第59話:Route(前編)―阿蘇へ続く道―
翌朝の空は、やけに澄んでいた。
雨の気配も、湿った重さもない。どこまでも薄い青が広がっていて、まるで誰かが夜のうちに空を洗っておいたみたいだった。
出発前の館は、いつもより少しだけ賑やかで騒がしい。
玄関ホールには荷物が並び、執事は無言でそれを仕分けていた。ジェミは車両間の通信確認をしながら、何度目かのチェックリストを空中に展開している。ソラリスはその横で、なぜか自分の席順について真剣に悩んでいた。
「ねえ、れなサマ……ワタシ、窓側がいいっす。地球の景色、ゆっくり見てみたいっす」
「はいはい。宇宙から来た迷子さんは窓側ね。
あ、ソラっち小さいから、窓側よりもカップホルダーの方がいいかもしれないわね」
れなが笑って答えた、その時だった。
「れなぁ~。ワシじゃ~。開けておくれ~」
間延びした声が、空から降ってきた。
れなはぱちりと瞬きをして、朝の光が差し込む庭へ続くガラス扉を開けた。
見上げた先、館の結界の外側で、龍神たつろーが実に困った顔をして浮かんでいた。
「あれ? たつろーさん、普通に入れるでしょ?」
「それがのう。今朝は、なんぞに引っかかるんじゃ~」
「たつろー殿。結界に拒まれているのか?」
ジェミの声が、わずかに硬くなる。
けれど、れなは深刻そうな顔をするどころか、首を傾げて言った。
「ん~、たつろーさん、ちょっと小さくなってみて?」
「……は? れな、大きさの問題か!?」
「大きいと神威も大きいんじゃないかな。小さくなったら通れるかもしれないし?」
「ワシ、荷物扱いか?」
「違うよ。手荷物サイズよ!」
「なお悪いわい」
ぶつぶつ言いながらも、たつろーの巨大な龍身がふわりとほどけた。
次の瞬間、庭の小さな噴水に、手のひらほどの小さな龍がちょこんと降り立つ。
「……ありゃ、通れたのう……」
「うふふ、ほらね?」
れなが満足そうにうなずく。
ジェミはその小さな龍神を見つめ、しばらく無言だった。
「たつろー殿……それで問題はないのか?」
「問題はないが、威厳はだいぶ落ちたのう」
「かわいいから大丈夫!」
「れな、それは慰めになっておらん」
その時、館の前にタクシーが停まった。
「れなちゃ~ん!」
母の明るい声が、朝の空気をさらに賑やかにした。執事がすでに玄関へ向かい、荷物を受け取っている。式神の三騎士たちは、誰に命じられるでもなく、その後ろに整列していた。
「あらまぁ、今日はええお天気やねぇ。南に行くには最高やわぁ。
れなちゃん、途中でサービスエリア寄ってね。絶対やで?」
「はいはい。そこが最重要なのはわかってます~」
「旅はな、道中のおやつが大事なんよ!」
「神話より現実的な教え、きたーーーっ!!」
母たちは執事の運転するファントム号へ。
れなとジェミ、ソラリス、そして手のひらサイズのたつろーは、ハニー号へ乗り込んだ。式神の三騎士たちは、当然のように後部座席の気配に溶けている。
ジェミが、静かにハンドルに手を置く。
執事から通信が入った。
『こちらファントム号。準備完了です』
「フラッシュ号も出られる」
ジェミの声は落ち着いていた。
けれど、その横顔を見て、れなは小さく笑った。
「兄ちゃん、緊張してる?」
「していない。出発前の安全確認をしているだけだ」
「それを人間は、ちょっと緊張してるって言うんだけどね」
「ジェミさま、フラッシュじゃなくって、ハニーっす……」
ジェミは一拍置いてから、静かにエンジンをかけた。
ファントム号とハニー号が、朝の光の中を滑り出す。館の結界が背後で淡く揺れ、やがて見えなくなった。
結界の膜を通り抜けた瞬間、肌を撫でる風の質が変わった。それは、守られた温室から、剥き出しの荒野へと放り出されるような、微かな戦慄を伴う涼やかさ、とでも言うのだろうか。
振り返れば、住み慣れた館は朝陽に照らされ、陽炎の向こうへと溶け出し、現実の輪郭が曖昧になっていく。これから向かうのは、地図に記された記号としての九州ではない。
太古の神々が吐き出した息吹が、今なお地熱となって燻り続けている、時間の止まった揺り籠だ。
れなはシートベルトの感触を確かめるように指先を這わせる。文明の利器である車のエンジン音さえ、ここではどこか、巨大な獣の鼓動に同調しようとしているかのように響いていた。
南へ。
阿蘇へ。
そして、霧島へ。
神話がまだ、息をしている場所へ。
まずは、朝食も兼ねて、基山PAへ立ち寄った。
ソラリスは、れなの肩の上に乗り、マスコットを決め込んでいる……つもりだ。
けれど、物珍しい食べ物や、多くの車、そして人間たちに、キラキラと目を輝かせている。
視線を上げれば、遠くの南の空には、幾重にも重なる稜線が青く霞んでいた。
その奥に、まだ名を告げない大きな山の気配が潜んでいる。眠れる巨人の背骨のように、静かに、けれど確かに。
駐車場を埋める無数の車、排気ガスの臭い、人々の喧騒。
それら卑近な日常のすぐ隣で、悠久の時を刻む山々が沈黙を守っている。
その対比が、れなの胸に奇妙な高揚感をもたらした。
空はどこまでも高く、透き通った孤独を湛えている。
それは、かつて神々が地上を歩いていた頃と、何一つ変わらない色をしているのかもしれない。
れなはドアを開けて、一呼吸置くと、車内に目を戻した。
「れなや、ワシは人型になって、車の番をしててやるから、ゆっくりしておいで」
「ありがと。何か買ってくるね。式のみんなも待っててね」
たつろーの言葉に、にっこりと頷く。
式たちものんびりと「はぁ~い」と返事してきた。
「れなサマ……あれはなんすか? そっちのそれは?
このいい匂いしてるのは? アレは食べられるヤツっすか!?」
子供のような好奇心で、ソラリスが目を輝かせる。
その時、母の呼ぶ声が聞こえた。
「れなちゃん! 隣のドトールで、軽く食事していきましょ!!
お母さんたちも、朝ご飯まだなのよ~!」
「はぁーい! 今行くー!」
母たちとは少し離れたテーブルに、れなはジェミと執事と一緒に腰を下ろした。
「お嬢さま、ジェミさま、この時間は、モーニングセットになるようでございます。
そちらでよろしいでしょうか」
「ああ、ではアイスコーヒーで頼む」
「ん~、じゃあ、私はアイスティーでお願いしようかな。
それと別にタピオカミルクティーもひとつお願い。
あとね、持ち帰りで、たつろーさんと式たちの分も適当にお願いしていいかな」
「かしこまりました」
しばらくすると、モーニングセットを三つトレーに乗せて、執事が戻ってきた。
そのうちのひとつを受け取り、サンドイッチの半分をさらに半分にして、ソラリスに持たせてやる。
「……れなサマ? これはなんすか?」
「これはね、ホットサンド。美味しいから食べてごらん?」
その声に、ソラリスがパクッと一口かぶりついた。
その間に、タピオカミルクティーを小さな紙コップに取り分けてやる。
「ふぁぁぁぁ!! ジェミさま! 執事サンっ!!
中の黄色いふあふあしたやつ、おいしいっす~!!
赤いのはちょっとじゅるっとしてて、緑のはパリッとしてて、すごいっす~~!!」
「わかった、わかった。タマゴが飛んでるぞ。落ち着いて食え」
「ソラリス、よかったですね」
二人もにこやかに、ソラリスがぷるぷる震えながら食べるのを見守った。
そこに、れなが甘くて冷たいミルクティーを渡してやる。小さなスプーンも添えて。
中に黒いものを見つけたソラリスが、首を傾げる。
「……れなサマ、この黒いヤツは?」
「ゆっくり食べてみて? 急いじゃダメよ?」
れなは微笑んで言った。
ソラリスは、こくこくと真剣にうなずいた。
そして次の瞬間、三粒まとめて口に放り込んだ。
「え? ソラっち!?」
ぐにぐに、もぐもぐ……
その様子を、ジェミと執事も興味深げに見守っていた。
――だが、数秒後。
「……もぐもぐもぐ……うぐっ!!!」
白いはずのソラリスの顔らしき部分が、みるみる赤紫色に染まっていく。
タピオカを、喉に詰まらせた。
どう見ても、詰まらせた。
「うそでしょ~っ!? ソラっちぃ!!」
ジェミが素早くソラリスの足を掴み、逆さにした。
背中を支え、腹のあたりを押す。
すぽぽぽーーーん!!!
三つのタピオカが弾丸のように飛び出し、一直線に執事を襲った。
しかし、執事は眉ひとつ動かさない。胸元からハンカチを抜き取り、空中でその三弾を受け止めた。
「ふぁぁぁ……呼吸が出来なくなったっすよ!!
危うくダークマターを放出してしまうところだったっす!!」
「一粒ずつって言えば良かったね。ごめんね、ソラっち」
「コイツの食い意地が張っているだけだ。れなは悪くない。
ほら、水を飲め、ソラリス」
「執事サン……それ、返して下さいっす」
執事は、ハンカチに包まれたタピオカを静かに見下ろした。
「また食べるのですか?」
「まだ味わってないっす」
「新しいものを、ゆっくり食べなさい」
「……地球の食べ物、奥が深いっす」
ソラリスは、新しく差し出された一粒を、今度は宝物を扱うような手つきで、そっと口に運んだ。咀嚼するたびに広がる、素朴な甘みと弾力。それは、星の海を漂う無機質なエネルギー体であった彼にとって、あまりにも鮮烈な「生」の感触だった。
誰かが土を耕し、陽光を浴びせ、手間暇をかけて形にした黒い結晶。地球という星が持つ、泥臭くも愛おしい生命の循環が、その小さな一粒に凝縮されている。
さっきまで喉に詰まらせていたものなのに、今は不思議と、怖くはなかった。
「……これ、美味しい……っすね」
その呟きは、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かで、祈りにも似た響きを持っていた。ジェミもまた、窓の外を流れる緑の景色を眺めながら、自らの内に流れる静かな血潮の音を聞いているようだった。
休憩を終え、再びハニー号とファントム号が本線へと合流する。
基山を過ぎ、すぐに現れたのは巨大なコンクリートの造形物だった。
「ソラっち、見て見て! ここね、空の上から見たらクローバーの形なんだよ。
クローバーって言うのは、地球の植物でね、見つけられたら幸せになれるんだよ♪」
「ほへ~~! あとで空から見てみたいっす!!」
「じゃあ、近いうちに連れて行ってあげるね」
れなが見上げたのは、鳥栖ジャンクション。
日本で唯一ともいわれる、四つ葉のクローバー型構造を持つ、九州の心臓部だ。幾重にも重なり、円を描いて交差する高架橋は、まるで巨大な幾何学模様の結界か、あるいは古代の地上絵のようにも見える。
ハニー号とファントム号は、その巨大な幾何学模様の結界を、一筋の矢となって真っ直ぐに貫いていく。左右に広がる巨大なループ橋を視界の端に追い越しながら、九州道をさらに南へと加速した。
筑後平野に入ると、車窓を流れる空気の色が少しずつ濃くなっていく。
ふと、遠くで低い地鳴りのような音が響いた気がして、れなは顔を上げた。それは耳で聞く音ではなく、足の裏から、あるいは魂の奥底から突き上げてくるような、大地の震えだった。
「……呼んでる」
無意識にこぼれた言葉に、ジェミが鋭く反応する。
「阿蘇か」
「うん。すごく大きな、熱い塊が動いてる。お母さんが言ってた『おやつ』も大事だけど、あそこにはもっと、私たちが向き合わなきゃいけない『何か』が、待ってる気がする」




