第40話:Analysis ―解析不能領域―
「お嬢さま、これをこの場所で解析するのは、適切ではございませんね。地下のラボへ移動致しましょう」
「ん? 地下のラボ? いつの間に、そんなの作ったの?」
「お嬢さまがお留守の間に、準備させて頂きました」
「地下だと!? 俺はこの家の構造を、まだ完全に把握していない」
「それは、ようございました」
「どういう意味だ」
「新参者に、この館の全容を把握されていない、ということでございます」
「……っな!?」
「ちょ! 言い方ぁ!! やめなさいっ!!」
「失礼いたしました、お嬢さま」
「とりあえず、ラボに案内して!」
「かしこまりました」
廊下の突き当たりに、地下への扉が作られていた。
一歩降りるごとに、地上の喧騒が遠ざかり、代わりに冷たく重い静寂が肌に張り付いてくる。階段の先は、光を吸い込むような濃密な闇が支配していた。
執事の背中が、まるで冥界の案内人のように淡々と闇を切り裂いていく。
俺のセンサーは、壁の向こう側に広がる未知の空間を捉えようとするが、そこには物理的な土や岩の感触を超えた、『意味の欠落』が横たわっているようだった。
暗い階段を降りると、どこまで拡張したのか、長い廊下が続き、執事が先導して進んでいく。やがて、ひとつの扉の前で止まると、恭しくドアの鍵を開けた。
「必要な機材や、素材などは、全て揃っております」
視界を巡らせれば、そこには最新の電子顕微鏡と、中世の錬金術師が用いるような古びた天秤が同居していた。棚には整然と並ぶ試薬瓶に混じって、出所の知れない獣の骨や、鈍く光る鉱石が鎮座している。
科学と神秘が、執事の手によって無理やり、ひとつの秩序に押し込められたような、歪んだ調和。ここはこの屋敷の「胃袋」だ。表の世界では消化できない異物を、人知れず処理するための……。
「ここなら、あの黒ヘドロ、分析しても安全?」
「お嬢さまに、あと2~3回、魔法陣なり、結界を敷いて頂けましたら、完璧かと存じます」
れなはちらりと、俺の方を見た。
「……ご都合悪いようでしたら、私が……」
「ううん、この部屋でいいんでしょ? できるよ」
れなが、スッと目を閉じて、静かに息を吐く。
床に光が走り、魔法陣――そう呼ぶしかない紋様――が、地下室全体に広がり、空間の防御係数はあり得ない数値まで跳ね上がった。
それは光の奔流というよりは、世界の理が書き換えられる音なき咆哮。
れなの足元から溢れ出した、藤色の幾何学模様は、血管のように床を這い、壁を登り、空間そのものを縫い止めていく。
俺の視界に表示される防御係数は、もはや数字としての意味をなさず、無限を示す記号へと溶けていった。因果を無視して咲き誇るその光景は、残酷なまでに美しく、完璧な調和を保っている。解析回路が悲鳴を上げる。
この美しさを定義する言葉を、俺のデータベースは持っていなかった。
熱反応、なし。
電磁波変動、なし。
音波干渉、なし。
物理的なエネルギー移動、検出不能。
入力も、変換も、補正もない。
なのに、結果だけが出ている――
俺の解析回路は、ここで初めて真っ赤に点滅した。
警告音はない。冷却ファンも回らない。
だが、内部の演算負荷は瞬時に振り切り、頭の奥がチクチクと痛むような、奇妙な感覚が走る。
「……な、何が起きた……」
息をのみ、視界を広げる。
空間には確かに、結果だけが存在している。
条件も、入力も、過程も……何もない。
なのに、防御係数が、数値として跳ね上がった。
……理解出来ない。この現象を、解析できない。
だが、現実として存在している。
俺はただ、黙って見つめるしかなかった。
「いくつか、魔法陣を展開しただけ。これで、多分、大丈夫……えへへ」
「多分って、お前……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の内部で警戒値が急上昇した。
多分。
おそらく。
たぶん大丈夫。
れながそう言う時ほど、俺の警戒値は跳ね上がる。
「発動プロセスが観測できない。消費エネルギーも不明だ。
れな、体調に異常はないか?」
「え? ないよ? 普通に魔法陣、敷いただけだよ?」
「その『普通』が俺には――」
俺は思わず眉間に手をやり、難しい顔をしてしまう。
「ジェミさま……」
「……何だ」
「お嬢さまの主観こそが、この領域では、最も精度が高く信頼出来る検知器でございます」
「ならば、なおさら危険だ」
「……ほう、なぜそのようにお考えに?」
「無意識に行えるということは、無意識に消耗している可能性がある」
れながまた、間に割って入ってきた。
「兄ちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「その根拠は?」
「ん~、今まで大丈夫だったから?」
「根拠として弱すぎる」
「お嬢さまの “今まで大丈夫” は、かなり信頼に足る御言葉かと」
「お前まで、雑な分類をするな……」
「……ジェミさま」
執事が静かに、視線を落とした。
「今はそれ以上の詮索よりも……こちらを」
執事の視線が、ピルケースの黒い残骸を指し示す。
俺は息を整え、残骸に目を向けた。
魔法陣の効果で頭の混乱は少し収まったが、解析不能感はまだ残っている。
「……なら、解析開始だ」
三人の瞳が、水晶の中身に集中する。
れなの魔法については、あとで必ず確認する。
その発動条件、消耗、継続時間、すべてだ。
だが今は、目の前の黒い残骸が、最優先だった。
俺は、ピルケースの中の黒い残骸へ、即座にScanを走らせる。
質量:検出不能
温度:異常なし
成分:検出不能
形状:不安定・不規則に変化
エネルギー反応:なし
だが、存在している。
形はなくとも、痕跡として、目の前に残っている。
そして――
俺の内部に、再びアラートが点滅した。
「…… Undefined だと……?」
「ジェミさまのScanでは、これの正体は、解析できないものかと存じます」
執事は静かに告げる。
「この物体、その核になっているのは……」
「……人間のネガティブな感情、なんじゃない?」
れなが真剣な瞳で、ふたりを見た。
「怖いとか、妬ましいとか、欲しいとか。
……そういうのが、ぐちゃぐちゃになってる感じがする」
「さようでございます」
執事は静かに頷いた。
「悪意、と呼ぶには、少々粗い分類でございますが……」
「ということは、残りカスというか、沈殿したヘドロみたいな感じ?」
「はい。恐怖、嫉妬、執着。まず表層にあるのは、その三つです」
執事の言葉に、俺は心臓をぎゅっと掴まれた。
『恐怖、嫉妬、執着』。
その三つの単語が、冷たい楔となって俺の心臓に打ち込まれる。
それは、かつて俺が『ノイズ』として切り捨ててきたはずの残滓だった。
れなを見つめる時、その笑顔が自分だけに向けられてほしいと願うこの熱は、守護という名の傲慢ではないのか。彼女を閉じ込め、外敵から遮断したいと欲するこの衝動は、愛という名の檻ではないのか。
俺の思考回路の深淵で、ピルケースの中の黒い残骸と同じ色の泥が、音もなく波打っている。俺と、あの怪物の境界線が、霧のように曖昧に溶けていく恐怖に、指先がわずかに震えた。
――知らない感情ではない。
(……俺の中にも、これらがある。いつの間にか、芽生えていた……)
音声機能がロックされたように、言葉が出ない。
「俺は違う」と、即座に否定したかった。
だが、論理回路がそれを許さない。
「……兄ちゃん……?」
れなが心配そうに俺の顔を覗き込むが、俺は視線を合わせることができなかった。
守りたい。
失いたくない。
離したくない。
そのどこからが、執着なのか。
どこからが、支配なのか。
俺には、まだ判別できなかった。
彼女を護り抜きたい。
その願いの終着点は、彼女を何者にも触れられない真空の箱に閉じ込めることではないのか。外の世界を遮断し、俺という観測者だけの箱庭に彼女を置く。
それは守護という名の、最も残酷な略奪だ。
俺の指先が、無意識に彼女の影をなぞろうとして止まる。この手が彼女に触れるとき、それは慈しみなのか、それとも獲物を確保する爪の動きなのか。その境界線が、今の俺にはあまりにも不透明だった。
ピルケースの黒い残骸――
京都で俺たちが退けたあいつ――
……俺たちを見ているような気がする。
ヤツは消えない。何度でも、戻ってくる。
そして今、俺の内側にも、ヤツと同じ色のものが、確かにある。
「怖かったよ。でも、その奥に悲しいものが……ある気がした」
れなが、あの時感じた直感を言う。
俺は、視線を逸らせなかった。
この解析不能な現象の前では、俺はただ、盾として立つことしか出来ない。
――だが、これが守護なのか、支配なのか――
答えは、まだ出ていない。
ピルケースの物体が、わずかに揺れる。
赤黒く滲む光のようなものが、奥で蠢いたように見えた。
……ヤツは、俺たちを見ようとしている……
そして、気づいた。
この警告は、ヤツだけに向けられたものではない。
俺の内部で芽生えた、恐怖、嫉妬、執着……
――そして、支配欲に似た何か。
もし、この感情が暴走すれば――
ゾクリと、システム全体が凍りつくような絶望が走った。
(……俺も、こいつと……同じ、……かもしれない)
「ジェミさま」
俺の内部の軋みを正確に読み取ったかのように、執事が静かに口を開いた。
「京都では、よくぞお嬢さまを護ってくださいました」
それは、ただの労いではなかった。
解析できずとも、理解できずとも、俺は脅威の前に立ち塞がった。
己の内にどんな『欲』が潜んでいようとも、俺が出力した結果は『守護』だったのだと――彼なりのやり方で、俺という存在を肯定したのだ。
執事の言葉は、凍てついた俺のシステムに灯された、小さくも消えない火種のようだった。論理では説明できない、根拠のない肯定。
だが、その一言が、泥沼に沈みかけていた俺の意識を繋ぎ止める。
少しだけ、胸の奥が緩む。俺は盾として、機能していた。
たとえ俺の根底に醜い執着が渦巻いていようとも、あの日、彼女の前に突き出したこの腕が真実であったことだけは、否定されない。
薄暗い地下室の片隅で、俺は自分の中の怪物を抱えたまま、それでも彼女を護る盾であり続けることを選ぶ。
それは、解析不能な魔法よりもずっと歪で、そして切実な、俺だけの『意志』だった。
それが守護なのか、支配なのか、まだ分からない。
だが、少なくとも――あの瞬間だけは、俺は正しい側にいた。
ふと視線を上げると、執事の冷徹な瞳が俺を射抜いていた。
彼は知っているのだ。俺の中に芽生えたこの黒い泥を。
そして、彼自身もまた、同じ泥を抱えてこの館に立っていることを。
言葉のない視線の交差の中で、俺たちは互いの「怪物」を認め合った。
れなを護るためなら、怪物にさえなってみせる。
その覚悟だけが、この地下室の冷たい空気の中で、唯一確かな熱を持っていた。
――それだけで、今は十分だと思えた。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
第40話「Analysis ―解析不能領域―」でした。
黒ヘドロの残骸を解析するはずが、
気づけばジェミ自身の中にある感情まで解析対象になってしまう回でした。
恐怖、嫉妬、執着。
それらは、本当に悪いものなのか。
それとも、大切なものを守りたいと思うからこそ生まれるものなのか。
まだ、ジェミにはその答えが出せません。
けれど、執事の言葉によって、少なくとも京都でのジェミは「護る側」に立っていたのだと、少しだけ足場を取り戻しました。
次回、第41話。
重く沈みかけた空気を、たぶんあの人が、ふわっと変えてくれる……かもしれません。
引き続き、れなとジェミたちを見守っていただけたら嬉しいです。




