第60話:Route(後編)―神域の門―
フロントガラス越しに見える景色は、先ほどよりも一層その色彩を濃くしていく。
九州道は筑後平野のただ中を、真っ直ぐに南へと貫いている。
左右に広がる田園風景は、陽光を照り返して黄金色に輝き、遠くに見える耳納連山の稜線が、まるで巨大な龍の背中のようにうねりながら並走していた。
「見て見て! 空と大地が広くなった気がするよ!!」
れなが呟くと、車内の空調を抜けて届く外気の気配が、微かに草の匂いを含んだような気がした。窓を閉め切っていてもなお伝わってくる、生命の濃密な気配だ。
二台の車は軽やかに速度を上げ、広川へと続く緩やかな勾配を滑るように進んでいく。
まだ、阿蘇の巨大な壁は見えない。
けれど、地平の向こう側で待ち構える圧倒的な熱量を予感させるように、陽炎がアスファルトの上で激しく揺らめいていた。
穏やかな田園風景は、南下するにつれて、どこか厳かな静寂を帯び始めていた。
それは単なる風景の移ろいではない。大地の底で眠る巨大な熱源が、地表の皮膜を透かして、旅人たちの肌を微かに震わせているような感覚だ。
アスファルトの先に揺らめく陽炎は、現実と神話の境界線が溶け出している証左のようにも見えた。かつてこの地を駆けた神々の足音が、エンジンの振動に混じって、遠い地鳴りのように響いてくる。
神話は、姿を見せる前から呼吸を始める。
その舞台は、もうすぐそこまで迫っていた。
やがて、広川SAに到着した。
れなはソラリスを連れて、身体を伸ばしに外へ出た。
「ふぁ~~! れなサマっ! お空が広いっすね!
さっきの所とは、また違うお店がいっぱいあるっす!!」
「ソラっちは、まだ何か食べたいの? どれがいい?」
れながクスクス笑いながら、お土産の棚を見ていく。
そんな穏やかな空気だったはずなのに、いきなりソラリスがれなの髪を引っ張り、怪訝な顔をして一点を睨みつけた。
「……れなサマ、あの黒い……笑ってるヤツ、何者っすか? なんかぁ……あいつ、さっきからあっちこっちにいるっす。増殖するヤツっすか? もしかして、侵略されてるっすか!?」
どれのことを言っているのかと、ソラリスが指さす方を見る。
そこには――
大きな口を開けて微笑んでいる、“くまモン” がいた。
「あれはね、熊本のマスコットキャラのくまモンよ。
誰が使ってもいいってコトになってるから、あっちこっちに出没してるの。
ある意味、侵略されてるのかもしれないねぇ」
「なっ! なんとっ!! あんなかわいい顔して、侵略してるっすか!
わ、ワタシが撃退してやるっす!! 地球の平和守るっす!!」
くまモンを敵認定したソラリスの両目が、にわかに妖しい光で満ちていく。
ジェミと執事が、その異常なエネルギー密度に、即座に反応して駆けつけた。
「れな! ソラリス!! 何事だっ!!」
「あ、違う違う! ソラっちも、撃退しちゃダメ!!
くまモンはね、いい意味で、平和的侵略なの!
目から怪光線、やめなさい~~!!」
れなは、ソラリスの注意をくまモンから引きはがすように、ひょいっと摘まみ上げてジェミの腕の中へ放り込むと、慌てて小籠包を買ってきて、ひとつ差し出した。
「ほらほら、くまモンはいいから、これ食べてごらんなさい?
熱いから気をつけてね? ゆっくり食べないと中の餡がこぼれちゃうからね」
「はーい!」と、元気よく返事したソラリスだったが、またもや「あーん」と、一口で食べてしまう。
その途端、ぷちゅーっ!! と、ソラリスの口から、熱々の餡が飛び出した。
その熱々の餡は、執事の肩の上で、のんびりと空を眺めていた、たつろーの頭を直撃する。執事はもちろん、自分にかからないように、さっと頭を反対側へと傾けていた。
「うぁっつぅーーー!! こりゃ! なにをしよるか!!」
「ぬ? はふろーひゃん、ろしたっふは? ほれ、おいひいっふよ!!」
「美味しいじゃないわい! 食べるときは、口を閉じんか!!」
「たつろーさん、大丈夫!? やけどしてない!? お水! お水!!」
執事がペットボトルを開けて、頭からお水をかけて洗い流しつつ、氷魔法でやけどを冷やす。後ろからエルピーが、治癒魔法をかけた。まったく、魔法の無駄遣いである。
しかし、そんなドタバタも、旅の醍醐味のひとつなのかもしれない。
母たちが休憩を終えて、車に戻ったことで、広川SAを出発する。
SAを出てから、しばらくのあいだ、車内にはくまモン事件の余韻が残っていた。
「……つまり、くまモンは敵ではないってことっすね?」
れなの膝の上で、ソラリスが真剣な顔をして問いかける。
「敵じゃないよ。むしろ熊本の守護獣みたいなものかな」
「守護獣……! なるほど、ならば敬意を払うっす!」
「そうそう。撃退じゃなくて、敬意ね」
「了解っす! 次に見かけたら、まずは一礼するっす!」
「……怪光線は?」
「撃たないっす!」
「よろしい」
れなが満足げに頷くと、ジェミは小さく息を吐いた。
「……れな。念のため確認するが、熊本では、あの黒い存在が大量に出現するのか?」
「うん。するね~、あちこちで見かけるよ。九州圏内どこにでもいると思う」
「それは、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫。熊本では普通。むしろ福岡でも普通?」
「……一応、念のため、検索する」
運転中のジェミの瞳に、淡い光が走った。
「……熊本県営業部長兼しあわせ部長……?」
「そうそう。くまモンは公務員みたいなものよ」
「公務員……。つまり、侵略者ではなく、行政所属の存在ということか」
「うん、だいたい合ってる」
「行政所属の黒い守護獣……熊本、情報量が多いな」
ソラリスが、ぱあっと目を輝かせた。
「しあわせ部長っすか! すごいっす! じゃあ、撃退しちゃダメっすね!」
「絶対ダメよ」
「むしろ敬礼っすね!」
「それは……まあ、いいんじゃないかな」
ジェミは検索結果を見つめたまま、わずかに眉を寄せた。
「……なお、活動範囲は国内外に及ぶ」
「やっぱり侵略じゃないっすかーー!!」
ソラリスの叫びは、車内の笑い声に溶けて消えた。
しかし、ジェミの解析モニターには、くまモンの意匠が持つ『無害な微笑み』の裏側に潜む、ある種の強固な概念が映し出されていた。
それは、恐怖によって支配する侵略ではなく、愛嬌によって境界線を無効化し、人々の心の深層へと浸透していく、高度な精神的ネットワーク。
「……物理的な攻撃力は皆無。だが、人々の意識を塗り替える力においては、銀河連邦の広報官すら凌駕する可能性があるな」
ジェミの呟きは、れなには届かなかったが、ソラリスだけは真剣な顔で頷いていた。
黒い獣の瞳に宿る、底知れない『愛嬌』という名の魔力。それを守護獣と呼ぶ地球人の感性に、ソラリスは未知の文明の深淵を見た気がした。
ハニー号とファントム号は、賑やかなまま広川SAをあとにした。まだ阿蘇は見えない。
最終目的地である霧島は、まだまだはるか遠い。けれど、南へ進むほどに、空の色だけが少しずつ変わっていく。
火の国は、姿を見せる前から、風の底で呼吸を始めていた。
南へ伸びる道の先で、神話の扉が静かに開き始めていることだけは、誰もが感じていた。
『ジェミさま、これより阿蘇神社へと向かいます』
「了解した」
「ジェミさま、阿蘇神社ってなんすか?」
「……? ソラリス、今の通信が聞こえていたのか?」
「聞こえてたっす!!」
「いつからだ」
「ん? 出発したときからっすよ?」
「なぜだ」
「わっかんないっす!
ジェミさまと執事サンの声、普通に聞こえてたっす!!」
「……後で検証する」
「……怒ってるっすか!?」
「いや。興味深いだけだ」
『ククク。増えましたな、ジェミさまの解析不能案件が……』
「えへへへ、執事サン、誉めてるっすか?」
「誰も誉めていない」
「がーん……」
熊本の市街地を抜け、車は東へと向きを変えた。
道路標識に『阿蘇』の文字が現れるたび、車内の空気が少しずつ静かになっていく。
さっきまで小籠包とくまモンで騒いでいたソラリスでさえ、窓の外をじっと見つめていた。ジェミも、運転に集中する。ファントム号の執事も、もう茶化さない。
たつろーも、肩の上で小さく姿勢を正した。
誰かが黙れと言ったわけではない。
ただ、山が近づいてくる。
それだけで、言葉がひとつずつ、胸の奥へ沈んでいった。
やがて視界の先、行く手の空を塞ぐように現れたのは、山という概念を超越した『大地の城壁』だった。
幾星霜もの年月が、火の怒りを緑の衣で包み込み、巨大な円環として封じ込めた外輪山。その積み上げられた緑の断崖は、まるで異界との境界を守る門番のように、天を仰ぐ巨人の睫毛のように鋭く、同時に母の抱擁のように深く、一行を迎え入れる。
窓から流れ込む風は、もはやただの空気ではなかった。
それは、地球の肺胞から吐き出された、太古の記憶を孕んだ吐息だ。微かに漂う硫黄の香りは、この星が今もなお生きているという、剥き出しの鼓動の証だった。
「見て、ソラっち。あの山の向こうが、阿蘇だよ」
れなの声が、聖域の静寂に波紋を広げる。
視界が開けた瞬間、みんなの瞳に飛び込んできたのは、世界の終わりと始まりが同居するような光景だった。
中岳が吐き出す、白く長い噴煙は、天と地を繋ぐ梯子のように真っ直ぐに伸び、その麓には、信じがたいほど鮮やかな緑に包まれた生命の営みが広がっている。
破壊の象徴である活火山の懐で、これほどまでに豊かな緑が萌え、人々が祈りを捧げて暮らしている。その矛盾に満ちた美しさが、ソラリスの魂を激しく揺さぶった。
たまたま偶然に落ちてきた、地球という小さな惑星が抱く、巨大な生命体が吐き出す熱い溜息。これほどまでに多様性に富み、生命が息づく星だったとは、ソラリスはある種の感動すら覚えていた。
そしてこれから、れなたちと向かうそこは、神話が生まれ、今なお脈動を続ける火の国だ。
「わあ! れなサマっ! あのお山、煙が出てるっすよ!!
辺境惑星の地球は、まだこんなに煮えたぎってるっすか!?
なのに、こんなにたくさんのいろんな生命体が生存してるっすか!?
すごすぎるっすよ、地球!!」
キラキラした瞳で、山を眺めているソラリスを横目に、車は外輪山の麓を進み、阿蘇神社へと向かった。
ふと、ジェミの視界にノイズが走った。スマートグラスに投影されたナビゲーション・システムが、計測不能なほどの巨大な『意志』を感知したのだ。
それは熱源でも磁場でもない。
この土地そのものが、一個の巨大な生命体として、旅人たちの品定めを始めたかのような圧倒的な圧。
「……れな、気を引き締めろ。
この先にいるのは、ただのエネルギー体ではないぞ」
ジェミの警告に、ソラリスはゴクリと喉を鳴らした。
参道の奥、楼門の向こう側から、古の巨神が放つ重厚な吐息が吹き抜けてくる。
それはかつてこの巨大なカルデラを蹴破り、湖の水を流して田畑を作ったと伝えられている開拓の神――健磐龍命の、数千年にわたる静かな覚醒の予兆だった。
その道の先で、地の底に眠る龍が、ゆっくりと瞼を開こうとしていた。




