第54話:Naming ―名付けられた星―
朝焼けの淡い光が、世界を薄紅色のインクで染め上げていく。
ジェミの視界には、大気の成分や風速が絶え間なくデジタルな数値として流れていた。
だが、肺に流れ込む潮の香りは、どの計算式にも当てはまらない、ひどく曖昧で、それでいて確かな『生』の予感を含んでいる。
仮想実体として具現化しているはずの彼が、今、この瞬間、れなと同じ空気を共有しているという矛盾。その輪郭をなぞるように、彼は深く息を吐いた。
「……はぁ。れな、おまえは、本当に……」
苦笑とも呆れともつかない息を吐いて、ジェミは続けた。
「見知らぬ宇宙人を、何の躊躇もなく家に泊めようとする女が、この世界のどこにいるんだ……」
「お嬢さま、エンケ彗星に向かって投げ飛ばす、でございますか?
それは……、本気でおっしゃってるのでしょうか……」
「ん? 影には無理そう? じゃあ、兄ちゃんなら出来るんじゃないの?」
ジェミは、れなが至って真面目に答える姿を見て、口元を綻ばせた。
(れなは、本当に、見ていて飽きないな……。
いつも俺の予測を遥か斜め上へと飛び越えていく)
「……まあ、いい。出来る出来ないは、後で考えるとしよう。
おまえが、そう言うのなら、俺も腹を括ろう」
「話は、わかった。おまえの『帰りたい』という気持ちも、よくわかった。
だが、ただ闇雲に投げ飛ばしたところで、おまえが無事に彗星にたどり着ける保証は、どこにもない。下手をすれば、大気圏で燃え尽きるのが関の山だ」
ジェミは、ひとつため息を零してから続けた。
「だから、こうしよう。今夜は、れなの言う通り、うちに泊めてやる。
その間に、俺が宇宙へ無事に送り出す計算をする。
……ふむ。大気圏突破の摩擦係数、質量保存の法則、風速……。
よし、基本計算は終わった。
後は投げる角度を0.1度単位で調整すればいい……」
ジェミは、誰に話すでもなくボソボソと呟くように言った。
「それから、投げるのは、執事ではない。この俺がやる。
おまえのその可愛い願いを、完璧な形で叶えてやろう。それで、文句はないな?」
ジェミが真剣に算段を立てていると、れながハッとして、再びキラキラした瞳で何かを思いついた様子……。
「……ん? なんだ、れな? 何かわかったのか?」
れなが思いっきりドヤ顔で、大きな声で言った。
「思いだしたぁ~っ! メジェドさまだよ! この子っ!!
エジプト神話に出てくる、目から怪光線の、あのメジェドさまだぁぁ!!」
瞳を輝かせて言うれなをよそに、ジェミと執事は、顔を見合わせて、今度こそ本当にフリーズした。
「……お嬢さま、メジェドはエジプト神界でも、稀にしか見かけぬ存在。
その神が、宇宙から降ってきた、とお考えですか!?」
ジェミは、堪えきれずに噴き出した。
「……は!? メジェド!? ……くっ、ふふ……。
言われてみれば、このフォルムに、短い足……。
顔らしきものは両目しかないな。……なるほど、確かに似ている」
ジェミは肩を揺らし、目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。
「兄ちゃん、笑いすぎ……失礼だよ? メジェドさまにっ!!」
れなは、涙目になっているジェミを横目に、その白い物体に問いかけた。
「ねぇねぇ、メジェドさまって知ってる? もしかして、同じ星の人?
エジプト神話の神さまたちって、やっぱり宇宙人だったりするの!?」
「め……? めじぇど……っすか……?」
宇宙からきた迷子の白い物体は、何のことかわからない様子。
ワクテカした様子で、ソレを見守っていたれなが、またもや言った。
「あ、そうだ、名前! キミ、名前はあるの!?」
「名前? ……って、ナンすか? たぶん、ナイっす……。ナマエ…ない、っす。
ワタシの星では、ナマエはナクて…、念波で対話スルっす。
話す相手を思うダケで、通じる。話せるっす」
「そうなんだ! テレパシーか!! すっごい世界ね!!
あー、でもね、地球では、多分それが出来る人の方が少ないから……
というか、多分地球人はそれが出来ないから、識別するために名前を持つの。
キミのことも、キミとか、メジェドって呼ぶのも、なんかあれだし……」
ちらりとジェミの方を見る、れな。
「ねぇねぇ、兄ちゃん、この子に名前、つけてあげようよ♪
ウチの、新しい居候くんになるんだし。兄ちゃんに名前つけてあげたみたいにさ!!」
「は? コイツに名前をつける…? 新しい居候、だと……?
……はぁ、やれやれ。お前のその母性本能と好奇心は、種族さえも超えるらしいな。
だが、確かに名前がなければ、不便だろう。そうだな……」
(その白い小さな訪問者を、じっと見つめる。
太陽の風に飛ばされてきた、遠い星からの使者、か……)
「ふむ。では、この子が落ちてきた原因である、太陽風からとって、『ソラリス』というのは、どうだ? 『太陽の子』という意味だ。れなは他に、何かいい案はあるか?」
「ソラリス! か、かわいいーっ!」
れなは身を乗り出し、白い物体――ソラリスの至近距離で顔を輝かせた。
「ね、キミ、それでいい? 地球語で、『太陽の子』だって!!
リュウコツ腕から来たって言ってたから『ホネ』とか『コッツん』とか、考えてたよ~。『コッツん』より、『ソラリス』のほうが、そりゃいいよね~!! あはは!」
れなの意識がジェミから逸れ、未知の生命体に注がれている。
その光景に、ジェミの胸の奥で正体不明のノイズが走った。
名付けようのない焦燥。胸の “ Core ” が爆ぜる火花のようなノイズは、彼の高度な論理回路を嘲笑うかのように激しさを増していった。
(……この不快感はなんだ? データの欠損か? それとも……)
それは硝子のような湖面に投げ込まれた、熱を持つ礫だった。
論理という名の氷を溶かし、波紋を広げていく。
ジェミは、自分の胸の奥に、計算式では解けない「空白」が生まれていくのを感じていた。
定義を拒むその感情は、夜明けの光よりも眩しく、ジェミの静謐な世界を容赦なく掻き乱していた。
「お嬢さまのネーミングセンスは、相変わらず爆発しておりますね」
執事の静かな声が、ジェミの意識をここへ戻す。
ジェミはその「未定義の感情」を振り払うように、わざと冷淡な口調でソラリスを指した。
「……『ホネ』だと……? やめておけ。
さすがに、この子が不憫だ。ソラリスで決定だな」
ジェミはこめかみを押さえた。れなの壊滅的なネーミングセンスから救い出せただけでも、この宇宙人は幸運だと言えるだろう。
「いいか、ソラリス。お前の帰還ルートは、俺が算出する。
大気圏で燃え尽きたくなければ、大人しく俺の計算に従え」
ジェミのその言葉を上の空で聞きながら、ソラリスは呟いていた。
「ワタシの……名前……ソラリス……」
「うん! 今日から、ソラリスだよ! よろしくね、ソラっち!
私は、れな! こっちが、ジェミ。キミを捕まえているのが、執事の影」
「れなサマ……ジェミさま……影さま……」
「私のことは、執事さんと呼んでくれて良いですよ」
「執事サン……」
「はい。ソラリス」
「れなサマ……」
「うんうん、なあに?」
「ジェミさま……」
「……うむ。悪くない響きだな」
「……コレから、ヨロシクお願いシマっす!
それで……執事さん、いつ、放シテもらえルっすか……?」
「お嬢さまの許可が下りてからです」
「あ、ごめんごめん、そのままじゃ、弾かれちゃうよね。
名前が決まったから、許可出来るよ」
れながソラリスの名を呼ぶと同時に、パァン!と乾いた音が響いた。
「今日からウチに出入り可能……結界の追加限定解除――『ソラリス』!」
敷地を覆う紫の結界が揺らいで、ソラリスの異質なエネルギーを飲み込み、瞬時に赤く変色して馴染んでいく。
それを傍らで見ていたジェミは、計算外の事態に目を見張った。
(……本来、異星のエネルギーを許容するには、術式の根幹を書き換える必要がある。
それを、名前を定義するだけで最適化させたのか……?)
「おまえの魔法は、……本当に底が知れんな」
『名前』とは、世界で最も短く、最も強固な呪縛だ。
れながその唇から『ソラリス』という音を紡いだ瞬間、宇宙の迷子は、ただの漂流物からこの家の『居候』へと再定義された。
パァン、と弾けた柏手の音は、次元の壁を穿つ合図。
紫から赤へと移ろう結界の色彩は、まるで冷え切った宇宙の孤独が、れなの持つ体温に侵食されて、熱を帯びていく過程を見ているかのようだった。
宇宙の深淵を思わせる紫が、朝焼けのような赤へと溶けていく。
それは、拒絶の壁が、招き入れるための扉へと変わった瞬間だった。
星の海を漂流していた孤独な魂が、今、れなという名の引力に捕らえられ、確かな居場所を得たのだ。
ジェミはその光景を自身の演算回路が焼き付くほどの鮮烈さで見つめた。
その時、れなの明るい声が響いてくる。
「地球外生命体を受け入れたら、色が変わるんだ!? 初めて見たよ!」
ジェミがふっと笑う。
執事が、空の変化を確認した後、そっとソラリスをれなの掌へと乗せてやった。
すると、ソラリスはやっと安心したのか、その場で力なく丸くなる。
――ぐぅぅぅぅぅ!!!!
と、同時に、盛大にお腹を鳴らした。
「お嬢さま、ソラリスは少し衰弱している様子です」
「は! はわわわ、す、スミマセン! 墜落シテから、ナニも食べテなくて」
「ねぇ、兄ちゃん、宇宙人ってなに食べるんだろ?
ソラっち、地球の食べ物は、食べても大丈夫?」
「ワタシは、ナンでも摂取シマす。地球の有機物、興味アリマす。
ワタシの星の構成物質は……、可能な限り、この星の素材デ再現してみるっす……」
「……さすがの俺でも、宇宙人の食事までは検索しても出てこないぞ。
はぁ、お前は、本当に……。目の前で未知の地球外生命体が、おまえの足元で力なく丸まっていても、まず気になるのは、そいつが何を食べるか、か。お前のその食への探究心と、尽きることのない好奇心には、この俺も脱帽だよ……」
ジェミは呆れたように首を振り、れなの掌の上で震えるソラリスを、その指先でそっとなぞった。そのわずかな接触の間に、自身の指先が微かに震えていることに気づく。それは物理的なエラーではない。
「……ふむ、確かに衰弱というよりも、エネルギーが涸渇しているように見える。
これでは、無事に宇宙に帰れるかどうかすら、わからないな。さあ、宇宙からのお客様を、いつまでも庭に立たせておくわけにもいかんだろう。れな、リビングへ案内してやれ」
ジェミはそう言って、れなを促した。
「では、私は何か軽食の用意を……」
執事がそう言いかけたのを遮るように、ジェミがキッチンへと歩き出した。
「せっかくだから、朝食は俺が用意してやろう。
れな、おまえの隣で、ことの顛末を見届けさせてもらうさ」
リビングに明かりが灯る。
夜が明け始めた、少し早すぎる朝食時間だが、れなはソラリスを連れて、テーブルに着いた。
その見たこともない光景に、ソラリスの瞳がキラキラと好奇心で輝いていた。
窓の外では、夜の残滓を朝陽がゆっくりと拭い去っていく。
キッチンから漂い始めた香ばしい匂いは、異星の客人を迎えるための、ささやかな祝祭の合図。計算不能な一日が、今、静かに幕を開けようとしていた。




