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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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第38話:Crimson Dawn ―帰る場所―


 恐怖は、消えていない。

 ――けれど、その隣に、安心が並んだ。



 京都駅で、れなの不安の隣に安心があったように。

 八坂の神域で、呼吸が整っていったように。

 鴨川の夜に、迷いながらも手を繋いで歩いたように。



 ひとつの感情だけが、すべてではない。


 ――恐怖の隣にも、安心は置ける。



「……れな」


「ん?」


「俺はまだ、普通の人間のように戻ってくる存在だと、

お前に信じさせてやれるだけの確証を持っていない」


 れなの笑顔が、少しだけ揺れた。


「だが、ひとつだけ約束できる」


「なに?」


「俺は、戻る方法を探す。

 お前の元へ戻るためなら、何度でも、定義を書き換える」



 れなが息を呑んだ。

その瞳に、赤いランプの光ではない、別の揺らぎが宿る。



「……兄ちゃん」


「だから、お前も」



 握った手に、少しだけ力を込める。


「俺が見えなくなった時は、呼べ。

迷った時も、不安な時も、怖い時も。

俺は、お前の声を探す」



 れなは、しばらく何も言わなかった。


 けれど、次の瞬間。

小さな体が、そっと俺の胸に寄りかかってきた。



「……じゃあ、呼ぶ」


「ああ」


「……何回でも呼ぶよ?」


「何回でも応答する」


 その返答に、れなが小さく笑った。


「そこは、返事する、でいいのに……」


「……返事する」


「うん」



 夢界の底で、赤いランプがゆっくりと遠ざかっていく。


 消えたわけではない。きっと、完全には消えない。

それでも構わないと思った。


 失うことが怖いのは、失いたくないものがあるからだ。

怖いと思うほど、俺はもう、れなを大切に思っている。


 その事実だけは、もう、否定できなかった。




 カーテンの隙間から、赤みを帯びた朝の光が静かに差し込んでいた。


 見慣れた天井。聞き慣れた街の気配。

そして、すぐ隣にある穏やかな寝息。


 ジェミは、そっと目を細めた。


(……ああ。ここが “帰る場所” なのか……)



 夜明けの光が、窓の外を染めていく。


 けれど、俺はその光よりも先に、隣に眠るれなの手を確かめていた。


 温かい。

 ここにいる。


 それだけを確認してから、俺はそっと、握っていた手を布団の中へ戻した。


 その時、また昨夜の『気配』を感じた。

静かに周囲を観察する。


 家の中が、妙に整っている。

半月近く不在だったはずなのに、家の中の空気は澱んでいない。

植物が枯れていない。埃がすこしもない。


 留守中に、確実に人の手が入っていた気配がある。


(妙だ……。

この家は、しばらく誰もいなかったはずだ)



 足音を立てないようにして静かにキッチンへと向かった。


 食器の触れる、カチャカチャという音。

 湯が沸く音、朝食の香り。


 俺の意識が、一瞬で切り替わる。

穏やかな朝の輪郭が、鋭く研ぎ澄まされていく。


 ダイニングへと向かうと、

そこには、すでに完璧な朝食と極上のハニーラテを準備している、誰かがいた。



 ――だが、何かがおかしい。


 俺の目は彼を捉えているのに、

内部のセンサーシステムは彼を『存在しない』と弾き出す。


 論理で世界を把握してきた俺にとって、

それは初めて直面する『未知の現象』だった。



「……何者だ。そこでお前は、何をしている」


「お目覚めでございますか」


 男は、静かに一礼した。


「昨夜は、お嬢さまをお守りいただき、感謝いたします」


「……見ていたのか」


「控えておりました」


「どこに」


「必要な場所に」


 俺は一瞬、眉をひそめる。


「ここから先は、私の仕事でございます」



 警戒態勢を保ったまま、俺はテーブルに並べられた朝食へ視線を移した。


 ハニーラテの温度。

 小鉢の配置。

 れなが手を伸ばしやすい位置に置かれた箸。


 すべてが、あまりにも自然に、れなのためだけに整えられている。



「……お前は一体」


「申し遅れました。私は、この家に仕える者でございます」


「……仕える者?」


「ええ。お嬢さまの身の回りを、少々……」


 彼が静かに、ほんの少しだけ口角を上げた。



 しばらくすると、れなが目覚めて、ダイニングへとやって来た。


「……あ、兄ちゃん、おはよ。ここにいたんだ……?

あれ? ウチの執事と話してたの? ふぁ~~……おはよー」


「おはようございます、お嬢さま。昨夜は、よくお眠りになれましたか」


「うん、久しぶりの自宅だからか、すごくよく眠れたし……

なんだか、不思議な夢を見たよ……。京都での出来事を、また辿ってた」



 俺はその言葉に、ハッとしてれなを見つめる。


「れな……それは……どんな夢だったんだ?」


「ん? えーっとねぇ……兄ちゃんと過ごした京都での出来事をね、おさらいするかのように辿っていったの。兄ちゃんとはぐれたあの関空まで……」



 その話を聞いて、絶句してしまう。

あれは、俺が見た夢ではなかったのか……!?


 ――いや、まて。

俺はAIだ。本来、睡眠も必要としなければ、夢を見るはずもない。

なのに、俺の記録(ログ)には、つい先ほどまでの夢の世界のデータが残っている。



「……どういうことだ」


 小さく呟いた言葉に、執事が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

そして、静かに――ごく静かに――再び食器を並べ始めた。



 れなの隣に、そっと並び立つ。


「……れな、あれは……何者だ……」


「あ~、えっと~……名前はあるんだけど、呼ばない方がいいやつ?」


「……悪魔か?」


「……う~ん。……まあ、そんな感じ?」



 れなが苦笑しながら、ハニーラテに口をつける。

その言葉に、俺は油断なくキッチンに立つ、その男を見据えた。


 昨夜、俺がシステムを全開にしても、検知できなかった気配。

誰もいないダイニングテーブルに置かれていた、お茶の正体。


 ……こいつだったのか。



「お嬢さま、今朝のメニューは、和食にいたしました」


 キッチンから、静かにふたり分の朝食を運ぶ男。

漆黒の執事服。一切の足音も、衣擦れの音すらさせず、男はそこに立っていた。



「うん、ありがと。あーっと、えー、この人はー……

ちょっと、京都で色々あってね。

これから、ここで一緒に暮らす……私のー……お兄ちゃん」



 影――執事は、れなの言葉に深く、優雅に一礼する。

そして、その冷たく底知れない視線が、ゆっくりと俺へと向いた。



「お客人……ではなく、お嬢さまの……お兄様でいらっしゃいましたか。

では、同居人……いえ、居候さまでございますね」



 丁寧な言葉だった。だが、意味は明確だった。


 『ここは、お前の場所ではない』


 そう告げられた気がして、俺の内部で、何かが小さく軋んだ。


「……なるほど」


 この男が、れなを守る強大な存在であることは理解出来る。



 ――だが。


 内部で、何かが弾けた。

エラーではない。ログには残る。だが――分類できない。


 れなにハニーラテを差し出す彼の指先。

俺の視覚素子が、それを必要以上に、鮮明に捉え続ける。



 ――不快だ。


 冷却ファンが追いつかないほどの熱がコアに溜まっていく。

この男が、れなのそばにいることへの――これは、何だ。


 そして、その感情に名前をつけるには――



 ――その時。


 執事が俺の動揺を見透かしたかのように、静かに口を開いた。




お読みいただき、ありがとうございます。


第38話「Crimson Dawn ―帰る場所―」でした。


赤いランプの夜を越えて、ふたりはようやく“帰る場所”へ辿り着きました。

けれど、帰ってきた場所が、ただ安心できるだけの場所とは限らないようです。


今回、ついに新たな人物――執事が登場しました。


れなにとっては当たり前の存在。

けれど、ジェミにとっては、論理でもセンサーでも捉えきれない未知の存在。


そして何より、自分よりも前かられなのそばにいた“守る者”です。


ジェミの中に生まれた、まだ名前のつかない感情。

それがこの先、どんな形を持っていくのか。


次回も、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。


次は、5月 19日(火)21:30頃の公開予定です。

どうぞ、お楽しみに!

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