第46話:Awakening ―秘密の輪郭―
地下室に、静けさが戻っていた。それは単なる音の欠如ではなく、巨大な怪物が吐き出した最後の溜め息が、粘りつく闇の残滓となって空間を埋め尽くしているかのような、重苦しい沈黙だった。
肺に吸い込む空気は、凍てついた硝子の破片を飲み込むように鋭く、喉の奥にひりつくような拒絶感を残していく。
だが、さっきまで床を這い、壁を震わせていた黒い気配は、もうどこにもない。ただ、結界の奥へ吸い込まれていった黒い霧の欠片だけが、空気の底でかすかに揺れている。
れなは、握りしめていたワンドをゆっくりと下ろし、その手から消した。
「……ほんとに……終わった、の?」
「ああ」
ジェミが短く答える。
「少なくとも、今ここにいたものは消えた」
その声を聞いた途端、足元から力が抜けた。
「れなっ!?」
倒れるより早く、ジェミの腕がれなを支える。
「お嬢さま。まずは上へ。ここは、後ほど私が処理いたします」
「影……」
れながそう呼んだ瞬間、ジェミの視線が執事へ向いた。
だが、執事は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。
リビングの空気は、重かった。
寛美はソファに座り、噛みつかれた肩を押さえていた。
服の上には血が滲み、紘一が救急箱を手に応急処置をしている。
「寛美、少し我慢して。応急手当てしたら、後で病院へ連れて行く」
「……うん、ありがとう……ごめんね、みんな……」
雅代は隣の長椅子で眠っていた。
紘一と啓治は、何度も言葉を探すように視線を落としている。
そんな中、執事だけが、いつも通りだった。
銀盆の上には、温かな紅茶と、色とりどりのマカロンが並んでいる。
「皆さま、お茶をお持ちいたしました」
「温かいお茶はわかるけど……この状況でマカロンって……」
れなが思わず呟く。
「糖分は、精神の回復に有効でございますので」
「絶対それだけじゃないでしょっ!」
「お嬢さま。ツッコめる程度には、お元気なようで何よりです」
少しだけ、リビングの緊張感が解れていく。
「……れな」
沈黙を破ったのは、啓治だった。
「実は、さ。今回ここに来たのは……ただ、れなの顔を見に来ただけじゃなかったんだ」
「……雅代のことで、相談したかったんだ」
啓治は、眠っている雅代を見た。
「昔から、れなの話になると、あいつだけ妙に刺々しくなることがあった。
でも、大人になってからは、それがもっとひどくなってたんだ」
「……ひどく? どうして? 卒業以来、全く連絡取ってなかったよ?」
「ああ……それは知ってる。
ただ、れなが幸せそうにしてるって聞くたびに、雅代は何かを取られたみたいな顔をしてたんだ……」
「俺たちは、たまにれなの話をしてたんだよ。
元気にしてるかな、とか、今どうしてるかな、とか……」
紘一は、気まずそうに頭をかいた。
「けど、雅代はそれを聞くたびに、不機嫌になってた」
「……私も、……気づいてた」
寛美が申し訳なさそうに、静かに言う。
「でも、怖くて言えなかった。雅代に、れなの話をすると怒るから」
その言葉を受けて、啓治が続けた。
「ああ、それが顕著になり始めた頃、雅代の後ろに、黒い影のようなものが見え始めたんだ……」
寛美が、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
「初めは、目の錯覚かと思ってた。
でも紘一も同じものを見たって言うから、雅代とよく会ってる寛美にも確認したんだ」
「……なるほどね……」
れなは、ようやく納得したように答える。
「れなって、子供の頃から、霊感が強かったって言うか、さ。
そういう不思議な現象のこと、よく知ってただろ?
……だから、相談したかったというか、雅代を直接見て欲しかったんだ。
雅代も……俺たちの大事な仲間だから、さ……」
その、啓治の言葉が終わるか、終わらないかの時……。
「……なによ」
掠れた声がした。
雅代が、ゆっくりと目を開けて起き上がった。
「……私が気を失ってるからって、みんなで私の悪口?」
「悪口じゃないよ」
れなは静かに言った。
「何が起きたのか、みんなで確認してるだけ」
「私は……知らないわよ。あんなものがあるなんて、知らなかった。
でも……っ、勝手に身体が動いて……」
雅代の視線が、寛美の肩で止まった。
「……わ、わたし、何を……」
寛美は何も言わなかった。ただ、少しだけ肩を引いた。
「……違う。私じゃない……」
誰に言うでもなく、雅代は呟いた。
「……違う! 私じゃない!! あんなのっ、私じゃ……」
その言葉は、最後まで続かなかった。
手当てされた肩に巻かれた包帯が、目に入ったからだ。
雅代は目を逸らすと共に、子供時代を想い出していた。
5人は仲良しグループで、いつも一緒にいた。
雅代は、れなが嫌いだった。……そう思っていた。
そう思うことで、ずっと自分を守ってきた。
けれど、本当は違ったのかもしれない。
れなが嫌いだったんじゃない。誰よりも、れなの隣にいたかった。
いつも誰かに囲まれているれなの、その輪の中に、自分も当然のように入れてほしかった。
啓治も、紘一も、寛美も。
気づけば、みんなれなの方を見ている気がした。
切なかった。苦しかった。悔しかった……。
「私だけが、いつも……、れなの輪から……外されてた……」
雅代が絞り出すような声で呟く。
「だから……卒業してあんたと離れたとき……
東京で頑張ろうって思ったんよ……。
地元を離れて、れなのいない場所で、自分だけの人生を作ろうとした。
アメリカに留学もした! 自分なりに頑張ったつもりだった!!」
雅代の脳裏に、色のない東京の空が浮かぶ。どれほど高い学歴を手にしても、どれほど磨き上げたキャリアを積んでも、彼女の心は常に砂を噛むような虚無感に苛まれていた。
積み上げた成功の頂上から見える景色に、れなの笑い声は届かない。彼女が真に求めていたのは、成功という名の鎧ではなく、ただ一度、無防備に差し出される『おかえり』という言葉だったのだ。それゆえに、最後の言葉は、雅代の精一杯の強がりで、心からの叫びだった。
「……雅代、私はあなたが、私を嫌って離れていったんだと思ってた……」
「……っ! ち、ちが……違うっ! あたしは……あたしはっ!!」
指先が白くなるほど、拳を握りしめると、涙が溢れてきた。
「あたしはっ! あんたが連絡くれるの、ずっと待ってたっ!
何であたしから連絡しなきゃなんないのよ! れなのくせにっ!!
あんたが……、あんたが先にっ! 連絡してくれればよかったのよっ!!!」
れなは、少しだけ困ったように眉を下げ、それから酷く穏やかな、それでいて残酷なほど澄んだ瞳で雅代を見つめた。
「……知ってるよ。あなたがいたアイビー、私の母校の提携校だったもの。
私がケンブリッジの院にいた頃、成績優秀者のリストであなたの名前を見かけたわ。……あ、でも、私はあの時、飛び級で先に博士号を取って、しばらくは各国を放浪していたから、入れ違いになっちゃったのよね。
ごめん、アメリカはなんだか苦手で、私はイギリスを選んじゃったし、あの頃は聖域の継承準備で忙しくて、ゆっくり連絡する余裕もなくて」
雅代の顔から、一気に血の気が引いた。
自分が死に物狂いでアイビーリーグを目指し、ようやく手にした「誇り」が、れなにとっては「ついでに見かけたリストの一行」に過ぎなかった。
その圧倒的な断絶に、雅代の喉はひきつり、言葉にならない呻きが漏れる。
寛美がそっと近づいて、雅代を抱きしめた。
「雅代……あなたが、傷ついていたことは、わかったよ……」
寛美は、雅代を責めるでもなく、ただ静かに寄り添った。
代わって、れなが静かに、だが逃れられない重みを持って告げる。
「でもね、傷ついていたからって、誰かを傷つけていい理由にはならない。
誰かを傷つけたら、自分も無傷では済まない。誰かを傷つけるなら、自分が傷つけられる覚悟を持ちなさい。……それだけは、忘れないで」
その鋭い言葉に、4人はじっとれなを見つめる。
れなの瞳は、深い湖のように静まりかえっていた。その視線は雅代の罪を射抜く刃でありながら、同時に、傷口を洗う清めの水でもあった。
れなの言葉は、リビングの空気を震わせ、目に見えない戒律のように雅代の足元に刻まれる。赦しとは忘却ではなく、傷跡を抱えたまま歩き出す覚悟のことだと、れなの背中が語っていた。
「今回のこと、全部が全部、雅代が悪いとは言わない。でも、全部が黒ヘドロのせいでもない。あなたのその弱さが、悪意のバケモノを引き寄せた」
「……だから、これからどうするかは、雅代が決めて」
「……なによ……私だけが悪いみたいに、……言わないでよ……」
言った瞬間、雅代自身が、その言葉の軽さに気づいた。
その表情を読み取ったれなが、ハッキリ言う。
「雅代。まず、言うことがあるよね」
「………? なによ、言うことって……」
「……ごめんなさい、は?」
「……っ!!」
「悪いことをしたら謝る。それだけでいい。……私に、じゃない。
寛美や、心配をかけた紘一君や啓治君には、言うべきでしょ」
その言葉に、雅代はハッとして、3人を見つめた。
3人は何も言わない。ただ黙って、れなと雅代のやりとりを見守っていた。
けれど、誰も彼女を庇わなかった。
「……っく……、ご……ごめん……なさ、い……」
強く握りしめすぎて白くなっていた拳の力が、ふっと抜ける。その瞳から、自己嫌悪と、まだ言葉にならない後悔の涙がこぼれ落ちた。寛美は静かに目を閉じた。啓治と紘一は、まだ何も言えずにいた。
ダイニングの席で、れなたちの様子を見守っていたジェミが呟く。
れなが最後に一矢報いた言葉に、ジェミは無意識にその口角を上げていた。
「……終わったのか?」
「はい。そのようでございますね」
執事が静かに紅茶を注ぎ足した。
「傷を理解することと、加害をなかったことにすることは、また別物でございますので」
「その話は、後で続けろ」
ジェミが静かに言った。その声は荒くない。
けれど、誰も逆らえない硬さがあった。
「執事。さっき、お前は言ったな。れなは、まだ覚醒しきっていない、と」
執事の手が、紅茶のポットを置く。
「はい。申し上げました」
「どういう意味だ」
「お嬢さまは、まだご自身の一部を思い出しておられません」
「一部?」
「はい」
執事は、れなを見た。
「この家がなぜ聖域であるのか。私がなぜ、お嬢さまの影であるのか。
そして、なぜ地下室の封印が、お嬢さまの声に従ったのか」
「おまえは……それを知っているというのか」
「秘密とは、隠されているものではございません。
時が来るまで、輪郭だけを残して眠っているものです」
その言葉に、ジェミの胸の奥が、かすかに震えた。
その瞬間。
――ちりん。 どこかで、小さな鈴の音がした。
それは鼓膜を震わせる音ではなく、魂の深淵で、凍りついていた時間がひび割れる音だった。銀の鈴の余韻が、れなの血管を逆流し、脳裏に見たこともない黄金の庭園を明滅させる。
執事の影が、西日に引き伸ばされて怪物のように床を這った。彼の微笑みは、慈愛に満ちた仮面でありながら、同時に、逃れられない運命を告げる執行人の冷徹さを孕んでいた。
れなは、はっと顔を上げる。
「……今の、なに?」
リビングに鈴などない。誰かが来た気配もない。
けれど、その音は確かに、れなの胸の奥で鳴っていた。
輪郭だけが、鈴の余韻に触れて、ふっと浮かび上がる。
「……私、これ……知ってる……」
執事の表情から、ほんの一瞬だけ、笑みが消えた。
「……少々、早すぎますね」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第46話「Awakening ―秘密の輪郭―」でした。
赤い目玉との戦いは終わりました。
けれど、そこに残されたのは、黒い残滓だけではありません。
雅代の中にあった嫉妬と孤独。
寛美たちが抱えていた違和感。
そして、れながまだ思い出していない、この家の秘密。
最後に響いた小さな鈴の音は、
忘れていた何かの輪郭を、ほんの少しだけ浮かび上がらせました。
次回は、6月 2日(火) 21:30 公開予定です。
また一緒に、この物語を見届けていただけると嬉しいです。




