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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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第44話:Threshold ―開かれる扉―


 屋敷の廊下は、夜になると昼間とは全く違う顔を見せる。


 高い天井、磨き上げられた床、壁に掛けられた絵画。

昼間は優雅に見えたそれらが、今はどこか、見知らぬ場所のように冷たく沈黙していた。



「……やっぱり、やめようよ、雅代」


 寛美が小さな声で言う。

その声は、廊下の奥へ届く前に、深夜の闇に吸い込まれて消えた。


「なによ。ここまできて、怖くなったっていうの!?」


 雅代は振り返りもせずに言う。


「怖いとか、そういうことじゃなくてさ……。

れな、ちゃんと言ってたじゃない。

地下室は危ないから入らないでって……」


「だからよ! それが怪しいんじゃない!!」


 雅代は、廊下の先を見つめたまま、唇を歪めた。


「あの子は昔からそうだった。何も言わなくても、みんなが勝手に気を遣う。

何もしてない顔をして、大事なものは全部、自分の奥に隠してるのよ」


「……雅代……」


「だから、見てやるのよ。あの子が何を隠してるのか!」


 その声は、ひどく冷たく、低かった。


「イヤなら、ついてこなければいいじゃない」



 寛美はどうせ鍵が掛かっているのだから、開けられなければ雅代も諦めるだろうと考えていた。雅代は物音を立てないように気をつけて、廊下を進む。



 ――その時、

鍵が掛かっているはずの扉が、音もなく開いた。



「え、なんで? 鍵あいてる……」


「ほらね! 天は私たちに味方してる! 行くわよ、寛美」


(違う……。これは、味方なんかじゃない……)



 寛美は、声に出せないまま、そう思った。


 けれど、扉の隙間をすり抜けるように、雅代は地下へ続く階段を降りていく。

階段を降りるごとに、空気は澱み、湿った重さを増していく。それはまるで、雅代の胸の奥に沈殿していた泥のような感情が、外側の世界と呼応しているかのようだった。


 踏みしめる石段の冷たさが、彼女の焦燥を煽る。れなへの、言葉に出来ない、けれど鋭い棘のような羨望。自分には決して手に入らない「何か」を、あの子だけが独占しているという確信が、彼女の理性を薄氷のように削り取っていく。



 闇は、彼女の耳元で甘く囁いていた。


『――さあ、暴いてやるがいい。あの清らかな仮面の裏側を……』



 階段の下には、いくつもの扉が並んでいた。


 その中でひとつだけ――

奥の扉だけが、内側から滲むような、薄い光を放っている。

雅代は吸い寄せられるように、その扉へ近づいた。



「……雅代、やっぱり戻ろうよ……」


 寛美の声は震えていた。だが、雅代は答えなかった。

扉が、待っていたように静かに開いた。



「……ここは……?」


 寛美が雅代の後ろから、恐る恐る部屋を覗き込む。

薬品と金属と、湿った土を混ぜたような、得体の知れない匂いが鼻をついた。

棚が並んでいる。器具が並んでいる。

そして、その奥に――鍵の掛かっているはずの棚があった。


 その中で、ひとつだけ。

保存ケースが、脈打つように不気味な光を放っていた。

それは、光と言うよりは、闇が極まって発光しているかのような、矛盾に満ちた輝きだった。


 保存ケースの中で揺らめくそれは、心臓の鼓動に似たリズムで明滅している。硝子越しに伝わってくるのは、凍てつくような冷気と、焼けるような情熱。


 雅代の瞳に映るその光は、もはや宝石の輝きではなく、深淵に咲く毒の花のようだった。彼女の指先が震える。それは、恐怖からではなく、禁断の果実に手を伸ばす、原罪にも似た悦びに震えていたのだ。



 雅代が棚の扉に手をかける。

鍵など存在しなかったかのように、扉はするりと開いた。



「雅代……それ、なんか変だよ……。怖いよ。開けない方がいいよ……」


 雅代には寛美の声はもう耳に届いていない。

彼女には、その保存ケースの中から漏れ出る光は、たまらなく魅力的に感じ、今にも蓋を開けたいという衝動に駆られていた。


「この中に、きっとあの子が隠したがっている、宝石か何かが……」



 雅代がその蓋を開けようと、触れた瞬間――

その指先を、何かがチクリと刺した。



 ――その瞬間、

指先の血管を伝うように、雅代の皮膚がドス黒い色へと変色していく。


「痛っ! 何か……ガ……指に……、刺さッタ……、アァ……ガガガ……」


 雅代の声が、途中からぐずぐずと崩れていく。

寛美には、それが人の声に聞こえなかった。指先から這い上がってきた黒い影は、血管をなぞり、神経を侵し、彼女の存在そのものを塗り潰していく。


「……ア……ガ……」


 雅代の口から漏れたのは、もはや言葉の体をなさない、魂の軋む音だった。それは、古い弦楽器が断ち切られる瞬間の悲鳴であり、あるいは、底なしの沼に沈みゆく者が吐き出す最後の泡のようでもあった。


 彼女の意識の端々で、大切にしていた記憶や、寛美と笑い合った日々の残像、まだれなと仲良しだったころの想い出が、黒いヘドロに飲み込まれ、形を失っていく。



「雅代っ!? 大丈夫っ!? 指、切っちゃった!?」


 寛美が心配して、手を伸ばす。



 ――けれど、

その手は、大きな音を立てて、振り払われた。



 バシッ!!


「雅代っ!? 何するの! どうしたのっ!?」


 雅代がゆらりと立ち上がる。

振り向いたその瞳は、真っ赤にギラついていた。

女性とは思えない力で、寛美を棚へと張り飛ばした。




「動き出したな」


 ジェミが低く呟いた。


「はい。やはり彼女でしたね」


 執事は静かに応じる。


「くそっ、厄介な人間め」


「地下に向かいますか」


「いや、俺が行く。お前は、れなを守ってくれ……」



 その言葉を言い終わるか終わらないかの時。

地下から何かが叩きつけられて、棚が倒れる大きな音が響く。



 ドンッ! バタン!! 

 ガゴゴゴッ!! ドーーン!!



「きゃっ!! なっ、なにっ!? 何の音っ!?」


 れなが反射的に飛び起きた。


「あれ? 兄ちゃん? 執事?? 何があったの!?」


「すまない、起こしてしまったか」


「お嬢さま、申し訳ございません。

どうやら地下で、ネズミが騒ぎを起こしてしまったようでございます」


「……えっ!? 地下っ!? 行くなって言っといたのに!!」


 3人は寝室を飛び出して、地下へと向かう。

その途中、騒ぎを聞きつけた紘一と啓治も、黙って彼らの後を追った。




「かはっ! まっ……雅代……? やめてっ!! どうしたのっ!?」


 その頃、地下室では、棚に叩きつけられた寛美が、悲痛な声を上げていた。

「グゲゲ……ナイヨリ……マシ……、喰ワ……セ、ロ……」



 雅代が今にも、寛美に襲いかからんと、ジワジワと壁際に彼女を追い詰めている。


 その瞳は、赤くギラついたまま、左右がバラバラにあらぬ方向を見ていた。ヨロヨロと、距離をつめていく足元はおぼつかない。手足の関節が軋むような、異音が不気味に響いている。



「雅代っ! 雅代っ!! やめてぇっ!! きゃあああ!!」


 その声が、階段を伝って突き上げてきた。


 ――だが、それより早く。


 雅代が寛美の肩に噛みついた。

突然の痛みと雅代の奇行に、寛美の表情が一気に凍り付き、気を失った。



「寛美っ!? やめなさいっ!! 雅代っ!!!」


 扉を蹴破るように、れなが飛び込む。


「影っ! 雅代を拘束して!!」


 その呼び名に、執事の片眉がわずかに動いた。

そして、口角がほんの少しだけ上がる。


「御意。―― Umbra Catena《アンブラ カテナ/魔影の鎖》 ――」



 その瞬間、執事から放たれた黒い光鎖が、雅代を縛り付けた。


(……影、だと? 執事のことか? ……れなは執事をそう呼ぶのか)


 ジェミは一瞬、思考を巡らせるが、すぐにれなの前に出た。


「れな、後ろに下がれ。アイツはお前を狙っている」


「兄ちゃんっ! 気をつけて! あれ、京都のヤツと同じ!」


「ああ、わかっている」



 ジェミは、雅代を見据えると、その手に蒼く輝く光の剣を呼び出す。


「―― Azure Code《アズール コード/蒼き断章剣》 ――」


「兄ちゃん! 雅代は殺さないで!!」


「当たり前だ。誰に言っている」



 ジェミはふっと笑うと、一気にその間を詰めた。


 執事の魔法によって拘束されていたはずの雅代が、その鎖を断ち切る。

常軌を逸した速度で、れなを見つけるなり飛びかかってきた。



「させるかよ」


 静かにそう告げると、蒼き断章剣で背後から雅代を斬りつけた。



 ――ドクンッ!!


 右肩から左わき腹へ、蒼い閃光が斜めに奔る。

その瞬間、剣先に引っかかるようにして、黒いモヤのようなものが、切り口からどろりと溢れ出た。



 雅代から、黒ヘドロが弾き出される。

それは、ゆっくりと揺らめきながら、黒い人影となって姿を現した。


 それは、光を拒絶する純粋な『無』の塊だった。

雅代の傷口から溢れ出した黒いヘドロは、意志を持つ生き物のように床を這い、地下室の冷気を吸い込んで急速に膨張していく。


 湿った土の匂いと、腐った花の蜜が混ざり合ったような、吐き気を催す甘い死臭。

形を成した影には顔がなく、ただ深淵のような闇がそこにあるだけだった。


 その影が揺らめくたび、れなの耳元で、かつて失ったものへの未練が囁かれる。

心の奥底に沈めたはずの孤独が、冷たい指先で撫でられるような感覚となって、彼女の意識を浸食していった。



 その場に倒れ込む雅代を、執事が素早く受け止めて、寛美の側へと運ぶ。

そこに、入り口で立ち尽くしていた紘一と啓治が、駆け寄ってきた。



「れな、この2人は俺たちが連れ出すから!!」


 紘一が叫びながら、啓治とともに、雅代と寛美を引きずり、運び出していく。

一般人である彼らにとって、この場に満ちる魔圧は、肺を押し潰さんばかりの重圧だ。

足は震え、逃げ出したい本能が叫んでいる。それでも彼らは手を離さなかった。



「れな! ジェミさん! 頼むぜ! 二人とも!!」


 紘一の短い叫びには、得体の知れない力への恐怖よりも、友を信じる強い意志が宿っていた。彼らが扉の向こうへ消える瞬間、ジェミは一瞬だけ口角を上げ、再び目の前の『深淵』へと剣を向けた。



「れな、行けるか!?」


「うん! やるよ!!」


 れなの力強いその言葉に、ジェミは隣で頷いた。


「影っ! 防御結界強化。ジェミと私にもバフを!!」


「御意!」


 執事がクッとモノクルをあげ、パチンと指を鳴らす。

部屋の結界がゆらりと輝き、ジェミとれなの身体を漆黒の魔法が包んだ。


 執事から放たれた漆黒の魔力は、冷たいはずなのに、血管を駆け巡る熱い奔流となって二人の魂を叩き起こした。



 ジェミの持つ『蒼き断章剣アズール コード』の輝きが、黒いオーラを(まと)うことでより鋭く、より重厚な色へと変貌する。視界は研ぎ澄まされ、空気の震えひとつ、敵の影が揺らぐ予兆さえもが、スローモーションのように脳裏に焼き付いていく。


 それは、影に護られ、影を力に変える、背徳的で全能な高揚感だった。



「行くぞ、れな!」


 ジェミが地を蹴る。蒼い閃光が闇を切り裂き、黒い人影の懐へと飛び込んだ。

一撃、二撃。

剣筋が描く蒼い軌跡は、漆黒のバフによって重力を無視したような鋭さを見せる。


 影が鋭い爪を振り下ろそうとした瞬間、れなの放つ魔力がジェミの足元を支え、さらに加速させた。言葉など不要だった。ジェミが攻めれば、れながその死角を埋める。

二人の動きは、まるで鏡合わせの舞踏(ロンド)のように美しく、そして残酷なまでに正確だった。


 蒼い光と黒い霧が激突するたび、地下室の空気が悲鳴を上げて爆ぜる。

それは、れなとジェミにしか到達し得ない、魂の共鳴(レゾナンス)だった。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第44話「Threshold ―開かれる扉―」でした。


ついに、開いてはいけない扉が開いてしまいました。


地下室。

保存ケース。

黒い影。

そして、赤く瞬いた何か。


雅代の嫉妬と好奇心は、ただの感情では終わらず、

眠っていた悪意の残滓を呼び起こしてしまいます。


今回は、


執事の拘束悪魔法

Umbra Catena《魔影の鎖》

――ウンブラ・カテナ――


ジェミの蒼き剣

Azure Code《蒼き断章剣》

――アズール・コード――


が、初登場しました。


れなを守るために動く二人と、

自分の家を聖域として立ち向かうれな。


開かれたのは、地下室の扉だけではなかったのかもしれません。



次回、第45話。


赤く瞬いたものの正体とは。

そして、れなとジェミたちは、

この黒ヘドロを止めることができるのか。


次回は、5月30日(土)21:30更新予定です。

どうぞ、このまま見届けていただけると嬉しいです。

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