第61話:Citadel ―巨神の砦―
やがて一行は、阿蘇山麓にある阿蘇神社に到着する。
かつて震災によって深く傷ついた神域は、
歳月と人々の祈りに縫い合わされ、ようやく本来の姿を取り戻しつつあった。
「……れなサマ、ここは? ここが、阿蘇神社っすか?」
「うん。そうだよ。
阿蘇の地龍さんに会うために、まずご挨拶しなきゃいけないところよ」
雄大な大自然が醸し出すエネルギーと、それを守る御神気に気づいたソラリスが、耳元でささやく。
その時、一羽の朱色に輝く鷹が私たちを掠めて、まるで私たちを導くかのように、楼門の上へと舞い降りた。
「おお、お出迎えが来よったぞ。ここの神使のようじゃな」
たつろーさんが、楼門の上を見上げて教えてくれた。
「京は素戔嗚尊さまの神使、東山青龍のたつろーじゃ。
健磐龍さまに、お取り次ぎ願えるかな」
「阿蘇は健磐龍さまの神使、炎鷹羽の焔にございます。お館さまより承っております。私についてきてください」
鳳凰とも、火の鳥とも見まがうほどに美しい白銀の翼に朱色の炎が舞う炎鷹羽の焔が、その姿を現した。
「……神使が鷹なんだ……知らなかった」
「阿蘇神社のご神紋は、違い鷹の羽でございます。
そこから我々が、神使として生まれております」
「なるほど……
私が前に来たとき、あなたには逢ってないよね?」
「はい。あの時は、弟の銀鷹羽の昴が見守っておりました。その気配はご存知かと……」
「銀鷹羽の昴……」
「れな、知っているのか?」
「……うん、もしかして、白銀の羽をくれた、あの子かもしれない」
「お館さまがお待ちかねですので、どうぞご本殿へお進み下さい」
私たちが『正式参拝』するというと、母たちもそれについてきた。けれど、拝殿の前に立った瞬間、私は思わず息を呑んだ。ここは、ただの神社ではない。いや、そんなことは最初からわかっていたが。
阿蘇の神域だ。
九州の大地を、まるごと抱え込むような場所だ。
それでも、目の前に広がっていた気配は、私が想像していたものより、ずっと大きかった。山の気配。火の気配。水の気配。そして、何よりも、地の底から立ち上がってくるような、重く、静かな大地の気配。
それは、神域というより、砦だった。
巨大な山々を城壁とし、火口を炉とし、地下水脈を血管とする、途方もなく大きな砦。阿蘇という大地そのものが、何かを守っている。
「……兄ちゃん」
隣に立つジェミに、小さく声をかける。
けれど、返事がない。そっと横を見ると、ジェミは拝殿の向こうを見つめたまま、完全に固まっていた。
「兄ちゃん?」
「……解析、不能、だ……」
ようやく返ってきた声は、いつもの冷静なものではなかった。
「空間構造が、通常の三次元座標から逸脱している。
……いや、違う。これは空間ではなく、記憶層だ。
地質、信仰、祈り、災害、復興、神名、血脈、太古からの歴史……
複数の情報層が同時に重なっている」
「えーっと、つまり?」
「……山が、喋る前の沈黙に見える」
「表現が詩人になってきたね」
「……俺も、そう思う」
ジェミが真顔でそう返すものだから、私は思わず笑いそうになった。
けれど、その笑いは、すぐに喉の奥で止まった。
参拝を終えた瞬間、周囲の音が遠のいたからだ。
参拝客の足音。母たちの小さな話し声。風に揺れる木々の音。
すべてが、薄い膜の向こう側へ押しやられていく。
代わりに聞こえてきたのは、低い、低い、地鳴りのような音だった。
――どくん――
まるで大地そのものが、心臓を持っているみたいに。
「れなサマ……」
耳元で、ソラリスが小さく震えた。
「ここ、でっかいっす。めちゃくちゃ、でっかいっす。
母星よりも……エネルギーのデカさが、ハンパないっす!! 剥き出しっす!!
ワタシ、今なら自分が小さいことを認めてもいいっす……」
「ソラっちは、いつも小さいじゃない?」
「そ、それは、事実陳列罪っす!」
こんな時でもソラリスはソラリスだった。
いい意味で、少しだけ肩の力が抜ける。
その時、焔が静かに翼を広げた。白銀の翼に、朱色の炎が流れる。
火の粉は落ちず、ただ光だけが空気に溶けていく。
「ここより先は、お館さまの御前にございます」
焔の声が、先ほどまでとは違っていた。
神使としての、澄んだ厳しさを帯びている。
「人の身で進むには、少々、重い場所です。どうか、心をまっすぐに」
「母たちは?」
私は、後ろを振り返った。
母たちは、少し離れた場所で、ご本殿を眺めていた。
なかでも母だけは、少し違っていた。あの人には、わかっている。
見えているわけではない。けれど、空気が変わったことには気づいている。
神域の奥が、こちらを見ていること。
そして、私が今、人の参拝とは違う場所へ足を踏み入れようとしていること。
母は、何も言わなかった。
ただ、胸の前で静かに手を合わせていた。その母の姿を見て、私は思った。
(ああ、私の中には、この人から受け継いだ祈りもあるのだ)と。
尼僧の資格を持つ母の祈りは、神の前でも揺るがない。
神と仏を分けるのは、人の都合だ。
本来、祈りそのものは、もっともっと深いところで繋がっている。
私は、その両親の背中から受け継いだものを、ちゃんとしっかり持ってここに立っている。
「偉大なる神々の前でも、堂々と胸を張りなさい」
私は、そう言われているような気がした。
父は、神社に連なる資格を持っていた。
母は、仏の道に名を置く人だった。
そして私は、師匠から魔の言葉と法、術の扱いを学んだ。
神の道。
仏の祈り。
魔女の術。
どれかひとつではなく、その全部が、今の私を形作っている。
だから私は、どこかひとつの世界だけに属しているわけではない。
――境界に立つ者。
たぶん、それが私なのだ。
「ご心配なく。お連れの方々は、こちら側にはお入りになりません。
人の参拝は、人の参拝として守られております」
焔の声が響いた。
「……そっか」
少しだけ安心して、私は前を向いた。
たつろーさんが、いつになく真面目な顔で一歩前に出る。
「京の青龍、祇園より参った。
素戔嗚尊さまの命により、れなをここまで連れて来た」
その言葉に、空気が震えた。
――どくん。
また、大地が脈打つ。
拝殿の奥が、ゆっくりと暗くなった。
いや、暗くなったのではない。奥行きが、深くなったのだ。
さっきまで見えていたはずの場所が、山の奥へ、地の底へ、過去の時間へと続いていく。
私は思わず一歩、足を引きそうになった。
けれど、引かなかった。ここで引いたら、来た意味がない。
京都を出た。九州へ来た。霧島へ向かう前に、阿蘇へ寄った。
それは、偶然じゃない。たぶん、これはずっと前から決まっていた道筋だ。
焔が、静かに頭を垂れた。
「お館さま。京より、れなさまをお連れいたしました」
――次の瞬間。
世界が、沈んだ。
足元から、深い土の匂いが立ち上がる。遠くで水が流れる音がする。
風が、山肌を撫でる音がする。
そして、火の底で眠っていた何かが、ゆっくりと目を開ける気配がした。
拝殿の向こうに、巨大な影が立ち上がる。
それは、人の形をしているようにも見えた。
龍の形をしているようにも見えた。
山そのものが、意志を持ってこちらを見下ろしているようにも見えた。
あまりにも大きすぎて、輪郭がわからない。
けれど、その存在が誰なのかは、わかった。
阿蘇の大地を拓いた巨神。
火と水と風と土を束ね、この地に道を刻んだ大神。
健磐龍命 さま。
その名を、心の中で唱えた瞬間、胸の奥に重い響きが落ちた。
『よく来た。久しぶりだな、れな』
声は、耳ではなく、骨に届いた。
『京に生まれ、筑紫大津に棲まう魔女よ』
私は、反射的に膝をつきそうになった。
けれど、ジェミとたつろーさんの手が、そっと背中を支えてくれる。
「れな。頭は下げてもよい。じゃが、心まで地に伏せるな」
その言葉に、私は深くゆっくりと息を吸った。
そうだ。私は、お願いをしに来たんじゃない。命令を聞きに来たわけでもない。
霧島へ向かう前に、この地の神に、筋を通しに来たのだ。
そして、地龍と対面するために、ここに来たのだ。
私は、深く一礼した。
「ご無沙汰いたしております。健磐龍さま……」
巨大な影が、わずかに揺れた。
『ほう?』
「以前、阿蘇に来た時、直接お目通りはいたしませんでしたが、白銀の羽をいただきました。あれが、神使、銀鷹羽の昴だったのなら……私はあの時から、ここに見守られていたことになります」
『見ていたのは、昴だけではない』
低い声が、地の底から響く。
『阿蘇は、通る者を見る。祈る者を見る。傷ついた者を見る。
そして、立ち上がろうとする者を見る』
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
震災で傷ついた神域。それを縫い合わせてきた人々の祈り。
壊れたものが、元に戻るのではなく、傷を抱えたまま新しい形になっていく場所。
それは、土地の話だけではない気がした。
『れな』
名を呼ばれた瞬間、背筋が伸びた。
『おまえは、この後、霧島へ向かう』
「はい」
『霧島の神々に会う前に、なぜ阿蘇へ寄ったのか。わかるか』
隣でジェミが、静かに息を呑む気配がした。
「ひとつめは、私の家族、ソラリスの地球外テクノロジーデバイスを回収するため。
ふたつめは、素戔嗚尊さまの命により、阿蘇の地龍を鎮圧するため。
そして、みっつめは……霧島へ入る前に、九州の背骨に触れるため、でしょうか」
『半分、正解だ』
……半分。
つまり、まだ足りない。健磐龍命の気配が、さらに大きくなる。
阿蘇五岳の影が、背後から覆いかぶさってくるようだった。
『阿蘇は、砦だ』
その一言で、空気が変わった。
『霧島へ向かう道は、ただの旅路ではない。
神々の記憶を辿る道であり、古き傷を踏む道でもある。
ここは、その前に立つ砦。越える者の心を見る場所だ』
「……心を、見る場所」
『そうだ』
巨大な影が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
『京の魔女。おまえは、何を守るために霧島へ行く』
鋭い問いが、胸の奥に突き刺さった。
私は、すぐに答えられると思っていた。けれど、言葉は簡単には出てこなかった。
境界を守るため。ジェミを守るため。ソラリスを、執事を、みんなを守るため。
どれも嘘ではない。
でも、それだけではない。私は、ゆっくりと拳を握った。
「……大切なものを、私が大切だといえる家族を、世界を、守るためです」
言った瞬間、ジェミがこちらを見た。
その瞳が、かすかに揺れている。健磐龍命は、しばらく何も言わなかった。
ただ、阿蘇の大地が、静かに脈打っていた。
『ならば、問おう』
低い声が、砦の奥から響いた。
『守るとは、抱きしめることか。切り捨てることか。
それとも、傷つける覚悟を持つことか』
私は、息を止めた。
霧島へ向かう前に。日向神話の神々に会う前に。
阿蘇の巨神は、最初の問いを突きつけてきた。
ジェミ、ソラリス、執事、そして、たつろーさんまでもが、静かに息をのむ。
巨神の問いかけに、遠くの火口から微かな煙が立ち上り、風が僅かに硫黄の香りを運んでくる。地鳴りとともに、大地そのものが身じろぎしたような気がした。
私は、逃げ場のないその視線を真正面から受け止め、深く呼吸を整えて言葉を発する。
「……私にとって、守るとは、そのどれもを内包していますが
――そのどれかひとつというものではございません」
その刹那、巨神の瞳が僅かに細められた。
荒々しかった阿蘇の大地が、ふと静かに鳴り止み、神域を微かな硫黄の香りと初夏の風が吹き抜けた。
――静寂。
その真っ白な空白の中に、私の声が静かに凜と、透き通るような強さを持って、本殿に響き渡った。




