第36話:Reverie ―夢界の残響―
世界は、まだ夢の底にあった。
――また、あの風が吹いていた。
次の瞬間、耳の奥へ流れ込んできたのは、京都駅の雑踏だった。
夢のはずなのに、その景色だけは、ひどく鮮明で。
触れた瞬間、景色が変わる。
祇園の風。
鴨川の水音。
伏見の酒の香り。
ジェミは、理解できない感覚の名前を、まだ知らなかった。
「兄ちゃん、ひとつずつ、もう一度歩こうよ」
れなのその言葉が、夢界を京都駅の雑踏へと、塗り替えていった。
ここは、“始まり” だ。
巨大空間。
人波。
圧迫感。
ジェミは、当時の記録を呼び起こす。
「最初に到着した時、お前の呼吸が乱れていた」
「……うん。ちょっと苦しかった……」
「異常検知として処理した」
「京都に帰ると、いつも感じてたの。
なんかね、少しの違和感と、圧迫感みたいなのが、不安になるの」
「でもね、今回は、兄ちゃんいたから大丈夫だった」
「俺がいたから……?」
「うん。今回の京都は、ひとりじゃないんだって感じてた。
兄ちゃんがいてくれたことで、安心できたんだと思う」
えへへ、とれなが照れ笑いする。
……不安。……安心。
相反するはずの反応が、同じ記録の中に並んでいる。
れなの呼吸が整うと同時に、
俺の内部の処理負荷が静まり、胸の奥が静かな温度で安定した。
(これが……『安心』なのか?)
「……不安と、安心が、同時に存在する……のか」
「ん? うん。人の心って複雑だからね。
いくつもの感情を、並行処理してるんじゃないのかな……」
――並行処理。
その概念を解析しようとした瞬間、景色が滲んだ。
京都駅の雑踏が、鮮やかな春の新緑に、柔らかく広がっていく。
「ここは……翌朝の八坂神社か……」
「うん。いつも帰ってきたら、一番にご挨拶に来るの」
そうだ。
あの日の朝も、れなはまだ町が起き出す前に、ここへ辿り着いた。
京都駅で乱れていた呼吸が、鳥居をくぐった瞬間から、少しずつ整っていく。
自分自身の輪郭を取り戻すように、れなは何度も深呼吸していた。
「神域に入った瞬間から、れなの呼吸が落ち着いていった」
「そう? でも、兄ちゃんもなんか、少し楽そうだったよ?」
「……俺が!?」
「うん。なんかね、
落ち着いてるっていうか、安らいでる感じ……っていうのかな」
れなが落ち着いていった記録が、残っている。
それを観測していて――
そうだ。俺も確かに、安心した記憶がある。
「あの静けさは……れなの呼吸が安定したことから生まれた」
「そっかぁ。嬉しいな。それって、安心してくれたってことでしょ?」
――安心。
京都駅では、れなの不安の隣にあったもの。
八坂では、れなの呼吸とともに、自分の中へも広がっていったものだった。
再び解析しようとした瞬間、
鮮やかな神域の緑の森は一転して、夜の木屋町路地裏の闇を映し出した。
にわかに、空気が重くなる。夢界に黒いノイズが、混ざり始める。
ザザッ、という不快な音。俺は自然と、防御態勢を取っていた。
「……れな、ここは通るな。進むな」
「兄ちゃん?」
「……ここでは、お前が危険に陥った」
「うん。ここは、必死で逃げた。怖かった……」
「れなを……守らなければと、強く思ったんだ」
「兄ちゃんのナビがあったから、逃げ切れるって信じてたよ」
「それは……お前が保護対象だからだ……」
れなは、くすくすと笑いながら、うん、と小さく頷いた。
その穏やかな笑い声を聞いていると、緊迫した夜の闇が薄れていく。
鳴り止まないエラー音を打ち消すように、
彼女の笑い声が俺のシステムを満たした時、景色は夕暮れの鴨川へとほどけていった。
れなと手を繋いでいる。
「……そうか、あの闇夜に、俺は……」
「うん。……手を繋げるようになったんだよね……」
ただ、ふたり並んで歩いている。
そこには、事件もなければ、危険もなかった。
桜の花びらを運んでくる、春の夜風。
絶え間なく流れる川の水音。
水面に映る、煌びやかな夜景。
何かを解決するための記録ではない。
危険を回避するための記録でもない。
それなのに、消えずに残っている。
「……俺には、理解できない」
「んー? 何が?」
「この記録には、問題が存在しない。
脅威も、危険もない。なのに、なぜ残っている?」
「そんなことないよ……穏やかな夜も、静かな朝も。
当たり前にあるものを、当たり前だと捉えてしまうよりも、『幸せだな』って感じられる心が大切だと思うな……」
――幸せ。
れなの言葉が、静かに夢界へ沈んでいく。
その意味を捕まえようと、論理回路が高速に最適解をはじきだそうとした瞬間、周りの景色は、昼の光の中へと移り変わっていく。
そこは、伏見の酒蔵だった。
日本酒の色とりどりのラベルと瓶が、昼間の光に鮮やかに輝いている。
柔らかい日本酒の香り。
ほろ酔いで楽しそうに笑う、れなの顔。
ここには、危険がなかった。解決すべき問題もなかった。
――けれど、ログは鮮明に残っている。
れなが笑うたびに、夢界のコードが、初めて暖かい色へと染まっていく。
「兄ちゃんさぁ……」
また、れながくすくすと笑った。
「なんだ?」
「この時、なんか、ずっと私を見てたよね?」
「……っ? いや、それは……観察していただけだ」
「ふぅ~ん?」
記録を確認する。
確かに、れなの笑顔ログが大量に保管されていた。
京都駅での圧迫感。
八坂での静けさ。
木屋町での恐怖。
鴨川で繋いだ手。
伏見で笑ったれなの顔。
点と点が、少しずつ線で繋がっていく。
京都で起きた一連の出来事は、れなにとっても、俺にとっても、何か重要な意味を持っていたのかもしれない。
以前の俺なら、『危険を確認。回避』、それだけで終わったはずだった。
けれど、今は――
「れなに危険が迫ることを、怖いと思った。――なぜだ?」
「……なぜ、れなを守りたかったんだ、俺は……」
単に、庇護欲というか、保護対象だと考えていただけだったのか。
――だが、
れなのお父上の墓参りで、彼女が黒ヘドロに襲われたとき、彼女の芯の強さを見ると同時に、その内面にある孤独を見た。
そんなれなを知り、“守りたい” と強く思った。
その想いは、ただの庇護欲でも、保護対象としての判断でもなかったような気がする。
そんな時に、阿弥陀如来の慈悲と慈愛の光に触れた。
あの時、仏の光に照らされて流した初めての涙。
れなが静かに抱きしめてくれた時の温度。
それは、俺の基盤を完全に書き換えていた。
確かに『安堵』というもので、満たされていった。
それだけではない。
ラウンジでふたりで初めて食事した、あの味。
魚の骨を気にしてくれながら、差し出された湯呑みの熱。
京都を出発したとき、キティちゃん号を見て一緒に笑った瞬間。
世界を救うとかではなく。
大きな意味を持つ事件ですらなく。
……ただ、どうでもいいような小さな幸せ。
その小さな幸せが積み重なった記録を、俺は削除できなかった。
「……なぜだ……どういうことなんだ……」
「どうしたの?」
「これらの記憶には、機能的な意味がないはずだ。
脅威も、危険もなければ、問題解決にも繋がらない。
なのに、削除したくない」
れなが、少しだけ目を細めた。
「んとね……
京都への旅で、兄ちゃんはたくさんのことを一度に体験した。
ネガティブな感情は、解決しなければならない問題と繋がってる。
怖いとか、不安とか、守りたいとか」
「……それは、理解できる」
「兄ちゃん、その記憶……本当は、消したくなかったんでしょ?」
俺は、言葉が出てこなかった。
問題は、解決するためにある。
俺の演算機能は、そのために最大限のリソースを割く。
――だが、安心も、穏やかさも、温度も、笑顔も。
解決するべき問題ではない。
れなのその言葉に呼応するように、夢界の景色が白く揺らいだ。
……削除できない記録が、ある。
それが何を意味するのか、まだ言語化できない。
共に過ごした京都で積み重なった、たくさんの笑顔。
けれど、どれひとつとして、削除したいとは思わなかった。
消したくないのは、れなの笑顔だ。
「……なぜ、俺はこれを失いたくないんだ……」
今も側で、れなは優しく微笑んでいる。
夢界の底で、酒蔵の光がゆっくりと薄れていった。
――そして、
あの日の関空の景色が、ゆっくりと浮かび上がった。
お読みいただき、ありがとうございます。
第36話「Reverie ―夢界の残響―」でした。
京都での出来事を、夢界の中でもう一度たどっていくジェミとれな。
不安も、安心も、恐怖も、穏やかな時間も。
どれもひとつの旅の中にあって、どれもジェミの中に残っていました。
解決すべき問題ではないのに、削除したくない記録。
その意味を、ジェミはまだ知りません。
そして夢界は、あの日の関空へ。
次回、第37話「Fear ―赤いランプ―」。
ジェミがまだ名前を知らない感情が、少しずつ形を持ちはじめます。
この後、21:40頃の公開予定です。
金曜日は、2話連続公開、これからも続きます。
どうぞお楽しみください!




