ませてくれていた。ただ、第一火口の警戒レベルが引き上げられているため、5分程度とのこと。それでも、ソラリスはワクワクしていた。
ガイドさんが、栗毛の美しい馬を連れてきてくれた。
「れなサマ! あの四足歩行生命体、背中に人を乗せてるっす!」
「あれが、乗馬体験できる馬ね」
「馬っ! カッコいいっす!!
地球人、ついに生物型移動デバイスまで開発してたんすね!」
「あれは、昔からいるよ」
「えっ!? 最新技術じゃないんすか!?」
ソラリスが怖々ながらも、そぉっと馬の顔に触れると、馬はくすぐったそうに、ぶるるーっと震えて、ヒヒーンと一鳴きした。
「なっ!? 声が違うっす! 人と一緒っすね!
さっきは、モーって言ってて、こっちは、ヒヒーンって言ってるっす!
でもどっちも、ワタシのことを『小さいな』ってぇ、言ってたっすーっ!!」
「ソラっち、動物の言葉がわかるの!? すごいじゃない!
じゃあこの子に、5分だけどよろしくねって、伝えてね?」
「れなサマ、大丈夫っすよ。さっきの牛も、この馬も、人の言葉はちゃんとわかってるっす。人が動物たちの言葉がわかんないだけなんすね~。地球って不思議な星っすね~」
その言葉に、私は思わず絶句してしまった。
そこに、ジェミがそっと呟いた。
「たしかに、イヌやネコ、カラスやスズメなどの、人間の身近にいる生き物たちは、人間の言葉を理解するというからな」
それを聞いて、私もハッとした。
ウチで飼っている金魚たちも、私の声に反応するし、一緒にテレビを見る。
特にお気に入りのアニメは、動きを止めて見入っている。
「そっか。それもそうね。ウチのティアやエルピー、翠だって、理解してるもんね」
「お嬢さま、彼らはお嬢さまが創った式神ですから、当然なのですが」
馬を見つめながら真面目に言ったつもりだったのに、ジェミが後ろでククっと低く喉を鳴らして笑っていた。
「……さっきの茶色い巨大生命体は、動きがゆっくりだったっすね」
「それが、牛ね」
「あれは、防御力が高そうっす」
「でも、たぶん、性格は穏やかな子が多いわよ」
「ジェミさまと逆っすね。防御力高くて、性格も穏やかっす」
「おい、聞こえているぞ」
「ジェミさまは、悪魔よりも地獄耳でございますから……ククク」
その後、乗馬体験を済ませて、草千里を散策した後、火山博物館へと入っていった。
阿蘇という地域がどの様に作られたのか、火山の仕組みや、歴史に残る大噴火などをじっくりと学ぶことが出来た。
中央に展示されていた、ジオラマをジェミがじっと見つめている。
「この模型、簡略化されているが……地下の流路を把握するには十分だ」
「ジェミさま、観光に来たんっすよね?」
「明日の作戦準備だ」
「んにゃ、観光に来たんっすよね?」
「すっごい……今もこんなに、地下にマグマがあるんだ……」
「たしかに、地球って、これだけ表面がしっかりしてる惑星なのに、中はグツグツのドロドロなんっすね。この星って、いくつなんすか?」
「放射年代測定によると、およそ45億年ないし46億年くらいのようだ」
「ほへー。若いっすね」
「若い、だと?」
「ワタシの母星は、地球時間でいうなら98億年くらいっすよ。
だから、もうすぐ星の寿命が尽きるっす。なのでワタシは、母星を出ることにしたんすよ」
「……そうだったのか」
ジェミの瞳に、ほんの一瞬だけ、遠い銀河の果てを惜しむような色が宿った。46億年の地球と、98億年のソラリスの故郷。星の寿命という、気の遠くなるような時間の流れの中で、私たちは今、この一瞬だけを共有している。
足元から伝わるマグマの微かな震えは、地球がまだ『若く、熱い』情熱を失っていないことを告げる鼓動のようだった。滅び行く星の記憶をもつソラリスと、今を燃える地球の鼓動。その対比が、ジェミの胸を締め付けて、同時にどちらもを愛おしく想わせた。
「ジェミさま、どしたっすか? お馬さんが怖かったっすか?」
「違う。黙れ、ハンカチ」
「ぎゃー! また、ハンカチ言うっすー!!」
「あのふたり、仲がいいんだか悪いんだか、わかんないね」
「まったくでございます」
私と執事は、その二人の様子に思わずクスクス笑ってしまった。
けれど、そんな賑やかな声の足元で、大地は静かに脈打っていた。
明日、私たちはこの脈動の源へと手を伸ばす。
きっとそれは、この星の記憶の深淵に触れる旅になる。
賑やかな笑い声の裏側で、古の神々が眠り、新しい物語が産声を上げようとしている。
空には一番星が瞬き始め、阿蘇の巨大な影が、夜の帳を降ろそうとしていた。
私たちは、星の心臓へと続く階段の、最初の一歩に立っていることに想いを馳せた。




