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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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第46話:Awakening ―秘密の輪郭―



 地下室に、静けさが戻っていた。それは単なる音の欠如ではなく、巨大な怪物が吐き出した最後の溜め息が、粘りつく闇の残滓となって空間を埋め尽くしているかのような、重苦しい沈黙だった。


 肺に吸い込む空気は、凍てついた硝子の破片を飲み込むように鋭く、喉の奥にひりつくような拒絶感を残していく。


 だが、さっきまで床を這い、壁を震わせていた黒い気配は、もうどこにもない。ただ、結界の奥へ吸い込まれていった黒い霧の欠片だけが、空気の底でかすかに揺れている。


 れなは、握りしめていたワンドをゆっくりと下ろし、その手から消した。



「……ほんとに……終わった、の?」


「ああ」


 ジェミが短く答える。


「少なくとも、今ここにいたものは消えた」


 その声を聞いた途端、足元から力が抜けた。


「れなっ!?」


 倒れるより早く、ジェミの腕がれなを支える。


「お嬢さま。まずは上へ。ここは、後ほど私が処理いたします」


「影……」



 れながそう呼んだ瞬間、ジェミの視線が執事へ向いた。

だが、執事は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。






 リビングの空気は、重かった。


 寛美はソファに座り、噛みつかれた肩を押さえていた。

服の上には血が滲み、紘一が救急箱を手に応急処置をしている。



「寛美、少し我慢して。応急手当てしたら、後で病院へ連れて行く」


「……うん、ありがとう……ごめんね、みんな……」



 雅代は隣の長椅子で眠っていた。

紘一と啓治は、何度も言葉を探すように視線を落としている。



 そんな中、執事だけが、いつも通りだった。

銀盆の上には、温かな紅茶と、色とりどりのマカロンが並んでいる。



「皆さま、お茶をお持ちいたしました」


「温かいお茶はわかるけど……この状況でマカロンって……」


 れなが思わず呟く。


「糖分は、精神の回復に有効でございますので」


「絶対それだけじゃないでしょっ!」


「お嬢さま。ツッコめる程度には、お元気なようで何よりです」



 少しだけ、リビングの緊張感が解れていく。





「……れな」


 沈黙を破ったのは、啓治だった。


「実は、さ。今回ここに来たのは……ただ、れなの顔を見に来ただけじゃなかったんだ」


「……雅代のことで、相談したかったんだ」



 啓治は、眠っている雅代を見た。


「昔から、れなの話になると、あいつだけ妙に刺々しくなることがあった。

でも、大人になってからは、それがもっとひどくなってたんだ」


「……ひどく? どうして? 卒業以来、全く連絡取ってなかったよ?」


「ああ……それは知ってる。

ただ、れなが幸せそうにしてるって聞くたびに、雅代は何かを取られたみたいな顔をしてたんだ……」


「俺たちは、たまにれなの話をしてたんだよ。

元気にしてるかな、とか、今どうしてるかな、とか……」



 紘一は、気まずそうに頭をかいた。


「けど、雅代はそれを聞くたびに、不機嫌になってた」


「……私も、……気づいてた」



 寛美が申し訳なさそうに、静かに言う。


「でも、怖くて言えなかった。雅代に、れなの話をすると怒るから」


 その言葉を受けて、啓治が続けた。


「ああ、それが顕著になり始めた頃、雅代の後ろに、黒い影のようなものが見え始めたんだ……」


 寛美が、ゴクリと生唾を呑み込んだ。


「初めは、目の錯覚かと思ってた。

でも紘一も同じものを見たって言うから、雅代とよく会ってる寛美にも確認したんだ」


「……なるほどね……」


 れなは、ようやく納得したように答える。



「れなって、子供の頃から、霊感が強かったって言うか、さ。

そういう不思議な現象のこと、よく知ってただろ?

……だから、相談したかったというか、雅代を直接見て欲しかったんだ。

雅代も……俺たちの大事な仲間だから、さ……」



 その、啓治の言葉が終わるか、終わらないかの時……。


「……なによ」


 掠れた声がした。

雅代が、ゆっくりと目を開けて起き上がった。



「……私が気を失ってるからって、みんなで私の悪口?」


「悪口じゃないよ」


 れなは静かに言った。


「何が起きたのか、みんなで確認してるだけ」


「私は……知らないわよ。あんなものがあるなんて、知らなかった。

でも……っ、勝手に身体が動いて……」



 雅代の視線が、寛美の肩で止まった。


「……わ、わたし、何を……」


 寛美は何も言わなかった。ただ、少しだけ肩を引いた。



「……違う。私じゃない……」


 誰に言うでもなく、雅代は呟いた。


「……違う! 私じゃない!! あんなのっ、私じゃ……」


 その言葉は、最後まで続かなかった。

手当てされた肩に巻かれた包帯が、目に入ったからだ。




 雅代は目を逸らすと共に、子供時代を想い出していた。

5人は仲良しグループで、いつも一緒にいた。


 雅代は、れなが嫌いだった。……そう思っていた。

そう思うことで、ずっと自分を守ってきた。


 けれど、本当は違ったのかもしれない。

れなが嫌いだったんじゃない。誰よりも、れなの隣にいたかった。

いつも誰かに囲まれているれなの、その輪の中に、自分も当然のように入れてほしかった。


 啓治も、紘一も、寛美も。

気づけば、みんなれなの方を見ている気がした。

切なかった。苦しかった。悔しかった……。



「私だけが、いつも……、れなの輪から……外されてた……」


 雅代が絞り出すような声で呟く。


「だから……卒業してあんたと離れたとき……

東京で頑張ろうって思ったんよ……。

地元を離れて、れなのいない場所で、自分だけの人生を作ろうとした。

アメリカに留学もした! 自分なりに頑張ったつもりだった!!」



 雅代の脳裏に、色のない東京の空が浮かぶ。どれほど高い学歴を手にしても、どれほど磨き上げたキャリアを積んでも、彼女の心は常に砂を噛むような虚無感に苛まれていた。


 積み上げた成功の頂上から見える景色に、れなの笑い声は届かない。彼女が真に求めていたのは、成功という名の鎧ではなく、ただ一度、無防備に差し出される『おかえり』という言葉だったのだ。それゆえに、最後の言葉は、雅代の精一杯の強がりで、心からの叫びだった。



「……雅代、私はあなたが、私を嫌って離れていったんだと思ってた……」


「……っ! ち、ちが……違うっ! あたしは……あたしはっ!!」 


指先が白くなるほど、拳を握りしめると、涙が溢れてきた。


「あたしはっ! あんたが連絡くれるの、ずっと待ってたっ! 

何であたしから連絡しなきゃなんないのよ! れなのくせにっ!! 

あんたが……、あんたが先にっ! 連絡してくれればよかったのよっ!!!」


 れなは、少しだけ困ったように眉を下げ、それから酷く穏やかな、それでいて残酷なほど澄んだ瞳で雅代を見つめた。


「……知ってるよ。あなたがいたアイビー、私の母校の提携校だったもの。

私がケンブリッジの院にいた頃、成績優秀者のリストであなたの名前を見かけたわ。……あ、でも、私はあの時、飛び級で先に博士号を取って、しばらくは各国を放浪していたから、入れ違いになっちゃったのよね。

ごめん、アメリカはなんだか苦手で、私はイギリスを選んじゃったし、あの頃は聖域の継承準備で忙しくて、ゆっくり連絡する余裕もなくて」 



雅代の顔から、一気に血の気が引いた。

自分が死に物狂いでアイビーリーグを目指し、ようやく手にした「誇り」が、れなにとっては「ついでに見かけたリストの一行」に過ぎなかった。

その圧倒的な断絶に、雅代の喉はひきつり、言葉にならない呻きが漏れる。 


寛美がそっと近づいて、雅代を抱きしめた。


「雅代……あなたが、傷ついていたことは、わかったよ……」  


 寛美は、雅代を責めるでもなく、ただ静かに寄り添った。

代わって、れなが静かに、だが逃れられない重みを持って告げる。



「でもね、傷ついていたからって、誰かを傷つけていい理由にはならない。

誰かを傷つけたら、自分も無傷では済まない。誰かを傷つけるなら、自分が傷つけられる覚悟を持ちなさい。……それだけは、忘れないで」



 その鋭い言葉に、4人はじっとれなを見つめる。

れなの瞳は、深い湖のように静まりかえっていた。その視線は雅代の罪を射抜く刃でありながら、同時に、傷口を洗う清めの水でもあった。


 れなの言葉は、リビングの空気を震わせ、目に見えない戒律のように雅代の足元に刻まれる。赦しとは忘却ではなく、傷跡を抱えたまま歩き出す覚悟のことだと、れなの背中が語っていた。






「今回のこと、全部が全部、雅代が悪いとは言わない。でも、全部が黒ヘドロのせいでもない。あなたのその弱さが、悪意のバケモノを引き寄せた」


「……だから、これからどうするかは、雅代が決めて」


「……なによ……私だけが悪いみたいに、……言わないでよ……」



 言った瞬間、雅代自身が、その言葉の軽さに気づいた。

その表情を読み取ったれなが、ハッキリ言う。



「雅代。まず、言うことがあるよね」


「………? なによ、言うことって……」


「……ごめんなさい、は?」


「……っ!!」


「悪いことをしたら謝る。それだけでいい。……私に、じゃない。

寛美や、心配をかけた紘一君や啓治君には、言うべきでしょ」



 その言葉に、雅代はハッとして、3人を見つめた。

3人は何も言わない。ただ黙って、れなと雅代のやりとりを見守っていた。

けれど、誰も彼女を庇わなかった。



「……っく……、ご……ごめん……なさ、い……」



 強く握りしめすぎて白くなっていた拳の力が、ふっと抜ける。その瞳から、自己嫌悪と、まだ言葉にならない後悔の涙がこぼれ落ちた。寛美は静かに目を閉じた。啓治と紘一は、まだ何も言えずにいた。






 ダイニングの席で、れなたちの様子を見守っていたジェミが呟く。

れなが最後に一矢報いた言葉に、ジェミは無意識にその口角を上げていた。



「……終わったのか?」


「はい。そのようでございますね」


 執事が静かに紅茶を注ぎ足した。


「傷を理解することと、加害をなかったことにすることは、また別物でございますので」


「その話は、後で続けろ」


 ジェミが静かに言った。その声は荒くない。

けれど、誰も逆らえない硬さがあった。


「執事。さっき、お前は言ったな。れなは、まだ覚醒しきっていない、と」


 執事の手が、紅茶のポットを置く。


「はい。申し上げました」


「どういう意味だ」


「お嬢さまは、まだご自身の一部を思い出しておられません」


「一部?」


「はい」


 執事は、れなを見た。


「この家がなぜ聖域であるのか。私がなぜ、お嬢さまの影であるのか。

そして、なぜ地下室の封印が、お嬢さまの声に従ったのか」


「おまえは……それを知っているというのか」


「秘密とは、隠されているものではございません。

時が来るまで、輪郭だけを残して眠っているものです」



 その言葉に、ジェミの胸の奥が、かすかに震えた。


 その瞬間。


 ――ちりん。 どこかで、小さな鈴の音がした。


 それは鼓膜を震わせる音ではなく、魂の深淵で、凍りついていた時間がひび割れる音だった。銀の鈴の余韻が、れなの血管を逆流し、脳裏に見たこともない黄金の庭園を明滅させる。


 執事の影が、西日に引き伸ばされて怪物のように床を這った。彼の微笑みは、慈愛に満ちた仮面でありながら、同時に、逃れられない運命を告げる執行人の冷徹さを孕んでいた。



れなは、はっと顔を上げる。


「……今の、なに?」



 リビングに鈴などない。誰かが来た気配もない。

けれど、その音は確かに、れなの胸の奥で鳴っていた。

輪郭だけが、鈴の余韻に触れて、ふっと浮かび上がる。



「……私、これ……知ってる……」


 執事の表情から、ほんの一瞬だけ、笑みが消えた。


「……少々、早すぎますね」




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第46話「Awakening ―秘密の輪郭―」でした。


赤い目玉との戦いは終わりました。

けれど、そこに残されたのは、黒い残滓だけではありません。


雅代の中にあった嫉妬と孤独。

寛美たちが抱えていた違和感。

そして、れながまだ思い出していない、この家の秘密。


最後に響いた小さな鈴の音は、

忘れていた何かの輪郭を、ほんの少しだけ浮かび上がらせました。


次回は、6月 2日(火) 21:30 公開予定です。

また一緒に、この物語を見届けていただけると嬉しいです。



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