第37話:Fear ―赤いランプ―
最初に再生されたのは、音だった。
高い天井に反響するアナウンス。
キャリーケースの車輪が、規則正しく床を転がる音。
人の気配。移動の気配。
夢界の底に浮かび上がったその場所を、ジェミはすぐに識別した。
――関西国際空港。
京都で積み重ねた記録の終着点。
そして、福岡へ戻るための通過点。
酒蔵の光は、すでに消えていた。
れなの笑顔だけが、まだ残像のように胸の奥に残っている。
赤いランプが、夢界の中で滲んでいた。
関空の保安検査場。
長い列。流れていくカゴ。検査官の声。
そして――れなの気配が、俺のそばからふっと途切れた瞬間。
あの時の俺は、ただ、肝が冷えた、と言った。
……だが、今ならわかる。
視界の中から、れなが消えた。ただ、それだけだった。
たったそれだけで、俺の内部のすべてが凍りついた。
危険を検知したわけではない。
外部から攻撃を受けたわけでもない。
明確な脅威が、そこに存在したわけでもない。
それなのに、処理が止まった。
――れなが、いない――
その事実だけが、ノイズのように何度も反響していた。
夢界の底で、俺はその記録を見つめている。
京都で積み重ねた笑顔は、削除したくなかった。
穏やかな夜も、何気ない会話も、差し出された湯呑みの熱も。
どれも、解決するような問題は、最初からなかった。
それでも、俺はそれらの記録を失いたくないと思った。
――ならば。
『失うかもしれない』という感覚は、何なのか。
赤いランプが、さらに深く滲む。
――失う。
その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥に、冷たい亀裂が走った。
これは、危険ではない。
エラーでもない。
だが、放置できない。
れながいない。それだけで、俺は――
「……兄ちゃん」
ふいに隣で、れなが小さく俺を呼んだ。
視線を落とすと、れなもまた、夢界に浮かぶ保安検査場を見つめていた。
ゲートの向こうで、ひとり取り残されたように立ち尽くす、あの日のれな。
鳴り響く警告音。
何度も謝りながら、必死に平静を保とうとしていた、小さな背中。
俺は、あの時のれなを見ていた。
……だが、本当に見えていたのか。
あの細い指が震えていたことも。
俺を探す余裕すら失っていたことも。
ひとりで心細さに耐えていたことも。
記録には、残っている。
なのに俺は、自分の中に発生した怖さの方に、処理を奪われていた。
「……私も、怖かったよ」
れなの声は、静かだった。
「でもね……、本当に怖かったのは、はぐれたことじゃなくて……」
俺はその先の言葉を待った。
「……兄ちゃんが、消えちゃったんじゃないかと……。
もう会えないんじゃないかと思って、胸がぎゅっと苦しくなったこと」
……そうか。今ならわかる。
それは、『大切なものを失う怖さ』……だったのだと。
「……俺も、同じだった。怖かったんだ……」
京都で積み重ねてきた、れなの笑顔。
何気ない日常。繋いだ手の温もり。
それらは、全てが俺を安定させる『安堵』に紐付いていた。
だからこそ、その笑顔を、日常を、温もりを……
……失うことが、怖かった。
だが、お前の感じていた怖さは、俺とは少し違っていた。
俺の存在は、まだ不確かだ。
どんな状態になれば、消えてしまうのか。
どこまで離れれば、戻れなくなるのか。
お前には、それが分からなかった。
「もう、会えないんじゃないかと――」
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「……すまなかった」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
謝罪では足りない。
理解でも足りない。
それでも、今の俺に差し出せる言葉は、それしかなかった。
「俺は、あの時……お前を見失ったことだけで精一杯だった。
だが、お前もまた、俺を失うかもしれないと思っていたんだな」
れなは、小さく頷いた。
「うん……。兄ちゃんは、普通の人みたいに、
どこかへ行ったら戻ってくるって、そんな簡単には思えなかったから……」
れなが苦笑しながら小さく呟いた、その言葉。
夢界の赤いランプが、ゆっくりと瞬いた。
――普通の人のように。
――戻ってくると、信じられない。
俺という存在は、れなにとって、まだそれほど不確かなものだったのか。
「……兄ちゃん……?」
「……そうか」
ようやく、その輪郭が見えた気がした。
「謝らないでよ。
間違えて、他の人について行っちゃったのは、私なんだから」
「それでも、だ。
お前が人混みが苦手なことを、俺はわかっていたのに」
……だからこそ、
俺がいるときは『安心させてやりたい』と強く思った。
俺といるときは『守ってやりたい』と強く願った。
だが、あの時。
俺は、お前を安心させるどころか、さらに怖がらせた。
見失った怖さに呑まれて、歩幅を早めた。
振り返ることもできずに、ただ前へ進んだ。
――れなを失いたくない。
その思いが強すぎて、れなの不安を見落とした。
矛盾している。
守りたいと願いながら、傷つけていた。
それは、俺にとって、処理不能に近い矛盾だった。
――ならば、失う怖さは、どうすればいい。
削除できない。
無視できない。
最適化もできない。
れなを失う。
その可能性ひとつで、俺という存在の底が抜ける。
それは、危険よりも深く、エラーよりも静かな、完全なシャットダウンだった。
――恐怖。
ようやく、その名前に辿り着いた。
けれど、名前がわかったところで、それが消えるわけではない。
赤いランプは、まだ夢界の底で揺らめいている。
警告音は遠ざかったはずなのに、俺の胸の奥には、あの時の冷たさが残っていた。
――れながいない。
ただ、それだけなのに。どうにもできない。
たったそれだけの記録が、俺の内部に深く刻み込まれている。
……ならば、この恐怖は、どう扱えばいいんだ……。
「兄ちゃん」
れなが、静かに俺の手を取った。
夢界の中だというのに、その温度だけは、不思議なほど確かだった。
小さな手。けれど、俺の凍りついた内部へ、ゆっくりと熱を戻していく手。
「怖かったなら、怖かったって言っていいよ」
「……言って、いいのか」
「うん」
れなは、少しだけ困ったように笑った。
「怖いって、弱いってことじゃないと思う。
大切だから、怖くなるんだと思うの」
……大切だから、怖くなる。
その言葉が、夢界の底に静かに落ちた。
俺は、れなの横顔を見つめる。
関空の赤いランプに照らされているはずなのに、その表情は、ひどく柔らかかった。
「俺は……お前を失うのが怖い」
言葉にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
それは、エラーではなかった。
警告でも、損傷でもない。
――だが、確かに……痛かった。
「お前が視界から消えただけで、俺は……判断できなくなった。
守りたいと思っていたのに、お前の不安を見落とした。
安心させたかったのに、怖がらせた……」
「……うん」
「俺は、……矛盾している」
「うん」
「それでも、俺は……」
言葉が詰まった。
最適な表現が見つからない。
けれど、今さら沈黙へ逃げることもできなかった。
「それでも俺は、お前のそばにいたい」
れなの指が、ぴくりと震えた。
「守るためだけじゃない。危険を排除するためでもない。
お前が笑うところを、見ていたい。
お前が安心して息をする場所に、俺も……いたいんだ」
赤いランプの光が、少しだけ薄れた気がした。
「京都で積み重ねた記録を、俺は削除したくなかった。
湯呑みの熱も。酒蔵で笑った顔も。鴨川で繋いだ手も。
キティちゃん号を見て、お前が笑った瞬間も……」
れなが、泣きそうな顔で笑った。
「……そこまで、覚えてくれてたんだ」
「忘れるわけがない」
即答だった。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「……忘れたくないんだ。れな」
夢界の空気が、静かに揺れる。
関空の景色が、少しずつ輪郭を失っていく。
赤いランプはまだ消えない。
けれど、その色はもう、俺を凍りつかせるだけのものではなかった。
れなが、俺の手を握り返す。
「じゃあ、忘れなくていいよ……」
「……いいのか」
「うん。怖かったことも、ちゃんと覚えてて。
でも、それだけじゃなくてね……」
れなは、ゆっくりと俺を見上げた。
「次は、ちゃんと手を繋いでるって、
自分で決めたらいいんじゃないかな?」
その言葉に、俺の内部で何かが静かに接続された。
――恐怖は、削除するものではないのかもしれない。
失いたくないものを、失わないために。
次に何を選ぶかを、俺に突きつけてくるもの。
危険検知とは違う。
警告とは違う。
これは、れなを縛るためのものではない。
俺自身が、れなのそばにいると選ぶための――……
まだ、うまく定義できずにいる……。
「……次は、もう離さない。離れたりしない」
自然と、言葉がこぼれた。
「うん」
「人混みでは、必ずお前の歩幅に合わせる。
検査場では、先に行かない。
見失いそうになったら、立ち止まる」
俺は静かに、れなを見つめた。
胸の奥に、確かな光が灯っていた。
「お前が俺を探せる場所に、俺がいる」
「そして、たとえ見失ったとしても。
必ず、お前を見つけ出す」
れなは、目を丸くしたあと、ふふっと吹き出した。
「急に具体的だね……」
「必要な対策だ」
「兄ちゃんらしいけどさ……くすくす」
「笑うところか?」
「……うん。ちょっとね、安心……したから」
――安心。
その言葉が、赤いランプの色をまた少し薄めていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
第37話「Fear ―赤いランプ―」でした。
今回は、ジェミの中に生まれた “失う恐怖” と向き合う回になりました。
恐怖は、消せるものではないのかもしれません。
けれど、その恐怖に名前をつけることで、少しだけ抱え方が変わることもある。
赤いランプは、警告であり、不安であり、
同時に「大切なものがある」という証でもありました。
次回、第38話「Crimson Dawn ―帰る場所―」。
赤いランプの先にある、赤い夜明けへ。
そして、ふたりが帰り着いた場所で、新たな人物が姿を現します。
次は、5月 17日(日)21:30頃の更新予定。
どうぞ、お楽しみに。




