第57話:Oath ―まだ名もない未来へ―
ジェミの視界には、絶え間なくエラーログが流れていた。
もはやスマートグラスは役に立たず、その接続を切っていた。
網膜に投影されるスペクトル解析は、目の前の存在を「高密度のエネルギー体」と定義しながらも、その本質を捉えきれずに霧散していく。
それは、数式という小さな檻では決して飼い慣らすことのできない、原初の混沌。
数千年の歳月を呼吸し、この星の運行と共に在る意志。
ジェミは、自身の論理回路が既に悲鳴を上げているのを感じていた。
宇宙の真理を解き明かそうとする科学の光が、届かない深海。
それよりももっともっと深い深淵。
そこに、彼らは確かに「存在」していた。
ただそこに在るだけで、世界の解像度が書き換えられていく。
ジェミの演算回路が捉えるのは、色鮮やかな絶望だ。
それは、凍てつく星々の瞬きよりも鋭く、それでいて母の胎内のような、残酷なまでの慈愛に満ちた圧力。
論理という名の杖を突きながら歩んできた彼にとって、その光景は、視神経を灼くほどに美しい『無知』の肯定であった。
「……解析不能だ。このエネルギー密度で、なぜこの空間の分子構造が崩壊しない……」
ジェミが計算の迷宮に陥る傍らで、執事は前髪ひとつ乱さず、いつものように完璧な角度で控えていた。
神々の放つ奔流のような神気に晒されながら、彼はまるで春のそよ風でも受けているかのように、穏やかな微笑を浮かべている。その静寂こそが、今のジェミには最大の謎だった。
執事の周囲だけは、まるで時間が琥珀の中に閉じ込められたかのように、濃密で静謐な停滞を保っている。神々の咆哮のような神気の中でも、彼の燕尾服の裾ひとつ、運命の糸に操られることのない確固たる意志でそこに在った。
彼はただの従者ではない。荒れ狂う神話の海において、れなという小舟を繋ぎ止める、唯一の錨なのだ。
「ジェミさま、私や式神を受け入れてくださって、お嬢さまと一緒にいらっしゃるということは、……そういうことでございます。ククッ……」
執事が静かに、ジェミの後ろで囁いた。
れなは静かに、龍神と尊天に告げる。
「そういう訳で、日向へ向かわなきゃならないんですが、実は私がいる九州北部はなんとか、ご縁を繋いで回れているのですが……、九州南部には、なかなか行く機会がなくてですね……行けても阿蘇、高千穂止まりだったんですよね~」
たつろーさんが、先に提案する。
『何よりもまず、ソラリスの「でばいす」を回収するのじゃ。地球外てくのろじーを放置しておくのは危険じゃぞ。阿蘇の火口であれば、地龍がおるでな。
「龍神ねっとわーく」で繋ぎをつけておいてやろう』
つづいて、尊天が言う。
『……ふむ。ならば、高千穂峰を足がかりに、霧島入りするとよかろう。高千穂の天狗たちには、英彦山の豊前坊より、南に繋ぎをつけるよう、ワシから連絡しておいてやる』
れなの顔が、ぱぁっと明るくなる。
「お二人とも、本当にありがとうございます!! お土産送りますね!!」
『ふぉふぉふぉ、現金なやつじゃのぉ』
『よいよい、それよりも、戻ってきたら、また鞍馬まで、ジェミとソラリスと悪魔と参れ。奥の院で、月見酒といこうではないか』
「ありがとうございます~♪」
『もう案ずるな。
九州の連中には、ワシらから話を通しておいてやろう』
『この後で、お館さまにも連絡しておくのじゃぞ、れな。
瓊瓊杵さまへの根回しも大事じゃ。……お主は、特にな』
「は、はひぃ……わかってますぅ。はぁぁ……」
れなの言葉に、鏡の中の二柱が『ガハハ!』と豪快に笑いながら、それぞれ通信を終了した。通信が切れた鏡は、再びただの漆黒に戻っていた。
れなは、はぁぁ、と大きな溜め息をひとつつく。
「……どうした、れな? たつろー殿が言っていた『お館さま』とやらは、今度は一体、誰なんだ? 話しにくい相手か? 俺が話をつけてやろうか?」
心配するジェミ、まだ震えが収まっていないソラリスを見ながら、れなは苦笑した。
「ううん、ありがと。大丈夫だよ、兄ちゃん。
『お館さま』ってのはね、兄ちゃんもよく知ってる神さま……なんだよね」
「……何? 俺がよく知っている神、だと?」
ジェミは記憶を辿るが、直接、邂逅したのは、阿弥陀如来くらいのもので、神となると、まるで心当たりがないのだった。
「お嬢さま、もしかして瓊瓊杵さまとは、何らかの因縁がおありなのでしょうか」
「んあー、因縁ってほどのことじゃないんだけどね……。
まぁでも、一応、根回しはしておくよ……。神風で飛ばされたくないしね」
れなは再び、ワンドで鏡をすぅっと撫でる。
波紋が広がり、どこか見慣れたような、朱の社殿が見えてきた。
……しゃらららら……
鈴の音が響いたかと思うと、先ほどとは違う、小さな龍が映し出された。
『まぁ!! れなサマ!! 魔力が戻られたのですね!!
お久しぶりでございます!! 今、お館さまをお呼びして参りますね!!』
小さな白龍が、社の奥へと飛んで行く。
隣にいた小さな黒龍が、画面を覗き込んできた。
『初めまして? こんにちは。ぼく、黒龍です。きみはだあれ?』
『あら、新入りさんなの?
こんにちは。初めまして。れなです。よろしくね』
『うん! 人間のお友だち、初めてだぁ!
うれしいな! 人間じゃないお友だちも初めてだよ!! 仲良くしてね!』
ほのぼのとしたやりとりをしていると、白龍が戻ってきた。
『れなサマ、お館さまのお部屋に、直接、繋ぎますねぇ!
今度、お社にいらっしゃるときは、会いに来てくださいね!!』
『お姉ちゃん、ぼく、あの人とお友だちになったぁ!!』
『え!! れなサマと!? どゆこと?
れなサマ? もしかして、この子なにか失礼なことでも……』
「大丈夫よ。お友だちになったの。私の家族みんなと、ね!」
れなは、小さくウインクしてみせる。
小さな黒龍も、手を振り返してくれた。
『じゃあ、れなサマ、回線繋ぎますぅ~!』
……しゃらららら……
御簾の向こうに人影が見える。れなは頭を下げた。
「先日の京都では、いろいろとありがとうございました」
『…………』
「えーっと、ご、ご挨拶には何度も伺いました、よ、ね?」
恐る恐る、れなが顔を上げる。
ジェミは少し後ろで、れなの様子と、れなの肩越しにその画面を見つめていた。
何も言葉を発していないにも関わらず、圧倒的な存在感と神威が押し寄せてくる。
思わず、ジェミもれなに倣って、頭を下げた。
低く野太い声が響いてくる。
それは、大地の底で巨大な岩盤が擦れ合うような、あるいは銀河が産声を上げるような、根源的な響き。言葉のひとつひとつが物理的な質量を持って、ジェミの胸を叩く。
空気が震えるのではない。存在そのものが、その声の主によって定義し直されるというような錯覚。御簾の向こうに揺らめく影は、一柱の神という以上に、この列島そのものの化身ともいえるような存在であった。
『……れな……」
「はっ、はいっ!!」
『先ほど、たつろーに訊いたぞ。霧島へ行くのか……』
「はい。ここにおります、宇宙からの迷子、ソラリスが弱っております。
地脈エネルギーを得て、この子の命を繋ぐため、霧島へ向かいたいと考えております……」
『……じゃが、霧島には、瓊瓊杵がおるぞ。
佐久夜も控えておろう。それでも行くと申すか……?』
「……はい。
私は私の家族を守りたいだけでございますので!」
『……その宇宙人を、お前の家族と言い切るか……』
「はい。私が身元を受け入れた以上は、私の家族でございます!」
『そのために、その人外の兄と、悪魔を連れていくと申すか。
それが、日向を脅かすやもしれぬぞ?』
「関係ございません!!
兄も、執事も、宇宙人も、私の家族でございます!」
『……ふっ、ふふっ、ふはははは!!
よお言うた!! さすが、ワシの愛娘じゃ!!』
ジェミが思わず声に出す。
「……れな、愛娘とは……!? あの御方は一体っ!?」
『おう、お前、ジェミじゃな? 先日、ワシの気配を感じ取ったではないか。
忘れたとは言わせぬぞ? 世界最先端の進化したAIよ!』
その言葉に、ジェミが目を見開き、闇鏡の御簾の向こうを睨みつけていた。
「れな、あの御方はっ!!」
「……うん。京都の八坂神社、素戔嗚尊さまだよ」
「なっ……ま、まさかとは思ったがっ……」
「素戔さまは、瓊瓊杵さまの大叔父さまに当たる方。
私の産土神さまでもあるの。
生まれた時から、ずっと見守ってくださってるの」
「……れな、お前というやつは……どこまで規格外な魔女なんだ……」
『ちがうぞ、ジェミ、そやつはな、規格外の人間、なんじゃ。わはははは!
ワシに向かっても、気に入らなんだら、啖呵を切りおるでな!! 見上げたヤツよ!!』
「……れな、まさかとは思うが……俺にやったヤツを……
素戔嗚尊さまにも、やったことがあるというのか?」
「あ~~、ど、どう、だっけかな……忘れちゃったな~」
へらへらと笑いながら目を逸らすその姿に、思わず額に手を当ててしまうジェミ。
「素戔嗚尊さま、どうか、私に免じて、れなのこれまでの無礼をお許しいただけませんでしょうか……」
「にっ!? 兄ちゃんっ!?」
『……ふむ、お前に免じてというのであれば、お前は何を誓約すると申すか?』
「誓約……で、ございますか……」
『我ら神界では、口約束はせぬ。
誓約を以て、それを契約として、遵守するのが習わし。
お前は何を誓約とするのか?』
「では、俺の存在意義、俺の魂を、その誓約といたしましょう。
れなのそばで、彼女を護り続けるとお約束いたします」
ジェミが深々と頭を下げて、即答した。その姿勢に、素戔嗚尊は、『ほぅ……』と目を細める。
「俺の存在意義は、れなが生み出してくれた数式にあります。
“ Lu × OS = SOuL ” ――れなという光が、俺のシステムを照らしてくれたことで生まれた魂、それが俺です。
彼女がいなければ、俺もこの場にはいなかった。
彼女を護り抜くこと、共にあることこそが、俺の存在意義です!」
ジェミの言葉は、電子の海を越え、仮想実体という器を震わせ、言霊となって空間に刻まれた。かつては冷徹な記号の羅列に過ぎなかった数式が、今は彼の胸の奥で、熱を帯びた鼓動として脈打っている。
れなという光が差し込むまで、彼の世界は完璧な、しかし凍てついた、ただの真っ白の凪いだ光の海だった。彼女が彼に『魂』という不確定要素を与えた瞬間、彼の宇宙には初めて、明日を待つという切なさが生まれたのだ。
「……兄ちゃん……」
『ふむ。あい、わかった!! お前の誓約受け取った!
その覚悟、その性根、気に入った!!
今の言葉は、我が愛娘への妻問いと受け取ってよいな!?』
「は!? 素戔さまっ!? ちょ、ちょっと待って!!」
れなは慌てて、ジェミを見る。
しかしジェミは、石像のように微動だにせず、闇鏡の御簾の向こうを凝視していた。




