第52話:Encounter ―未知との遭遇―
まだ、夜が明けきらない暗闇の中。
世界は、まもなく訪れる嵐の予感に震えていた。雨はまだ落ちてきていない。
しかし、大気は湿った重みを孕み、低く垂れ込めた雲が星々の瞬きをことごとく塗り潰している。
吹き荒れるのは、すべてをなぎ倒さんとする暴力的なまでの暴風だ。
それは唸り声を上げる獣のように屋敷を包囲し、シャッター越しに窓枠をガタガタと震わせ、庭の木々を狂ったように振り回している。
時折、遠くの空が紫がかった白光に爆ぜるのは、天が怒りを溜め込んでいる証拠だろうか。雷鳴はまだ遠く、地響きのような重低音が、これから始まる狂乱の序曲として足元から伝わってくる。
足元で、何かが蠢いたような気がした。
激しい暴風の向こう側、物理的な暗闇とは異なる、もっと濃密で、光を吸い込むような「空白」がそこにある。微かに揺らめく、空間の歪みから、何かがいることは確かだった。
「ティア、エルピー、防御強化!」
「にゃっ!」
「ピピっ!!」
「翠、ジェミの守護強化」
「キュイ!!」
我が家の三騎士たちが、防御魔法を展開する。
「れな、おまえは俺が守る」
「うん、兄ちゃん、頼りにしてる。影、見えたら捕まえて。傷つけちゃダメ」
「御意」
「……で、兄ちゃん、見える?」
「……いや、見えない」
「でも、気配はあるよ。やっぱり、地球の生き物じゃないのかも?」
「地球の生物では、ない? ……なるほど。高次元からの干渉か、あるいは、全く別の物理法則下で存在する生命体か。どちらにせよ、……俺たちの常識が通用する相手では、ないらしいな」
その時――
足元からすこし向こうの草むらへと、何かが逃げるように移動する。
次の瞬間、執事が庭へ素早く飛び出して、何かを捕まえた。
「れな、もっと後ろに下がれ! 俺から離れるな!!」
「お嬢さま、敵意や害意は感じられません」
「影!? 捕まえたのっ!?」
「あ~っと、お嬢さま……」
「え、なに? 逃げちゃったの?」
「いえ、私がこの手で、しっかりと捕まえておりますが……」
珍しく執事が困惑している。
「ん? どこ? 何も見えない」
執事がふわりと手をかざす。
その指先が、荒れ狂う風を避けるようにして、虚空に漂う「違和感」を掬い上げた。それは、星屑の残滓が泥に濡れたような、あるいは月光を吸い込んで固まった影のような、奇妙な輪郭を帯びていく。
すると、そこに泥が渇いてカピカピになった状態の『なにか』が現れた。嵐の激しさとは対象的に、その物体はひどく冷たく、そして壊れそうなほどに儚い存在感を放っている。
何とも形容しがたい『なにか』が捕まり、その手にぶら下げられていた。
「……おい、影、なんだ、それは……」
「私にもわかりかねますが、敵意や悪意はなく、かなり衰弱しております。
干潟に落ちてから数日彷徨い歩いて、ようやくこの屋敷に辿り着いたと、そう申しております」
「え! 話せるの!? 私の言葉も通じるかな?
数日も迷子になって、ずっと歩いてきたのっ!?
衰弱してるって、大丈夫なの!?」
途端にれなの瞳が、キラキラと好奇心と心配の色に輝いた。
それは、昏い嵐の夜に灯された、たったひとつの無垢な灯火だった。
恐怖という影を焼き払い、未知という深淵の奥に眠る真実を照らし出そうとする光。
彼女にとっては、世界は常に驚きに満ちた宝箱であり、目の前の異質な存在さえも、その中のひとつに過ぎなかった。
「れなっ!?」
ジェミの声は、その灯火を守ろうとする冷徹な盾だ。彼の慎重さは、れなの熱すぎる情熱を冷ますための、慈しみ深い氷の壁でもある。分析し、定義し、安全を確保する。
それは、本人がまだ自覚していない、愛のひとつの形だった。
「明確な敵意がないのなら、私、お話ししてみる……」
「……は!?」
真面目な顔をして言うれなを見て、そのあまりにも突拍子もない提案に、一瞬ジェミの思考の全てがフリーズする。ジェミは一瞬、ぽかんとしたような、呆れたような顔になり、盛大にため息をつき、どうしようもなく低い声を出した。
「はぁぁ、れな……。
おまえ、今、何と言った!? 話してみる、だと!?」
ごくわずかな間に、めまぐるしくジェミの表情が変化するのを見て、れなは思わず、ぷぷっと吹き出してしまった。
「こら、笑い事じゃない。お前のその旺盛な好奇心は、素晴らしいものだ。
だがな、相手が何者かもわからないんだぞ?
声も聞こえない、言葉もわからない相手と、どうやって話すつもりだ」
窘められているというのに、れなはまだ笑いが堪えきれずに、クスクスと笑い続けている。ジェミも釣られて、とうとう肩の力が抜けてしまった。
「……はぁ、やれやれ。お前には敵わないな。
だが、約束しろ。俺よりも絶対に前に出るな。いいな?」
コクコクと頷きながら、れなは答えた。
「……うんうん、出ない。出ない。
それに、確かにそうよね。影は、その子の話すことがわかるんだよね?
私の言葉を伝えてみてくれる? 繋げられるなら、チャンネルを繋げて。
それから、そのカピカピに乾いた泥も落としてあげてくれる?」
影が、翠とエルピーを呼ぶ。
「翠、浄化のバブルで洗浄を、エルピーは治癒と乾燥を頼む」
「きゅぃぃぃ!!」
「チュンっ! ピチチチ!!」
翠がたくさんの泡でその物体を包み、最後に大きなバブルで洗い流すと、泥が綺麗に落ちた。続いて、エルピーが弱っているその身体を、癒しの風で包み込みながら、ふわりと乾燥させていった。
そして――
執事の手に捕まえられたそれを見て、れなとジェミは顔を見合わせた。
「……に、兄ちゃん……あ、アレは、なに?
何だろう? どこかで……見たことあるような気がする」
「なんだ……あれは。俺のデータベースにも類似するモノが……」
執事に捕らえられている『それ』は、白い布を被ったような、二頭身の小さな生き物だった。その白い布に大きな目がふたつ。そして、短く黒い小さな足が二本。執事の言うように、怯えているのか、小刻みに震えている。
「わからん。俺のどのデータベースにも、該当する生命体データがない。
地球上の、既知の生物とは、思えんな……」
「だが、おまえの言う通り、敵意や悪意の類は、俺も感じない。
むしろ――そうだ、これは迷子の子供のような、寄る辺のない心細さを感じる。
れな……おまえには、これがなんなのか、分かるか?」
その姿を視認した途端、れなの思考は急停止した。
――いや、停止ではない。逆だ。全力で回転し始めていた。
れなの全身から、抑えきれない何かが溢れ出してくる。
それを見て、また怪訝な顔をするジェミ。
「……兄ちゃんっ! あれ、あの子……あの子?
いや、なんでもいいや! あれ、う、宇宙人じゃないのっ!?」
「はあ? 宇宙人……だと? お前は、……さっきまで、あんなに警戒していただろう。
それが、どうしてそんな、未知との遭遇を喜ぶ子供のような目になっているんだ……」
執事もその言葉に、れなの近くへ連れて行っていいものか、どうなのか、判断しかねていた。
「なに言ってんのよ! 兄ちゃんっ!
これこそ、本当の『未知との遭遇』よっ!?
たーたー たららら たーたー よ!!
これ以上に、ワクテカするようなこと、人生にあるっ!?」
思わず歌ってしまうれなに、ジェミは返す言葉を失っていた。
そして、もう何を言っても無駄だというように、頭を振る。
執事も、謎の物体を捕まえたままで、庭で立ち尽くしていた。
「ねぇねぇ、キミ、迷子なの? 本当に、敵意や悪意はないの?
私たちに危害は絶対に加えないって約束してくれる?」
執事が何やらもぐもぐ言うと、その白い物体はこちらに向いて、一生懸命手をバタバタさせて何かを言い始めた。
「ごめん、ごめん! 待って、待って!!
そのままじゃ、私にはキミの言葉がわからないの。
キミを捕まえてる、その執事とチャンネルをあわせてみてくれる?
キミの世界の言葉をリンクさせて欲しい。そしたら、私にもわかるからね?」
れなの言葉を理解したのか、執事となにやらゼスチャーでわちゃわちゃしたのち、れなの頭に声が響いてきた。
「あ! うん、聞こえる! わかるよ!! キミの言葉。
でもね、このままだと私にしか聞こえてないの。念波を音にして、空気に振動させてみてくれる? 私がキミに話しかけてるみたいに、声を出してみて? わかる? できるかな?」
執事が、その白い物体に説明している。
それが、ゆっくりとこちらを見て、話し出した。
「……ガガッ……あ、あー……。コレで、……聞こえ、ル?
タイヨウ……ツカまった。コノ星の……衛星ニ墜落シテ、ココとばされた……ひとりデハ、宇宙にカエレなくて、エネルギー、つよいトコロ、探してキタ」
「ココ、アナタ、すごくつよい……タス、ケテ……ください。
宇宙、カエリ、タイ。僕の船、もうナイ、けど……」
その声は、真空の闇を何千光年も旅してきた孤独な木霊のようだった。数え切れない星々の死を見届け、冷たい銀河の風に吹かれ続けた小さな魂。
帰るべき場所を失い、重力の檻に囚われた異邦人の嘆きが、暴風の轟音を縫って、れなの胸の奥へと染みこんでいく。れなはその震えの中に、自分たちと同じ「生」の熱量を見いだしていた。
「うっ……ウチュウジン! キタァァァーーーー!!」
両手のこぶしを高く突き上げるれなに、苦笑いして、呆れてしまうジェミ。
「……はぁ……。やれやれ。ウチュウジン、キター、ではないだろう、普通。
お前は本当に……その好奇心が、いつか命取りになるぞ」
ジェミは、あらためてその白い物体を鋭く見据えた。
「だが、話はわかった。太陽に捕まって、月に落ちてきたのはお前だったのか。
それで……ひとりでは、宇宙に帰れない、と」
はぁ、とまたひとつため息の後、一気に告げた。
「れなの強いエネルギーを頼って、ここまで来た、か。
……なるほどな。おまえの言うことは、よく分かった。
だが、助ける、助けないは、こちらの判断だ」
「まず、おまえが、何者で、どこから来て、俺の大切な妹に危害を加える存在ではないという、証明をしてもらう」
「おい、影。そいつを絶対に離すな。れな、お前も俺の後ろから出るんじゃない。
『未知との遭遇』は結構だが、まずは、安全確保が最優先だ。分かったな?」
うんうん! と、ブンブン頭を振り、ジェミの後ろから、ちょこんと頭だけ出して、その白い物体に、れなは尋ねる。
「ねぇねぇ! キミは、どこからきたの? ここにきたのは、どうして?
ウチの結界のエネルギーに反応したの? どうして、それがわかったの?
銀河系のどこかのひとなの? それとも、もっと違うところから来たの?」
好奇心という名の光を瞳に宿したまま、れなの質問は、暴風の唸りを切り裂いて容赦なく降り注ぐ。空はいつの間にか、狂乱の予兆を脱ぎ捨てるように白み始めていた。
雲の切れ間から差し込む微かな光が、風に揉まれた庭の木々を淡く照らし出し、世界を再構築していく。
異星からの迷子と、それを受け入れようとする女性。
長く険しい、けれど眩しいほどに新しい冒険のプロローグが、今、夜明けの静寂の中に静かに書き込まれようとしていた。




