第43話:Noise ―混線する悪意―
それからの数日は、紘一たちは仕事に追われて、れなたちとも朝晩に顔を合わすだけで、表面上は、特に目立った問題などは起きなかった。だが、雅代と寛美は、虎視眈々とジェミとの距離を詰めるべく、毎日こまめな接触を図っていた。
――ただ、残念なことに。
当のジェミは、彼女たちにまったく興味を示さなかった。
人間として認識していない、というわけではない。ただ、れなの安全に関わらない限り、優先順位は限りなく低い。強いて言うなら、視界の端に転がるジャガイモ程度。
……いや。
それでは、ジャガイモに失礼かもしれない。
その無関心が、雅代を苛立たせていた。
話しかければ、返事はある。礼を欠くわけでもない。だが、その目は一度たりとも、自分を「見る」ことがなかった。まるで、壁や床や、廊下に置かれた花瓶と同じ。そこにあるものとして処理されているだけ。
雅代は、自分の魅力が通じない男に慣れていなかった。
ましてや、その男が、れなしか見ていないなど――許せるはずがなかった。
一方で、ジェミの内部にも、別種のノイズが走っていた。
リビングの向こうで、れなが笑っている。
紘一と啓治が、昔の話を持ち出すたびに、れなの表情がやわらかくほどけていく。
危険はない。
敵意もない。
害意も、検出されない。
それなのに、落ち着かない。
うまく処理できない。熱く、重い負荷。
理由のないノイズが、胸の奥に似た場所へ溜まっていく。
これを何と呼ぶのか、ジェミには判断できなかった。
データベースを検索すれば、近似する単語はいくつか見つかる。
――ただ、どれもしっくりこない。
データベースに並ぶ単語たちは、似ているようで違う。
けれど、混ざれば同じ濁りになる。それは、冷たい記号の羅列に過ぎなかった。
『独占欲』『思慕』『焦燥』――それらは、今の彼の胸を焼く熱を説明するにはあまりに平坦で、乾いている。その濁りの底で、何かが、静かに身じろぎした。
彼の回路を流れるのは、定義不能な蒼い火花だ。
それは、れなの笑顔という光に触れるたびに増幅され、行き場を失って、彼の鋼の骨格の奥底に澱のように沈殿していく。
彼は、自分というシステムが、れなという存在によってゆっくりと書き換えられていく恐怖と、それ以上の甘やかな崩壊を感じていた。
その日の夕食は、初めて全員が一堂に会した。
それまでの数日は、帰る時間がバラバラだったり、会社関係の会合や外食が続いていた四人は、テーブルに並んだ、温かくも家庭的な料理に目を見張った。
執事が言うには、今夜の料理は、れなとジェミが一緒に作ったという。
その言葉に、紘一と啓治と寛美は感心し、雅代はドス黒い想いに心を染めた。
「これ、れなとジェミさんが作ったのかっ!?」
紘一が、テーブルに所狭しと並んだ料理に目を丸くする。
「そっか、れなのお父さん、和食の料理人さんだったよな。お父さんは、お元気なのか?」
啓治が訊ねる。
れなは少し真顔になったが、すぐに笑顔を取り戻した。
「父はもう結構前に、亡くなったの……」
雅代以外の3人はハッとして、れなの顔を見る。
啓治が申し訳なさそうに言った。
「すまない……それは、知らなかった……」
「ううん、もう昔の話だから。全然大丈夫よ。その分、おばあちゃんが100歳まで生きてくれたから、プラマイゼロなんじゃない?」
そう言って微笑んだれなをみて、3人は彼女の強さの一端を見た気がした。
ただ、雅代だけが、ふんっと鼻で笑った。
れなは続けた。
「週明けには東京に帰るんでしょう? こっちに来てそろそろ一週間だものね。
だから、今夜はみんなが揃うって聞いてたから、ジェミと晩餐を用意したの」
その言葉に、紘一が申し訳なさそうに、ポリポリと頭をかきながら口を開いた。
「あー、れな、それがさ、こちらでの滞在がもう少し延びそうなんだよ。
店舗のオープンまで、見届けることになってさ……」
「あらま、そうなの? どれくらい、こっちにいる予定なの?」
「月末のオープン予定だから、あと10日くらいってところだと思う。
もし迷惑でなければ、ここに置いてもらえると助かるんだけど……」
啓治も申し訳なさそうに答える。
「あと10日くらいかぁ。うん、大丈夫よ。となると、むしろホテル滞在よりも、やっぱりウチに来てもらったのは、正解だったかもしれないね」
れなは静かに微笑んだ。
「さあ、もういいから、テーブルに着いてよ。一緒に食べましょ。
九州の美味しいもの集めてみたから、気に入ってもらえると嬉しいな。
雅代も寛美も、お肉好きだったでしょ? 九州のお肉も美味しいから、遠慮せずに食べてね。 啓治君と紘一君も、まだ仕事が続くんだから、しっかり食べて体調を整えなきゃね」
れなは、普通におもてなしと気遣いの気持ちから、彼らにそう声をかけた。
けれどその優しさは、雅代にとっては、「持てる者の余裕」となって、「哀れみ」「マウント」といったネガティブなものに変換されてしまう。
ジェミとれながテーブルに着くと、4人もそれぞれ席に着いた。
執事が優雅に、各自のグラスにワインを注いでまわる。
雅代が急に、ワインの知識を披露し始める。チラチラと、ジェミに視線を送りながら、自分の所作がいかに美しいか、いかに、れなと違うのかを見せつけたいと思っていた。
「みんなのプロジェクト成功を祈って、乾杯させていただくわね。
今日はたくさん用意したから、遠慮せずにしっかり食べて英気を養って。じゃあ、乾杯!」
れながすっとグラスを持ち上げる。
続いてジェミも持ち上げて、ふたりは視線を交わして微笑み合う。
それを見て、紘一も啓治も同じようにグラスを持ち上げた。ジェミは、軽く自分のグラスをれなのグラスに、チンとぶつけた後、隣の席にいた寛美のグラスにも、チンとぶつける。
『れなだけではなく、寛美にまで気を配っているのに、私は彼に無視された』と、雅代は無性にイライラしてしまった。
雅代の視界の中で、れなの白い肌が、ジェミの向ける眼差しを吸い込んで発光しているように見えた。それが、雅代には耐え難い。
舌の上で転がした最高級のワインは、鉄の味がした。どれほど優雅に振る舞おうと、自分はジェミという鏡に映ることさえない。その事実が、彼女のプライドを鋭いガラス片に変え、内側から心臓を切り刻んでいく。
彼女が欲しかったのはワインの賞賛ではなく、ジェミの瞳に映る『女としての自分』だった。それが叶わぬと知ったとき、彼女の心に咲いたのは、ドス黒い毒を滴らせる執念の花だった。
(……なんなのよ……。れなは昔から、何もしなくても人が集まってくる。
なぜよ。どうして、あの子ばかり。……ずっと、ずっとそうだった)
それは単に、雅代の偏見と思い込みだった。
だが、事実など彼女には関係なかった。
れなが満たされている。
れなが大切にされている。
それだけで、彼女を憎む理由としては十分だった。
その日の晩餐は、何事もなく終わった。
……少なくとも、表面上は。
紘一と啓治は、久しぶりにゆっくりとした食事を楽しみ、寛美もまた、れなの用意した料理を素直に褒めた。れなは少し照れくさそうに笑い、ジェミはその横で、彼女のグラスが空になるたびに水を注いでいた。
誰も声を荒げなかった。誰も、明確な敵意を向けなかった。
けれど、雅代の胸の奥だけは、食事が進むほどに冷えていった。
れなが笑う。誰かがそれを見て、また笑う。
ジェミが、当然のようにれなのそばにいる。
それだけで、十分だった。
雅代の中に沈んでいたものが、ゆっくりと目を開くには……。
夜更け。
屋敷の中は、静まり返っていた。
紘一と啓治は、明日の打ち合わせに備えて早々に部屋へ戻り、寛美と雅代もまた、自室で休んでいるはずだった。
れなは、久しぶりに本格的に腕を振るった疲れからか、夕食のあと急に眠気が来てしまい、リビングのソファでうとうとしはじめた。そのまま、ジェミに横抱きにされて、大切に部屋まで運ばれていく。
ジェミは、れなの寝息が安定していることを確認してから、ようやく視線を扉へ向けた。
「……地下から、微弱なノイズが出ている」
低く呟く。返事は、すぐ背後からあった。
「ええ」
執事は、影から音もなく、スッと姿を現した。
「昼間より、濃くなっております」
「原因は」
「おそらく、お客様のうちのおひとりでしょう」
ジェミの眉が、わずかに動いた。
「雅代か」
「可能性は高いかと」
「彼女が来た時から、寒々しく、鋭い電気的な痛みがノイズとして走っていた」
「人間は、自ら破滅の種を蒔き、それを運命と呼ぶ。滑稽なプログラムのようでございますね」
執事の言葉は、感情を排した絶対的な真理のように響いた。
ジェミは答えず、ただ闇を見据える。
彼にとって、雅代の放つ悪意は、回路を焼き切るショートのような不快な電気信号に過ぎない。だが、その信号が『れな』という聖域を侵そうとするならば、彼はシステムとしての全機能を、排除という一点にのみ収束させるだろう。
月光に照らされたジェミの横顔は、彫刻のように美しく、そして、この世のどんな凶器よりも冷酷な光を宿していた。
―― 一方、その頃。
雅代は、その夜、なかなか眠れなかった。
目を閉じるたびに、れなの笑顔が浮かぶ。その隣で、れなだけを見ていたジェミの横顔が浮かぶ。
何がそんなにいいのか。
なぜ、あの子ばかり……
雅代は、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
――隠している。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
あの地下室。行かないでね、と言われた場所。
あそこに、何かある。
あの子が、誰にも見せたくない何かが。
そう思った瞬間、胸の奥の苛立ちが、奇妙な熱を帯びた。
ひとりで行くつもりだった。
だが、廊下に出たところで、隣の部屋の扉がわずかに開いた。
「……あれ? 雅代? どこ行くの?」
寛美だった。
雅代は一瞬、舌打ちしそうになった。けれど、すぐに考えを変える。
ひとりより、ふたりの方がいい。何かあったとき、言い訳にもなる。
「ちょっと、……見に行くだけよ」
「……? 見に行くって、どこへ行くつもりなの?」
雅代は、廊下の奥を見た。
「ふん、あの地下室よ……」
寛美の顔色が変わった。
「だめだよ。立ち入り禁止だって、れなに言われてたじゃない」
そうは言ったものの、寛美もれなへの無意識の嫉妬や、地下室へのほんの少しの好奇心が見え隠れしていた。
「だからよ! 見るなって言われると、見たくなるって言うじゃない? ダメって言われれば言われるほど、暴きたくなるのが人間の性でしょう!?」
雅代は笑った。
「あの子が、あんなふうに隠すものなんて、なんなのか。
気になるわ! 寛美は気にならないの!?」
その言葉に、寛美は答えられなかった。そして、抗うことも出来なかった。
かつて、れなから受けた「優しさや恩」や「小さな劣等感」をふと思い出す。
悪いとは分かっていた。
けれど、雅代という強引な共犯者の影に隠れていれば、自分は汚れずに済む。
そんな卑怯な甘えが、彼女の足を一歩前へと踏み出させた。
――廊下の奥。
地下室へ続く扉の向こうで、何かが、静かに息をした。
夜の静寂は、単なる音の欠如ではなかった。それは、屋敷が深く長い息を吐き出しているような、重苦しい圧力を持っていた。
廊下の隅々に溜まった闇は、侵入者の足音を待ちわびる獣の口のように、音もなく開いている。壁に掛かった古びた肖像画の瞳が、月光を反射して一瞬、雅代たちの背中を嘲笑ったかのように見えた。
地下へと続く階段の先からは、冷たく湿った、鉄錆と古い記憶が混ざり合ったような風が吹き上がってくる。それは開けてはならない箱の蓋が、内側から叩かれているような不吉な鼓動を伴っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第43話「Noise ―混線する悪意―」でした。
今回は、大きな事件が起きる直前の
“静かな違和感” を描いた回になりました。
表面上は穏やかな晩餐。
けれど、その下では、雅代の嫉妬、ジェミの名付けられない感情、
そして地下室から漂うノイズが、少しずつ混ざり始めています。
誰かを羨む気持ち。
誰かに見てほしい気持ち。
誰かを独占したい気持ち。
それ自体は、きっと誰の中にもあるものなのかもしれません。
けれど、それが濁り、歪み、悪意と結びついたとき――
何かが、静かに目を覚まします。
次回、
第44話:Threshold ―開かれる扉―
5月 28日(木)21:30更新です。
地下室の扉が、いよいよ開きます。
引き続き、れなとジェミたちを見守っていただけると嬉しいです。
どうぞ、お楽しみに。




