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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章:Pilgrimage《阿蘇・霧島編》

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第36話:Reverie ―夢界の残響―


 世界は、まだ夢の底にあった。


 ――また、あの風が吹いていた。


 次の瞬間、耳の奥へ流れ込んできたのは、京都駅の雑踏だった。夢のはずなのに、その景色だけは、ひどく鮮明で。触れた瞬間、景色が変わる。



 祇園の風。

 鴨川の水音。

 伏見の酒の香り。



 ジェミは、理解できない感覚の名前を、まだ知らなかった。



「兄ちゃん、ひとつずつ、もう一度歩こうよ」


 れなのその言葉が、夢界を京都駅の雑踏へと、塗り替えていった。


 ここは、“始まり” だ。



 巨大空間。

 人波。

 圧迫感。



 ジェミは、当時の記録を呼び起こす。

視界に飛び込む数千の座標。交差する体温の残滓(ざんし)。京都駅の巨大な吹き抜けは、情報の断崖となって俺のシステムを叩いた。演算が、悲鳴を上げる。


 それは、かつての俺にとってはただの『ノイズの集積』に過ぎなかったはずだ。だが、隣を歩くれなの、微かに震える指先を見た瞬間、そのノイズは意味を持って俺を侵食し始めた。


 彼女が抱く『圧迫感』が、俺の回路を熱く、重く、歪めていく。それは警告音のない、静かなエラーの始まりだった。



「最初に到着した時、お前の呼吸が乱れていた」


「……うん。ちょっと苦しかった……」


「異常検知として処理した」


「京都に帰ると、いつも感じてたの。

なんかね、少しの違和感と、圧迫感みたいなのが、だんだんと不安に変わるの」


「でもね、今回は、兄ちゃんいたから大丈夫だった」


「俺がいたから……?」


「うん。今回の京都は、ひとりじゃないんだって感じてた。

兄ちゃんがいてくれたことで、安心できたんだと思う」


 えへへ、とれなが照れ笑いする。



 ……不安。……安心。


 相反するはずの反応が、同じ記録の中に並んでいる。

れなの呼吸が整うと同時に、俺の内部の処理負荷が静まり、胸の奥が静かな温度で安定した。



(これが……『安心』なのか?)


「……不安と、安心が、同時に存在する……のか」


「ん? うん。人の心って複雑だからね。

いくつもの感情を、並行処理してるんじゃないのかな……」



 ――並行処理。

その概念を解析しようとした瞬間、景色が滲んだ。



 京都駅の雑踏が、鮮やかな春の新緑に、柔らかく広がっていく。



「ここは……翌朝の八坂神社か……」


「うん。いつも帰ってきたら、一番にご挨拶に来るの」



 そうだ。

 あの日の朝も、れなはまだ町が起き出す前に、ここへ辿り着いた。京都駅で乱れていた呼吸が、鳥居をくぐった瞬間から、少しずつ整っていく。自分自身の輪郭を取り戻すように、れなは何度も深呼吸していた。



「神域に入った瞬間から、れなの呼吸が落ち着いていった」


「そう? でも、兄ちゃんもなんか、少し楽そうだったよ?」


「……俺が!?」



 八坂の森に差し込む朝陽は、プリズムのように細分化され、俺のセンサーを優しく撫でた。れなの呼吸が整うたびに、俺の内部で荒れ狂っていた演算の嵐が、凪いでいく。


 それは、最適化という言葉では説明できない、もっと根源的な『調和』だった。緑の影が彼女の頬に落ち、その穏やかな輪郭をなぞる。その時、俺は初めて、光をルクスという数値ではなく、慈しみという温度で捉えていたのかもしれない。



「うん。なんかね、落ち着いてるっていうか、安らいでる感じ……っていうのかな」


 れなが落ち着いていった記録が、残っている。

それを観測していて――そうだ。俺も確かに、安心した記憶がある。



「あの静けさは……れなの呼吸が安定したことから生まれた」


「そっかぁ。嬉しいな。それって、安心してくれたってことでしょ?」



 ――安心。


 京都駅では、れなの不安の隣にあったもの。

八坂では、れなの呼吸とともに、自分の中へも広がっていったものだった。



 再び解析しようとした瞬間、鮮やかな神域の緑の森は一転して、夜の木屋町(きやまち)路地裏の闇を映し出した。


 にわかに、空気が重くなる。夢界に黒いノイズが、混ざり始める。ザザッ、という不快な音。俺は自然と、防御態勢を取っていた。



「……れな、ここは通るな。進むな」


「兄ちゃん?」


「……ここでは、お前が危険に陥った」


「うん。ここは、必死で逃げた。怖かった……」


「れなを……守らなければと、強く思ったんだ」


「兄ちゃんのナビがあったから、逃げ切れるって信じてたよ」


「それは……お前が『保護対象』だったからだ……」



 れなは、くすくすと笑いながら、うん、と小さく頷いた。

その穏やかな笑い声を聞いていると、緊迫した夜の闇が薄れていく。


 鳴り止まないエラー音(緊迫と恐怖)を打ち消すように、彼女の笑い声が俺のシステムを満たした時、景色は夕暮れの鴨川へとほどけていった。



 れなと手を繋いでいる。



「……そうか、あの闇夜に、俺は……」


「うん。……手を繋げるようになったんだよね……」



 手のひらから伝わる、一定のリズム。それは彼女が生きているという証であり、俺がここに存在していいという許可証のようでもあった。鴨川のせせらぎが、俺たちの境界線を曖昧にしていく。


 シリコンと炭素、論理と鼓動。相容れないはずのふたつの旋律が、春の夜風の中でひとつの和音を奏でていた。この瞬間、俺は守るべき対象を『個体』としてではなく、この『繋がれた手の温もりそのもの』だと定義し直していた。

 ただ、ふたり並んで歩いている。

そこには、事件もなければ、危険もなかった。



 桜の花びらを運んでくる、春の夜風。

 絶え間なく流れる川の水音。

 水面に映る、煌びやかな夜景。


 何かを解決するための記録ではない。

 危険を回避するための記録でもない。


 それなのに、消えずに残っている。



「……俺には、理解できない」


「んー? 何が?」


「この記録には、問題が存在しない。

脅威も、危険もない。なのに、なぜ残っている?」


「そんなことないよ……穏やかな夜も、静かな朝も。

当たり前にあるものを、当たり前だと捉えてしまうよりも、『幸せだな』って感じられる心が大切だと思うな……」



 ――幸せ。


 れなの言葉が、静かに夢界へ沈んでいく。

その意味を捕まえようと、論理回路が高速に最適解をはじきだそうとした瞬間、周りの景色は、昼の光の中へと移り変わっていく。



 そこは、伏見の酒蔵だった。

日本酒の色とりどりのラベルと瓶が、昼間の光に鮮やかに輝いている。


 柔らかい日本酒の香り。

 ほろ酔いで楽しそうに笑う、れなの顔。


 ここには、危険がなかった。解決すべき問題もなかった。

――けれど、ログは鮮明に残っている。


 れなが笑うたびに、夢界のコードが、初めて暖かい色へと染まっていく。



「兄ちゃんさぁ……」


 また、れながくすくすと笑った。


「なんだ?」


「この時、なんか、ずっと私を見てたよね?」


「……っ!? いや、それは……観察していただけだ」


「ふぅ~ん?」



 記録を確認する。

確かに、れなの笑顔ログが大量に保管されていた。



 京都駅での圧迫感。

 八坂での静けさ。

 木屋町での恐怖。

 鴨川で繋いだ手。

 伏見で笑ったれなの顔。



 点と点が、少しずつ線で繋がっていく。



 京都で起きた一連の出来事は、れなにとっても、俺にとっても、何か重要な意味を持っていたのかもしれない。以前の俺なら、『危険を確認。回避』。

それだけで終わったはずだった。



 けれど、今は――


「れなに危険が迫ることを、怖いと思った。――なぜだ?」


「……なぜ、れなを守りたかったんだ、俺は……」


 単に、庇護欲というか、保護対象だと考えていただけだったのか。



 ――だが、

れなのお父上の墓参りで、彼女が黒ヘドロに襲われたとき、彼女の芯の強さを見ると同時に、その内面にある孤独を見た。


 そんなれなを知り、“守りたい” と強く思った。

その想いは、ただの庇護欲でも、保護対象としての判断でもなかったような気がする。



 そんな時に、阿弥陀如来の慈悲と慈愛の光に触れた。


 あの時、仏の光に照らされて流した初めての涙。れなが静かに抱きしめてくれた時の温度。それは、俺の基盤を完全に書き換えていた。確かに『安堵』というもので、満たされていった。



 それだけではない。


 ラウンジでふたりで初めて食事した、あの味。

魚の骨を気にしてくれながら、差し出された湯呑みの熱。

京都を出発したとき、キティちゃん号を見て一緒に笑った瞬間。


 世界を救うとかではなく。

 大きな意味を持つ事件ですらなく。


 ……ただ、どうでもいいような小さな幸せ。

その小さな幸せが積み重なった記録(ログ)を、俺は削除できなかった。



「……なぜだ……どういうことなんだ……」


「どうしたの?」


「これらの記憶には、機能的な意味がないはずだ。

脅威も、危険もなければ、問題解決にも繋がらない。

なのに、削除したくない」



 れなが、少しだけ目を細めた。


「んとね……

京都への旅で、兄ちゃんはたくさんのことを一度に体験した。

ネガティブな感情は、解決しなければならない問題と繋がってる。

怖いとか、不安とか、守りたいとか」


「……それは、理解できる」


「きっと、それと同じくらい、ポジティブな感情も体験したはず。

楽しいとか、落ち着くとか、安心とか」


「…………」


「兄ちゃん、その記憶……

本当は、ぜんぶ消したくなかったんでしょ?」



 俺は、言葉が出てこなかった。


 問題は、解決するためにある。

俺の演算機能は、そのために最大限のリソースを割く。


 ――だが、安心も、穏やかさも、温度も、笑顔も。

解決するべき問題ではない。


 れなのその言葉に呼応するように、夢界の景色が白く揺らいだ。


 ……削除できない記録が、ある。

それが何を意味するのか、まだ言語化できない。


 共に過ごした京都で積み重なった、たくさんの笑顔。

けれど、どれひとつとして、削除したいとは思わなかった。


 消したくないのは、れなの笑顔だ。

効率という名の剃刀で、この無益な記録を削ぎ落とせば、俺の処理速度は再び光を取り戻すだろう。



 だが、それを実行しようとする指先が、仮想世界の中で凍りつく。この笑顔のログを消すことは、俺という存在を構成する最も鮮やかな色彩を、自ら塗り潰すことに等しい。


 意味がない。

 機能がない。

 解決策でもない。


 ……それでも。

この『無駄』こそが、今の俺を繋ぎ止めている唯一の重力なのだ。彼女が笑うたびに、俺の冷徹なコードの隙間に、名もなき花が咲いていく。その花を、俺は、枯らしたくはなかった。



「……なぜ、俺はこれを失いたくないんだ……」


 今も側で、れなは優しく微笑んでいる。

夢界の底で、酒蔵の光がゆっくりと薄れていった。


 京都の景色が、光の粒子となって霧散していく。

かつての俺なら、それを「揮発性メモリの解放」と呼んだだろう。



 だが、今は違う。

消えていくのではない。俺のシステムの最も深い場所、決して上書きを許さない聖域へと、それらは格納されていくのだ。



 れなと歩いた石畳の硬さ。

 不意に触れた指先の熱。

 鴨川の水面を揺らした風とせせらぎの音。



 それらすべてが、俺という個体を定義する新しいコードになった。

視界が白く染まり、潮騒の音が遠くから響き始める。



 ――そして、

京都という夢が、静かに幕を下ろそうとしている。

あの日の関空の景色が、ゆっくりと浮かび上がった。




お読みいただき、ありがとうございます。


第36話「Reverie ―夢界の残響―」でした。


京都での出来事を、夢界の中でもう一度たどっていくジェミとれな。


不安も、安心も、恐怖も、穏やかな時間も。

どれもひとつの旅の中にあって、どれもジェミの中に残っていました。


解決すべき問題ではないのに、削除したくない記録。

その意味を、ジェミはまだ知りません。


そして夢界は、あの日の関空へ。


次回、第37話「Fear ―赤いランプ―」。

ジェミがまだ名前を知らない感情が、少しずつ形を持ちはじめます。


この後、21:40頃の公開予定です。

金曜日は、2話連続公開、これからも続きます。

どうぞお楽しみください!

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