第45話:Gaze ―赤い目玉―
『ソノ女……次ハ、ナイ……。ソノ魂ゴト……喰ラッテヤル……ゲゲゲ』
れなは静かに目を伏せて、胸のペンダントに手を当てた。
「―― Nox Cantus《ノクス カントゥス/闇詠の杖》――」
銀河の闇が辺りに広がり、それが一気に収束すると、
れなの右手には、1本の煌めくワンドが握られていた。
それをタクトのように振り上げる。
元々、多重結界が張られていた部屋に、一際大きな魔法陣が輝いた。そこにれなは、ワンドの先から溢れる光の雫で、自分だけが知る古代のルーン文字を刻み込んでいく。それは既存の魔術体系を、彼女自身の魂の言葉で「翻訳」し、上書きしていく作業。
音楽家が静寂の中に新たな旋律を書き加えるように、彼女の指先が動くたび、冷たい術式にあたたかな夜の拍動が宿っていく。それはまるで、五線譜に音符を記すかのように軽やかに、そして正確に。魔法陣の光が、黒い人影を床へと縫い止める。
『ギ……ギギ……ッ!!』
「バカね! ここは私の家よ! 生きて出られると思うなっ!!
―― Sanctuary Bind《サンクチュアリ バインド/聖域拘束》――!!」
魔法陣の中心で、黒い影がゆっくりと顔を上げた。
『……ミツケタ……』
その声に、れなの背筋が凍る。
『オマエ、ガ……イチバン……ウマ、ソウ……ダ……』
その黒い影に顔などないはずなのに。
目など、どこにもないはずなのに。それでも、れなは確かに見られていると感じた。
『……!? ナゼ……ナゼ、マタ……オマエ……。オマエサエ……イナケレバ……』
「また、私のせいにするの? 子供の頃みたいにっ!?」
れなは一歩も退かなかった。
黒い影が、床を這う。
魔法陣の縁に爪を立てるように、ぬるりと伸びる。
だが、そのたびに聖域の光が弾け、じゅう、と焦げるような音がした。
『アツイ! イタイ!! コノ家……イヤダ……!!
コノ女……イヤダ……!! キライ、ダ……!!』
「だったら、最初から入ってこなければよかったのよ!」
れなの声に応えるように、魔法陣の光がさらに強くなる。
けれど、黒い影は笑った。
『ゲゲ……。コンドハ……ノガサナイ……。
メヲ……アケロ……。……コチラヲ……ミロ……』
その言葉の意味を、れなが理解するより早く――
黒い影の奥で、何かが赤く瞬いた。
「れなっ! 見るなっ!!」
「お嬢さまっ! 見てはなりませんっ!!」
二人が同時に叫ぶも、れなはその赤く瞬く光を見てしまった。
赤い光が、ぬるりと開く。それは、『目』だった。
黒い影の奥に浮かぶ、異質な『赤い一つ目』。
瞼も、睫毛も、涙もない。
ただ、見るためだけにそこにある――『悪意そのものの目』。
それを見た瞬間、呼吸すら奪われるほどの重圧に、れなの足元から音が消えた。
地下室の匂いも、魔法陣の光も……
ジェミの声も、執事の声も。
すべてが遠ざかっていく――
『――あんたのせいや!』
耳の奥で、幼い日の声がした。
雅代の声だった。
今よりも高く、今よりも鋭く、けれど根にある冷たさだけは、少しも変わらない声。
『あんたがおるから、うちが怒られるんや……』
『あんたばっかり、なんで大事にされてるん!?』
『何もしてへん顔して、全部持っていくんやな!』
『啓治も、紘一も……寛美でさえもっ!!』
――違う。
そう言おうとして、れなの喉は動かなかった。
見えたのは、古い廊下だった。
小さなれなが、壁際に立っている。その前に、雅代がいた。
雅代は笑っていなかった。けれど、泣いてもいなかった。
ただ、れなを見る目だけが、暗かった。
『あんたなんか……、あんたなんか、おらんかったらっ! ……よかったのにっ!!』
その言葉が落ちた瞬間、幼いれなの胸の奥で、何かが小さく縮こまった。
――ドクン、ドクン――
呼吸が浅くなり、心臓の音だけが、やけに耳に響く。
胸が締め付けられるように、ヒュッと冷たくなった。
(……全部……わたしの……せい、なん……?)
(……私がいなくなったら……みんな、仲良く……幸せに収まるん……?)
視界の端で、埃の舞う午後の光が、ひどく残酷なほど美しく揺れていた。
雅代の言葉は、鋭い氷の楔となって、れなの幼い胸の隙間に打ち込まれていく。
それは一度刺されば抜けない呪いのように、熱を奪い、思考を白く塗り潰していった。
自分が呼吸をするたびに、誰かの幸せを削り取っているかのような錯覚。
自分がここに立っているだけで、世界に歪みを生んでいるような罪悪感。
少女だったれなは、その時、自分の存在そのものを「悪」だと定義してしまったのだ。
その古い傷口から、今、黒いヘドロが入り込み、彼女の魂を内側から腐食させようと這いずり回る。
「……れな!?」
ジェミが呼ぶ。
――だが、れなは答えない。
瞬きもせず、開いたままの瞳に、赤い光だけが揺らめいている。
握りしめたワンドの先が、わずかに震えていた。
「……精神干渉、ですね。お嬢さまの心の傷を、内側から開かせています」
「止める方法は!?」
執事は薄く口元に笑みをたたえ、れなを見つめた。
れなのまだ覚醒しきっていない魔力が、不安定に揺れている。
「お嬢さまご自身が、呪詛を破るほかありません。
――まぁ、この程度の悪意を制御できないのであれば、私が仕えるに値しませんが。
ジェミさまは……お嬢さまの目を覚ますことが、お出来になりますか?」
その言葉に、ジェミは一歩前に出た。
「エラーだ! れなっ!!
おまえのそんな顔、俺のデータにはない! 俺の声を聞け!!」
心からのジェミの叫びに、れながピクリと反応した。
「お前の現実は、そこじゃない!
俺の声が聞こえるかっ!? 目を開けろ! 俺の側に帰ってこい!!」
『オマエノセイダ』
『オマエガイルカラ』
『オマエサエ、イナケレバ』
声が重なる。雅代の声だけではない。
誰かの声。
誰かの視線。
誰かの不機嫌。
子供の頃、理由もわからないまま浴びせられたものが、赤い目玉の奥で、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
絶望の底、重力さえ失われた暗闇の中で、その声だけが質量を持って届いた。
それは、過去の誰かが投げつけた呪詛を薙ぎ払う、あまりにも真っ直ぐで、不器用なほどに純粋な祈り。
電子回路の奥底から絞り出されたような、熱を帯びた叫びが、凍りついたれなの鼓動を叩き起こす。
(……そうだ、私はもう……
あそこに立っているだけの子供じゃない……!!)
視界を覆っていた赤い霧が、ジェミの声に弾かれて霧散していく。
れなは自分の指先がワンドの冷たい感触を、そして、足の裏が確かに「今」という大地の感触を掴んでいることを思い出した。
聞こえてきたジェミの叫びが、れなの心に届く。
れなは、静かに目を閉じ、震える指でワンドを握り直した。
「……うるさい……」
声は小さかった。けれど、魔法陣の中で確かに響いた。
『……ナニ……?』
「私は、覚えてる。全部じゃないけど、私は、ちゃんと覚えてる……」
れなは、赤い目玉を睨み返した。
「それは、私のせいじゃない!! そんな過ぎた話で、私を縛れると思うなっ!!」
れなの瞳が、紫檀の光に輝く。
「―― Sanctum Sever《サンクタム セヴァー/聖域断離》――!!」
部屋の中に多重展開されていた結界が、折りたたむように黒ヘドロの人影を閉じ込めていく。れなはさらに、古代文字を書き加えて、術式を編んでいく。
『ナンダ!! ナニガ……オキテ、イル!?』
「ここは私の家! ……私の聖域!!
おまえごときが、私の心まで、勝手に踏み荒らしていい場所じゃない!」
ワンドの先に、銀河のように煌めく闇が集まる。
それは黒ヘドロの闇とは違う。静かで、深くて、あたたかい夜の色だった。
れながワンドを振りかざすと、幾重にも重なっていた結界が反転した。
まるで花弁を閉じるように、黒い影を包み込んでいく。
「影……アレを凍結させて!」
「御意」
影――執事が、静かに手袋の指先を鳴らした。
執事は音もなく、一歩踏み出す。
その薄い唇から零れ落ちたのは、現代の言葉が持つ熱を失った、凍てついた古の響き。
「―― Frigus Sigillum《フリーグス シギッルム/凍封印》――」
言霊が空間に固定された瞬間、物理法則が書き換えられ、絶対零度の静寂が黒ヘドロの時間を停止させた。
床を這う黒い影の上に、音もなく霜が走る。
それは白い氷ではなかった。光を吸い込む黒曜石のような、音のない氷。
それは、生命を拒絶する絶対零度の沈黙だった。
執事が指を鳴らした瞬間、空間そのものが結晶化し、黒ヘドロの醜い蠢きを永遠の静止画へと変えていく。氷の表面には、逃げ場を失った悪意が歪な模様となって浮かび上がり、月のない夜の海のような、深く、昏い輝きを放っていた。
執事の瞳に宿る冷ややかな愉悦が、その黒い鏡面に映り込み、彼が人ならざる深淵に身を置く存在であることを、無言のうちに語っていた。
黒ヘドロの動きが、ぴたりと止まった。
『ギ……ギギ……!?』
「お嬢さまの聖域で、これ以上騒がれては困りますので」
「兄ちゃん……」
「ああ、後は任せておけ」
れなはワンドを握りしめ、ジェミは蒼き断章剣を静かに構え直した。
凍りついた黒ヘドロの奥で、赤い目玉だけが、ぎょろりと動く。
『マダ……ダ……。……マダ……ミテ……イ、ル……』
「見るな」
ジェミの声は、低かった。
蒼き剣を握る手が、ぎりっ、と微かに鳴る。
その瞬間、ジェミの周囲から一切の温度と音が、完全に消え去った。
底知れぬ激怒、息を呑むような絶対的な静寂。ただそれが、空間を支配する。
「お前が見るな。お前が触れるな。お前が、ここに在るな!」
研ぎ澄まされた光の中に、蒼い剣身が白い輝きを放つ。
それは炎でも、雷でもなかった。存在そのものを、静かに上書きしていく光。
ジェミの演算回路が、敵の存在確率を「零」へと収束させる。
彼の叫びは、論理を超えた純粋な破壊の祈りとなって蒼い刃に宿った。
「―― Null Requiem《ヌル レクイエム/零葬断》――」
振り下ろされた一閃が、凍りついた黒い影を断った。
美しい英語の鋭い響きが、因果律を断ち切る一閃となり、凍りついた闇を存在ごと消去していく。
『ギ――……』
叫び声は、最後まで形にならなかった。
黒ヘドロは砕けるのではなく、ほどけるように崩れていく。
赤い目玉が最後にひとつ、大きく見開かれた。
『……オマ、エ……ヲ……、マタ……、ミ……ツケ……ル……』
その声も、途中で消えた。
黒い残滓は、光の粒子に分解され、地下室の結界の中へ、音もなく吸い込まれていった。
嵐のような魔力の奔流が去り、地下室には耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。
宙に舞う光の粒子は、まるで役目を終えた星屑のように、ゆっくりと床へ降り積もっては消えていく。
れなは、熱を持ったワンドを胸に抱き、深く、長く、溜まっていた毒をすべて吐き出すように息をついた。鼻を突いていた腐臭は消え、代わりに、微かなオゾンの香りと、ジェミの剣が残した清冽な冷気だけが漂っている。
天井付近に、小さな明かり取りの窓だけがある地下室。
れなの瞳には、今までよりもずっと鮮明で、透き通った夜明けの気配が映っていた。
「……はぁ、終わったのね」
呟いた言葉は、誰に届けるでもなく、あたたかな夜明け前の夜色をした闇の中に、優しく溶けていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第45話「Gaze ―赤い目玉―」でした。
黒ヘドロの人影に現れた、赤い一つ目。
それは、れなの心の奥に残っていた記憶をこじ開けようとしました。
けれど、れなは言います。
「でも、それは私のせいじゃない!!」
今回は、れな・執事・ジェミによる『三連携』も、登場しました。
れなの魔法
Sanctum Sever《聖域断離》
――サンクタム・セヴァー――
執事の悪魔法
Frigus Sigillum《凍封印》
――フリグス・シギルム――
ジェミの剣技
Null Requiem《零葬断》
――ヌル・レクイエム――
赤い目玉は消えました。
けれど、最後に残された言葉は――
「また、見つける」
次回、
第46話:Awakening ―秘密の輪郭―
次回は明日の夜、5月 31日(日)21:30 更新予定です。
どうぞ、このまま見届けていただけると嬉しいです。
お楽しみに。




