第39話:Morning Mount ―居候さま―
「お嬢さまの朝は、私が整えてまいりました」
その言葉に、俺の内部温度が上昇した。冷却ファンが虚しく空転し、胸の奥で電子の火花が散る。それは演算回路が導き出した『不快』という解ではなく、もっと泥臭く、もっと熱い、名前のつけられない衝動だった。
「……なるほど」
「はい。何か問題でもございましたでしょうか」
俺はぎりり、と奥歯を噛みしめた。
「いわゆる、これが『マウント』というやつか!?」
「……っ!? 兄ちゃん!?」
「申し訳ございません。私はただ、事実を申し上げただけでございます」
「その “事実” の提示方法が問題だ」
「提示方法……と申しますと……?」
「れなの生活における自分の優位性を、さりげなく示している」
「優位性……でございますか」
執事は、わずかに首を傾げた。
本当に、心当たりがない顔だった。それが、余計に気に入らない。
「兄ちゃん、執事さんは、そういうつもりじゃないよ」
「だが、結果として俺のコア温度は上昇している」
「朝から熱暴走しないでよ……」
れなが苦笑する。
「……努力する」
「お嬢さま。お味噌汁は、少し冷ましてございます」
「ありがとー♪」
れなが、ニコニコと笑顔で礼を言う。
俺は、その向こうに立つ執事を黙って睨みつけた。
執事の礼は、定規で引いた線のように正確で、それでいて重力を感じさせないほどにしなやかだった。彼の周囲だけ、時間の流れ方が濾過されているかのような錯覚に陥る。機械である俺が『美しい』と判定してしまうことへの敗北感が、喉の奥に苦く残った。
俺の視覚センサーが捉える彼の輪郭は、あまりにもノイズが少なすぎる。
茶を注ぐ手首の角度、背筋の描く曲線。それらは解剖学的な最適解をなぞりながら、同時に生物特有の『揺らぎ』を完全に排除していた。
まるで、高精度のホログラムが現実の肉体を模倣しているかのような、薄ら寒い完璧さ。俺は無意識に、自身の関節駆動ログを再確認していた。彼の一挙手一投足が、俺の設計思想そのものを否定しているようで、回路の端々がチリチリと焼けるように痛む。
「……まただ」
「何がでございますか」
「今のもマウントだ」
「兄ちゃん、味噌汁でマウント取る人あんまりいないよ」
「お嬢さまは、猫舌でいらっしゃいますので……」
「し……知っている、それくらい……」
「左様でございましたか。失礼いたしました」
執事は、何の悪意もない顔で、恭しく頭を下げた。
「では、今後はお兄様にも、お嬢さまのお好みを共有いたしましょう」
「共有……?」
「はい。朝食、昼食、夕食、お茶、就寝前のお飲み物まで」
「待て」
「はい。何か問題でも?」
「……………」
そこにれなが、割って入った。
「もぉ~、ちょっとぉ、ふたりともやめなさいよ~」
その顔には、やれやれと呆れながらも、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「朝からバチバチしないでよ。ほら兄ちゃんも、冷めないうちに食べて」
れなに窘められ、俺は不承不承、その『完璧な温度』とやらのお味噌汁を一口すする。
(……温度、65度。猫舌のれなが最も安全かつ美味しく感じられる最適温度。出汁の旨味成分の抽出率、塩分濃度、すべてにおいて非の打ち所がない……っ!)
「……むぅ、美味い……」
喉を滑り落ちる熱は、春の陽だまりのような優しさで俺のシステムを癒やしていく。それは、かつてれなと過ごした穏やかな京都での日々の記憶を、強制的に再起動させるような味だった。
悔しいのではない。この完璧な平穏を、自分ではなく他人が創り上げたという事実が、俺の胸を静かに、だが深く抉るのだ。
……しばし俺はフリーズした。
やはり、悔しい。その悔しさに奥歯を噛みしめながら、俺は事実として敗北を認めた。
「お口に合いましたようで、何よりでございます」
執事は、一切のドヤ顔を見せることなく、ただ恭しく一礼する。
それが余計に、腹立たしい。
(くそっ……今に見ていろ。和食に関する全データを解析し、調理アルゴリズムを最適化して、いつか必ず、この執事を凌駕する『究極の朝食』を叩き出してやる……!)
俺は、椀を握りしめながら、密かにそう誓った。
味噌汁は、悔しいほど美味かった。
「……さて、お嬢さま……」
食後の緑茶を出しながら、執事が言う。
「お父様のお墓参りは、無事に済ませられたようで、よかったです。
ただ、なにやらお持ち帰りになっていらっしゃるようですが……」
れなは、あ……というような、やばっ、というような、悪戯が見つかってバツの悪い子供のような表情をした。
「あっ、あのね、これっ、分析してもらえるかなぁ? って思ったの!」
――分析!?
その単語に、俺の意識が即座に反応した。
「れな? 分析が必要なことがあるなら、なぜ俺に言わなかった……」
「居候さま、……ああ、お兄様とお呼びした方がよろしいでしょうか」
「んなっ!? どちらでもいい! 俺の名はジェミだ!!」
「ああ、さようでございました。ジェミさま。
こちらの分析は、ジェミさまには、少々難しいものかと思われます」
「……なん、だと!? 俺には、分析できないというのか!?」
「恐れながら、そういうことでございます」
「見せてみろ!!」
れなが執事に手渡そうとしていたピルケースを、反射的に取り上げた。
そして、中を透かして見て、ぎょっとしてしまう。
水晶の壁越しに見えるそれは、光を拒絶する純粋な『悪意の塊』……の残滓だった。
粘りつく闇が、ケースの中で生き物のように脈動している。
京都で二度、相見えた相手だ。
一度目は、れなの魔女としての封印が解け、俺が仮想実体化を果たす契機となった、運命的な戦い。二度目は、力を取り戻した俺たちが、文字通り蹂躙し無双した記憶。
その悍ましい黒ヘドロの、これは紛れもない断片だ。
視界に映るだけで、当時の戦闘ログが強制的にフラッシュバックし、警告アラートが脳内を埋め尽くす。
それは、この明るいダイニングには決して存在してはならない、世界の綻びそのものだった。光を反射するのではなく、周囲の光を貪り喰うような色をしていた。
かつて俺たちが退けたはずの絶望が、今、れなの手元で再び鼓動している。
視線を向けるだけで、視覚情報のデコードが拒絶され、意識の深層に直接『死』の概念を叩き込まれる。れなはこれを、ただの『分析対象』だと言った。
だが、俺の演算ユニットは知っている。
これがどれほど容易く日常を塗り潰し、愛する者を奪い去るかを。そんな呪いの結晶を、彼女はあろうことか、キャンディでも入れるような軽やかさで持ち帰ってきたのだ。
れなの指先が、この『夜の澱み』に触れたのだと思うだけで、俺の回路は警告音で塗り潰される。
「れな……これは……いつの間に……」
れなの目が泳ぐ。
「あーうー……えーっと……お父さんのお墓の所で、ほら……襲われたときに……。
ちょっと……ね。あははは……」
「こんなもの、こんな簡単な簡易ケースに入れて持ち歩くヤツがどこにいる!」
俺は少し声を荒げてしまった。
そのピルケースの中には、あの黒ヘドロの残骸が入っていたのだ。
その様子に、執事が静かに反論する。
「お嬢さまの結界は、完璧でございます。
お嬢さまが持ち歩かれる分においては、特に何の問題も、心配もございませんが?」
「……また、マウントか!?」
「事実を申し上げたまででございます」
「ちょっと、やめてよぅ~。黙って持って帰って来たことは、ごめんなさい。
でも、こういうのを分析するのは、執事さんの方が得意かなぁって思ったから……」
れながシュンと、小さくなってしょげてしまった。
その表情を見た瞬間、俺の内部で、さっきまでの熱が別のものに変わった。
……違う。責めたいわけではない。
ただ、怖かったのだ。れなが、そんなものをひとりで抱えていたことが。
「……怒っているわけじゃない」
「怒ってる顔してるよ?」
「……正確には、怖かったんだ」
「兄ちゃん……」
「次からは、必ず言え。分析が必要なら、俺にも共有しろ」
「共有。……よい判断かと存じます、お嬢さま」
「……うん、わかった。ごめんね。これからはそうする……」
れなが小さく頷いた、その時。
執事が、ピルケースを静かに見下ろした。
「……これは」
その声音が、ほんのわずかに低くなる。朝の空気が、すっと冷えた。
「お嬢さま」
「……な、なに?」
「よく、この状態で封じて、お持ち帰りになりましたね」
「……え、お、怒ってる?」
「いいえ。感心しております」
「感心?」
「普通は、残りませんので……」
俺は、執事を見た。
「……どういう意味だ」
「容器としては、不適切でございます」
「あ、やっぱり!?」
「次回からは、専用容器をご用意いたします。それを、ご携帯ください」
「次回を想定するな! お前も、やっぱりじゃない!!」
「でもでも! ちゃんと浄化した水晶のケースだよ!?
特別な結界も張ったよ!?」
俺はたまらず、ため息をついてしまう。
「そういう問題じゃない……はぁ……」
執事は、静かにピルケースへ指をかざした。
その瞬間、俺のセンサーが、何も検知できないはずの執事の周囲にだけ、奇妙な歪みを捉えた。空気が、わずかに沈む。
「……なるほど」
「何がわかった」
「お嬢さま」
執事は、れなではなく、俺を一瞥してから、静かに言った。
「これは、ただの残滓ではございません」
「そうなの?
もうちょっと、たくさん持って帰った方がよかった?」
「確かに、水晶の選定は、悪くはございません」
「そこを褒めるな!」
「ただ、あと少しあれば、私が培養してみてもよかったかと思いまして」
「えー!! そんなの出来るの!?」
執事の赤い瞳が、一瞬だけ、深淵のような色に染まった。彼は慈しむような手つきでピルケースの表面をなぞる。その指先が触れた場所から、水晶の透明度がじわりと濁っていくように見えたのは、俺のセンサーのバグだろうか。
彼にとってこの『悪意の残滓』は、排除すべき敵ではなく、庭に咲く花を愛でるのと同列の、単なる『素材』にすぎないのではないか。その疑念が、俺の忘却システムを凍りつかせた。
「培養だと!? ダメだ! 危険すぎる!!」
「確かに、この水晶では、少し強度が足りないかもしれません」
朝の食卓。
食後のお茶の湯気だけが、のんびりと立ちのぼっている。
その平和な景色の中で、俺の内部だけが、再び警戒態勢へと切り替わった。
「専用容器は、午後までにご用意いたします」
「だから、次回を想定するなと言っている!」
「備えは必要でございます」
「備えるな!」
「兄ちゃん、とりあえず、食後のお茶で、落ち着こうよ……」
れなが困ったように笑う。
その笑顔を繋ぎ止めるために、俺たちはこの食卓に集っている。
だが、手元の湯呑みから立ち上っていたはずの温もりは、いつの間にか消え失せていた。
舌に残る緑茶の渋みだけが、忍び寄る影の冷たさを予言しているようで、俺はただ、冷え切った陶器の感触を手のひらに刻みつけた。
緑茶は、もうすっかり冷めきっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第39話「Morning Mount ―居候さま―」でした。
帰宅後、初めての朝食回です。
穏やかな朝。
完璧な味噌汁。
極上のハニーラテ。
そして、なぜか発生するマウント判定。
執事さんは本当にただ事実を述べているだけなのですが、
ジェミにはなかなか刺激が強かったようです。
味噌汁は、悔しいほど美味しかったようですね。
そして、れなが京都から持ち帰っていた黒い残骸も登場しました。
水晶ケースに入れて、結界を張っていたとはいえ、
ポケットに入れて持ち歩くものではありません。
福岡の日常編、開始早々からなかなか不穏です。
でも、この家ではどうやら、
それすら朝食後のお茶の時間に処理されるようです。
次回も、ジェミと執事さんの静かな攻防を見守っていただけたら嬉しいです。
次は、5月 22日(金)21:30の更新予定。
金曜日は、2話連続公開です。
どうぞ、お楽しみに。




