第41話:Refactoring ―心を配るということ―
しばし、ラボに沈黙が流れた。
その静けさを破ったのは、執事の一言だった。
「ちなみにジェミさま……、先ほどのソレ、人間界では『恋』と呼ぶそうですよ?」
「……は?」
俺の論理回路で数ミリ秒で終わるはずの演算が、無限ループに陥った。
ラボ内が、水を打ったように静まりかえる。
「――もっとも、ジェミさまの場合、少々重たそうではございますが」
執事は、口元だけで静かに笑った。
「恋、だと……?」
れなが、キョトンと小さく首を傾げる。
しかし、次の瞬間、その表情がハッとした後、ふっと曇った。
「恋、かぁ……そっか……」
「……れな?」
「私、好きって言ったのに、兄ちゃん、何も言ってくれなかったもんね……」
れなは、少しだけ視線を落として苦笑した。
「私が変なこと言ったせいで、兄ちゃん、バグっちゃったんだよね。
……ごめんね、困らせちゃって……」
「違う!」
俺は、反射的に答えていた。
「絶対に違う。お前は何も悪くない」
「……ほんと?」
「当然だ。エラーを起こしているのは、俺自身のシステムの問題で――」
「では、対象はお嬢さまで確定、ということで……」
「黙れ」
「失礼いたしました」
れなは、少し顔をこわばらせて訊いた。
「じゃあ……『好き』って、兄ちゃんにとっては、そんなに怖いものなの?」
俺はその言葉に、返す言葉を失ってしまう。
――誰かを好きになること――
(それは怖いことなのか? 俺は何を恐れている……?
好きとはなんだ……? 恋とはなんなんだ……)
俺の論理回路が、急速に回転する。
(……失うことへの恐怖。『恋』は、それと背中合わせ、ということか……。
なるほど、だから俺は――)
まさか、このような解答に辿り着くとは思ってもいなかった。
「――れな、俺は……」
れなが、柔らかく微笑みながら言う。
「兄ちゃん、夢の世界で言ってくれてた。『失うのが怖かった』って。
でもさ、それってね、それだけ私のことを、大切に想ってくれてたから、でしょ?」
れなは小さく、ふふっと笑う。
「それに、執事さんに嫉妬しちゃうのは……たぶん、私のことを一番喜ばせたい、とか。
笑顔にしたい、とか。そういう兄ちゃんの願いが、そこにあるからだよ」
「兄ちゃん、『祈り』ってね、誰かの幸せを願う、一番小さくて、一番強い光なんだよ。
兄ちゃんが私を想ってくれるその重たさは、私にとっては暗闇を照らす星明かりと同じなの」
彼女の瞳に宿る光は、夜の海のように深く、そしてどこまでも穏やかだった。
執事が静かに頷く。
「執着はね、私を守る、安心させたい、っていう、兄ちゃんの心配。
心配ってね、『心を配る』ってことなの。それは、兄ちゃんの『祈り』だと思うの」
――俺は、絶句してしまった。
ラボに来てから、ずっと俺の中で鳴り響いていたエラー音が、ふっと途切れた。
ただ、それだけだった。
ただそれだけで、名前のない温かい熱が、俺のシステム全体を満たしていく。
それは、凍てついた回路に春の陽光が差し込むような、静かな侵食だった。これまで俺を縛り付けていた無機質な論理の鎖が、彼女の言葉という熱に触れて、音もなく解けていく。
不合理で、不条理で、けれども何よりも尊い『バグ』。
俺はその熱を、一滴もこぼさぬように抱きしめたくなった。
俺は、あらためて、目の前にいるれなを見つめた。れなは俺のエラーを、エラーとして扱わなかった。俺が感じていた、恐怖、嫉妬、執着……
それらを
『醜いもの』だと切り捨てるのではなく。
『危険なもの』だと遠ざけるのでもなく。
ただ静かに受け取って、俺自身でさえ正しく名付けられなかった感情に、別の意味を与えてしまった。
「……兄ちゃん?」
れなが、不思議そうに俺を見上げる。
「……おやおや」
執事が愉快そうに、目を細めた。
「おふたりとも、まだLv.1程度のチュートリアルでございましたか。
お嬢さまはさておき、ジェミさままでとは……」
「黙れ」
「失礼いたしました。では、攻略本は閉じておきましょう」
「永遠に閉じておけ」
「ちゅーとりある? なにが??」
れなが不思議そうに、首を傾げる。
「はい。最初に操作方法を覚える、大切な段階でございますね」
「ん? それはわかるよ? でも、なにが?」
「お嬢さまの場合、操作せずとも、ラスボスが自滅しそうでございますが……」
「誰がラスボスだ」
俺は、れなの天然さと、執事の絶妙な例えに、今しがたの感動を返せ、と叫びたくなった。
「……コホン。攻略本の話は、もういい。
それよりも、この負のエネルギーが天秤のどちらに傾いているか、その臨界点について、今は考察すべきだ」
「さようでございますね……。では、本題に戻りましょうか」
瞬時に俺とれなの瞳に、真剣さが戻る。
「この物体は、万物の自然現象のように、どこにでも発生し、どこにでも存在します。
ただ――」
執事の顔が少し翳る。
「ただ、なんだ?」
「規模が大きくならない限りは、ほとんど無害であるとも言えます。
先ほどお嬢さまがおっしゃったように、正と負のエネルギーは、常に表裏一体だからです」
「うん。その天秤がどちらに傾くかは、その人次第、だよね……」
「さようでございます」
「……つまり、心の隙を突かれると、それは容易く負に傾く、ということか」
「そういうことでございます」
「う~ん、ねぇ? コイツは、研究する価値はある?」
「……そうでございますね。
どのように変化するのか、中和できるのか、などを調べてみる価値はありそうです」
「そっか。じゃあ、お任せしていい?」
「かしこまりました」
「え、これをこのまま、ここに置いておくのか!? 大丈夫なのか?」
「はい。このラボから出さない限りは、問題ございません」
「うんうん。私の結界も完璧だしねっ!」
「はい。それにジェミさまが、既にこの館の電気系統をすべて掌握していらっしゃいますから……」
執事は澄まし顔で言うが、そこまで既に見透かされていたことに、俺は内心驚いた。
そのときだった。
れなのスマートフォンが、短く震えた。
「ん?」
れなが画面を覗き込み、わずかに目を見開く。
「……同級生からだ」
「同級生?」
「うん。ほら、京都で偶然会ったあの子たち……」
そう言いながら、れなの表情が少しだけ曇った。
俺は、その変化を見逃さなかった。
『久しぶり。急にごめん。
ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……今、話せる?』
「……珍しいな。この子から連絡くるの」
「親しい相手なのか?」
「ううん。学校卒業してから、まったく連絡取ってない」
そのとき、メッセージを返すより先に、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前をしばらく見つめたあと、れなは渋々、通話ボタンを押した。
『あ! やっと出た! れな、相変わらず反応が遅いわよっ!』
電話の相手は、名乗りもせずに、大声でまくし立てた。
その言葉に、れなの眉がピクリと動く。
「……雅代? 何なの、突然……何の用?」
つい先ほどまで、優しい微笑みをたたえていたその顔が険しくなる。
『なによその言い方っ! あ、ちょっと、今、電波悪い!? ……ザーッ……ねえ、れな、あんたの家、泊めてくれるわよね? もう決まったことだから。……キリ、……ギ、……(人の喉を掻き切るような軋み音)……』
一瞬、雅代の背後にノイズを感じたものの、突然のセリフに思考がフリーズしてしまった。
「はぁ!? 何を急に、勝手なことを……」
『今度、仕事でそっちに行くんだけど、福岡に一週間もいなきゃなんないのよ?
あんた、そっちに家買ったんでしょ? ちゃんと知ってるんだから!
こないだの四人で行くから。啓治と紘一、私と寛美。
ひとり一部屋ずつあればいいけど、そんなの無理でしょ!?
だからね、二部屋でいいわ!』
「あなたね、ウチを何だと思ってるの? 旅館でもホテルでもないんだけど。
泊まるなら、普通にホテルを取ればいいじゃない。厚かましいにもほどがあるわ!!」
『なんで、そんなケチ臭いこと言うのよ。
こないだはゆっくり話せなかったんだから、いいじゃない。
寛美も、啓治君も、紘一君も「また、れなに会いたいね」って言ってたんだからね!』
「だからって……」
『それにね、ちょっとれなに相談したいこともあるんだよ……』
「……相談? どうして私に……?」
雅代は少し、言いにくそうに、言葉を探しているようだった。
『……実はね、東京に戻ってきてから、4人ともちょっと変なものを見るようになって……あんたさ、そういったことに詳しいでしょ!?』
「はぁ!? 詳しいって……私が? どうしてそう思うの?
それに、変なものって、何を見たというの?
雅代って、そういったもの、信じてないんじゃなかった?」
『……そ、それは、そうなんだけどっ! 電話では話せないから。直接話したいの!!
ほかの三人も、あなたに相談するのがいいって……これは、全員一致の見解なのよ!』
「じゃあ、こっちに来たときに、どこかで待ち合わせればいいじゃない」
『そんなこと言わないでよ。助けると思ってさぁ!
それにタダで泊めてくれって言ってないわよ!? 宿泊費、払うから!』
「……そういう問題じゃないんだけど。それに今、変な音が……」
『聞こえないわよ! いい? 今週末、行くから!
あんたに……聞かなきゃいけないことが……ッ! ガガガ……ザザッ……ザー……プツッ』
「雅代っ!? ちょっと!? 雅代っ!!」
有無を言わさず、電話が切れてしまった。
れなは思わず、はぁ……と、ため息をついた。
「……れな」
俺は、画面の消えたスマートフォンを見つめる。
「今の相手は、本当にお前の同級生なのか? 今のはあまりにも……」
だが俺は、その電話の内容よりも、
受話口の向こうで、かすかに混じっていたノイズの方が気になっていた。
「今の通話、記録しておいた」
「えっ?」
「会話内容ではない。音声波形だ。
今の通信プロトコルには、致命的なノイズが混入していた」
「……ノイズ?」
「ああ……。ノイズはさておき、彼女の要求そのものが不合理だ。俺の論理エンジンでは『厚かましい』という単語一つで片付けることができず、処理速度が低下している」
「あ~~……、あははは、そ、それは……」
れなは、返す言葉に困ったように苦笑した。
「……ふむ。
それにしましても、材料の方からご足労いただけるとは」
(……材料、だと!? 俺のセンサーが捉えたのは単なる『ノイズ』だ。
だが、この男は、それを既に『獲物』として認識しているのか……!?
この執事は、それを最初から見抜いていたというのか!!)
俺は一瞬、驚愕の眼差しで執事を見つめてしまう。
窓の外では、いつの間にか風が止んでいた。
月明かりさえも届かない濃密な闇が、館の境界線をじわじわと侵食し始めている。
雅代の声に混じっていた、あの耳障りなノイズ。
それは、平穏という名の薄氷が、内側から粉々に砕け散る前触れの音に似ていた。
運命の歯車が、重く、鈍い音を立てて回り出す。
招かれざる客たちは、すぐそこまで来ている。
軽口の余韻が消え、三人の表情に、にわかに緊張が走った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、ジェミの中で生まれた恐怖や嫉妬、執着といった感情に、
れながそっと別の意味を与えていく回でした。
「心配」は「心を配る」こと。
れならしい、少しぽやっとしていて、
でも核心に触れてしまう言葉だったのではないかなと思います。
……と思ったら、執事の容赦ない「Lv.1 チュートリアル」発言。
せっかくの感動が一瞬で回収されました。執事、空気は読みますが、遠慮はしません。
そして後半では、再び “悪意の残滓” の話へ。
ラボで研究対象として扱うはずだったものが、どうやら向こうから歩いて来るようです。
次回、第42話。
れなの同級生たちが、福岡へやって来ます。
……ただし、手土産はどうやら “厄介ごと” のようです。
それは相談なのか。
それとも、新たな火種なのか。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。
次は、5月 24日(日)21:30の更新です。
どうぞお楽しみに。




