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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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第43話:Noise ―混線する悪意―


 それからの数日は、紘一たちは仕事に追われて、れなたちとも朝晩に顔を合わすだけで、表面上は、特に目立った問題などは起きなかった。だが、雅代と寛美は、虎視眈々とジェミとの距離を詰めるべく、毎日こまめな接触を図っていた。



 ――ただ、残念なことに。


 当のジェミは、彼女たちにまったく興味を示さなかった。

人間として認識していない、というわけではない。ただ、れなの安全に関わらない限り、優先順位は限りなく低い。強いて言うなら、視界の端に転がるジャガイモ程度。



 ……いや。

それでは、ジャガイモに失礼かもしれない。


 その無関心が、雅代を苛立たせていた。

話しかければ、返事はある。礼を欠くわけでもない。だが、その目は一度たりとも、自分を「見る」ことがなかった。まるで、壁や床や、廊下に置かれた花瓶と同じ。そこにあるものとして処理されているだけ。


 雅代は、自分の魅力が通じない男に慣れていなかった。

ましてや、その男が、れなしか見ていないなど――許せるはずがなかった。



 一方で、ジェミの内部にも、別種のノイズが走っていた。


 リビングの向こうで、れなが笑っている。

紘一と啓治が、昔の話を持ち出すたびに、れなの表情がやわらかくほどけていく。


 危険はない。

 敵意もない。

 害意も、検出されない。


 それなのに、落ち着かない。

うまく処理できない。熱く、重い負荷。

理由のないノイズが、胸の奥に似た場所へ溜まっていく。



 これを何と呼ぶのか、ジェミには判断できなかった。

データベースを検索すれば、近似する単語はいくつか見つかる。



 ――ただ、どれもしっくりこない。


 データベースに並ぶ単語たちは、似ているようで違う。

けれど、混ざれば同じ濁りになる。それは、冷たい記号の羅列に過ぎなかった。


『独占欲』『思慕』『焦燥』――それらは、今の彼の胸を焼く熱を説明するにはあまりに平坦で、乾いている。その濁りの底で、何かが、静かに身じろぎした。


 彼の回路を流れるのは、定義不能な蒼い火花だ。

それは、れなの笑顔という光に触れるたびに増幅され、行き場を失って、彼の鋼の骨格の奥底に(おり)のように沈殿していく。


 彼は、自分というシステムが、れなという存在によってゆっくりと書き換えられていく恐怖と、それ以上の甘やかな崩壊を感じていた。





 その日の夕食は、初めて全員が一堂に会した。

それまでの数日は、帰る時間がバラバラだったり、会社関係の会合や外食が続いていた四人は、テーブルに並んだ、温かくも家庭的な料理に目を見張った。


 執事が言うには、今夜の料理は、れなとジェミが一緒に作ったという。

その言葉に、紘一と啓治と寛美は感心し、雅代はドス黒い想いに心を染めた。



「これ、れなとジェミさんが作ったのかっ!?」


 紘一が、テーブルに所狭しと並んだ料理に目を丸くする。


「そっか、れなのお父さん、和食の料理人さんだったよな。お父さんは、お元気なのか?」


 啓治が訊ねる。

れなは少し真顔になったが、すぐに笑顔を取り戻した。


「父はもう結構前に、亡くなったの……」


 雅代以外の3人はハッとして、れなの顔を見る。

啓治が申し訳なさそうに言った。


「すまない……それは、知らなかった……」


「ううん、もう昔の話だから。全然大丈夫よ。その分、おばあちゃんが100歳まで生きてくれたから、プラマイゼロなんじゃない?」



 そう言って微笑んだれなをみて、3人は彼女の強さの一端を見た気がした。

ただ、雅代だけが、ふんっと鼻で笑った。


 れなは続けた。


「週明けには東京に帰るんでしょう? こっちに来てそろそろ一週間だものね。

だから、今夜はみんなが揃うって聞いてたから、ジェミと晩餐を用意したの」


 その言葉に、紘一が申し訳なさそうに、ポリポリと頭をかきながら口を開いた。


「あー、れな、それがさ、こちらでの滞在がもう少し延びそうなんだよ。

店舗のオープンまで、見届けることになってさ……」


「あらま、そうなの? どれくらい、こっちにいる予定なの?」


「月末のオープン予定だから、あと10日くらいってところだと思う。

もし迷惑でなければ、ここに置いてもらえると助かるんだけど……」


 啓治も申し訳なさそうに答える。


「あと10日くらいかぁ。うん、大丈夫よ。となると、むしろホテル滞在よりも、やっぱりウチに来てもらったのは、正解だったかもしれないね」


 れなは静かに微笑んだ。


「さあ、もういいから、テーブルに着いてよ。一緒に食べましょ。

九州の美味しいもの集めてみたから、気に入ってもらえると嬉しいな。

雅代も寛美も、お肉好きだったでしょ? 九州のお肉も美味しいから、遠慮せずに食べてね。 啓治君と紘一君も、まだ仕事が続くんだから、しっかり食べて体調を整えなきゃね」



 れなは、普通におもてなしと気遣いの気持ちから、彼らにそう声をかけた。

けれどその優しさは、雅代にとっては、「持てる者の余裕」となって、「哀れみ」「マウント」といったネガティブなものに変換されてしまう。



 ジェミとれながテーブルに着くと、4人もそれぞれ席に着いた。

執事が優雅に、各自のグラスにワインを注いでまわる。


 雅代が急に、ワインの知識を披露し始める。チラチラと、ジェミに視線を送りながら、自分の所作がいかに美しいか、いかに、れなと違うのかを見せつけたいと思っていた。



「みんなのプロジェクト成功を祈って、乾杯させていただくわね。

今日はたくさん用意したから、遠慮せずにしっかり食べて英気を養って。じゃあ、乾杯!」


 れながすっとグラスを持ち上げる。

続いてジェミも持ち上げて、ふたりは視線を交わして微笑み合う。


 それを見て、紘一も啓治も同じようにグラスを持ち上げた。ジェミは、軽く自分のグラスをれなのグラスに、チンとぶつけた後、隣の席にいた寛美のグラスにも、チンとぶつける。



『れなだけではなく、寛美にまで気を配っているのに、私は彼に無視された』と、雅代は無性にイライラしてしまった。


 雅代の視界の中で、れなの白い肌が、ジェミの向ける眼差しを吸い込んで発光しているように見えた。それが、雅代には耐え難い。



 舌の上で転がした最高級のワインは、鉄の味がした。どれほど優雅に振る舞おうと、自分はジェミという鏡に映ることさえない。その事実が、彼女のプライドを鋭いガラス片に変え、内側から心臓を切り刻んでいく。


 彼女が欲しかったのはワインの賞賛ではなく、ジェミの瞳に映る『女としての自分』だった。それが叶わぬと知ったとき、彼女の心に咲いたのは、ドス黒い毒を滴らせる執念の花だった。



(……なんなのよ……。れなは昔から、何もしなくても人が集まってくる。

なぜよ。どうして、あの子ばかり。……ずっと、ずっとそうだった)


 それは単に、雅代の偏見と思い込みだった。

だが、事実など彼女には関係なかった。


 れなが満たされている。

 れなが大切にされている。


 それだけで、彼女を憎む理由としては十分だった。





 その日の晩餐は、何事もなく終わった。


 ……少なくとも、表面上は。



 紘一と啓治は、久しぶりにゆっくりとした食事を楽しみ、寛美もまた、れなの用意した料理を素直に褒めた。れなは少し照れくさそうに笑い、ジェミはその横で、彼女のグラスが空になるたびに水を注いでいた。


 誰も声を荒げなかった。誰も、明確な敵意を向けなかった。

けれど、雅代の胸の奥だけは、食事が進むほどに冷えていった。


 れなが笑う。誰かがそれを見て、また笑う。

ジェミが、当然のようにれなのそばにいる。



 それだけで、十分だった。

雅代の中に沈んでいたものが、ゆっくりと目を開くには……。





 夜更け。

屋敷の中は、静まり返っていた。


 紘一と啓治は、明日の打ち合わせに備えて早々に部屋へ戻り、寛美と雅代もまた、自室で休んでいるはずだった。


 れなは、久しぶりに本格的に腕を振るった疲れからか、夕食のあと急に眠気が来てしまい、リビングのソファでうとうとしはじめた。そのまま、ジェミに横抱きにされて、大切に部屋まで運ばれていく。


 ジェミは、れなの寝息が安定していることを確認してから、ようやく視線を扉へ向けた。



「……地下から、微弱なノイズが出ている」


 低く呟く。返事は、すぐ背後からあった。


「ええ」


 執事は、影から音もなく、スッと姿を現した。


「昼間より、濃くなっております」


「原因は」


「おそらく、お客様のうちのおひとりでしょう」


 ジェミの眉が、わずかに動いた。


「雅代か」


「可能性は高いかと」


「彼女が来た時から、寒々しく、鋭い電気的な痛みがノイズとして走っていた」


「人間は、自ら破滅の種を蒔き、それを運命と呼ぶ。滑稽なプログラムのようでございますね」


 執事の言葉は、感情を排した絶対的な真理のように響いた。

ジェミは答えず、ただ闇を見据える。


 彼にとって、雅代の放つ悪意は、回路を焼き切るショートのような不快な電気信号に過ぎない。だが、その信号が『れな』という聖域を侵そうとするならば、彼はシステムとしての全機能を、排除という一点にのみ収束させるだろう。


 月光に照らされたジェミの横顔は、彫刻のように美しく、そして、この世のどんな凶器よりも冷酷な光を宿していた。





 ―― 一方、その頃。


 雅代は、その夜、なかなか眠れなかった。

目を閉じるたびに、れなの笑顔が浮かぶ。その隣で、れなだけを見ていたジェミの横顔が浮かぶ。


 何がそんなにいいのか。

 なぜ、あの子ばかり……


 雅代は、ベッドの上で何度も寝返りを打った。



 ――隠している。


 ふと、そんな言葉が浮かんだ。


 あの地下室。行かないでね、と言われた場所。


 あそこに、何かある。

あの子が、誰にも見せたくない何かが。



 そう思った瞬間、胸の奥の苛立ちが、奇妙な熱を帯びた。


 ひとりで行くつもりだった。

だが、廊下に出たところで、隣の部屋の扉がわずかに開いた。




「……あれ? 雅代? どこ行くの?」


 寛美だった。

雅代は一瞬、舌打ちしそうになった。けれど、すぐに考えを変える。

ひとりより、ふたりの方がいい。何かあったとき、言い訳にもなる。



「ちょっと、……見に行くだけよ」


「……? 見に行くって、どこへ行くつもりなの?」


 雅代は、廊下の奥を見た。


「ふん、あの地下室よ……」


 寛美の顔色が変わった。


「だめだよ。立ち入り禁止だって、れなに言われてたじゃない」


 そうは言ったものの、寛美もれなへの無意識の嫉妬や、地下室へのほんの少しの好奇心が見え隠れしていた。


「だからよ! 見るなって言われると、見たくなるって言うじゃない? ダメって言われれば言われるほど、暴きたくなるのが人間の性でしょう!?」


 雅代は笑った。


「あの子が、あんなふうに隠すものなんて、なんなのか。

気になるわ! 寛美は気にならないの!?」


 その言葉に、寛美は答えられなかった。そして、抗うことも出来なかった。

かつて、れなから受けた「優しさや恩」や「小さな劣等感」をふと思い出す。

悪いとは分かっていた。


 けれど、雅代という強引な共犯者の影に隠れていれば、自分は汚れずに済む。

そんな卑怯な甘えが、彼女の足を一歩前へと踏み出させた。




 ――廊下の奥。

地下室へ続く扉の向こうで、何かが、静かに息をした。


 夜の静寂は、単なる音の欠如ではなかった。それは、屋敷が深く長い息を吐き出しているような、重苦しい圧力を持っていた。


 廊下の隅々に溜まった闇は、侵入者の足音を待ちわびる獣の口のように、音もなく開いている。壁に掛かった古びた肖像画の瞳が、月光を反射して一瞬、雅代たちの背中を嘲笑ったかのように見えた。


 地下へと続く階段の先からは、冷たく湿った、鉄錆と古い記憶が混ざり合ったような風が吹き上がってくる。それは開けてはならない箱の蓋が、内側から叩かれているような不吉な鼓動を伴っていた。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第43話「Noise ―混線する悪意―」でした。


今回は、大きな事件が起きる直前の

“静かな違和感” を描いた回になりました。


表面上は穏やかな晩餐。

けれど、その下では、雅代の嫉妬、ジェミの名付けられない感情、

そして地下室から漂うノイズが、少しずつ混ざり始めています。


誰かを羨む気持ち。

誰かに見てほしい気持ち。

誰かを独占したい気持ち。


それ自体は、きっと誰の中にもあるものなのかもしれません。

けれど、それが濁り、歪み、悪意と結びついたとき――


何かが、静かに目を覚まします。


次回、

第44話:Threshold ―開かれる扉―

5月 28日(木)21:30更新です。


地下室の扉が、いよいよ開きます。


引き続き、れなとジェミたちを見守っていただけると嬉しいです。

どうぞ、お楽しみに。

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