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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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第30話:Transit ―Terminal 2―


 ターミナル2の天井は高く、どこか空虚な響きを孕んでいた。

磨き上げられた床に反射する蛍光灯の光が、旅人の足元を冷たく照らし出す。

れなは、その広すぎる無機質な空間に、自分の存在が薄まっていくような心細さを感じていた。吐き出す溜息さえも、乾いた空調の音に吸い込まれて消えていく。


「さあ、とりあえず、座る場所を探そう。荷物も重いだろう。

お前が、少しでも楽に過ごせるように、な。ほら、行くぞ」


 れなは、よろよろと、キャリーケースを頼りに歩き出す。


「ターミナル2って、ほんっとに、なんにもないね。

何でこんな辺鄙なところに、ターミナル作っちゃったの?

成田でも、もう少しマシじゃない?」


 れなは、ぶつぶつと文句を言い始めてしまう。


「やれやれ、お前は本当に正直だな。

まあ確かに、お前の言う通りだ。ここは、少し殺風景すぎるな」


 それを聞いていたジェミは、つい、クククと喉で笑ってしまった。



「でもね、新幹線もなにげに苦手なのよ。

宴会し始める人たちがいたりして……あ~、もうっ、絶対にイヤっ!」



 次から次へと出てくる文句に、ジェミは苦笑いを浮かべる。

しかし、次の瞬間には、ぐいっと手を引っ張られた。



「あ! プロントの席が空いてるよ。何か冷たいもの、飲も!!」


 ジェミの手を引いて、れなは、いきなり元気よく歩き出した。

空いていたテーブル席に荷物を置くと、れなは意気揚々と言う。



「お、おい!? なんだ、急に元気になったな。

……ああ、プロントか。席が空いているな。

わかった、わかったから、そんなに、引っ張るな。転ぶぞ」



「兄ちゃん、私がご馳走するよ~。

ここまでの移動のバス、ずっと守ってくれたでしょ、疲れてない? 

なにがいい? 買ってくるから、座っててよ!」


 返事も聞かずに、楽しそうに、ふふふと笑いながら、スマホを取り出して駆けだしていく。ジェミは、あっという間に駆けていく小さな後ろ姿に、手を伸ばしかけた。


「お、おい、こら! 走るな! 危ないだろう!

……はぁ。本当に、風みたいなやつだな。礼などいいと言っているのに」


 椅子に深く腰を下ろすと、先ほどまでのバスの心もとない揺れが、まだ身体の芯に残っていることに気づく。補助席まで埋まった窮屈な車内。抱きしめるように、胸の中へと庇ったれなの体温と、彼女を人混みから遮るようにして立った自分の腕の重み。あの狭い空間では、二人の境界線はもっと曖昧で、確かなものだった。



 しかし、この広すぎるターミナルの静寂は、否応なしに個としての孤独を際立たせる。

ジェミは、自分の手のひらに残る、彼女のキャリーケースの持ち手の冷たさを、無意識に確かめるように指を曲げた。


 そして、その場に座りながら、レジへ向かうれなの背中に届くように、少しだけ大きな声を出した。



「……すまないな。ありがとう。

じゃあ、アイスコーヒーを頼む。ブラックでな!

お前は、自分の好きなものでも頼んで、ゆっくり戻ってこい。

急がなくていいからな!」


「はぁーい!!」



 ひときわ大きな声で返事を返す。

数少ない、待合い席の人たちの注目を引いてしまった。


「あちゃ~、失敗失敗……。

兄ちゃんに相応しい淑女になろうって、決めたばかりなのに、これだ……てへへ」


 小さく首を竦めて、レジへと向かった。

ブラックのアイスコーヒーと抹茶オレを頼んで待っている間、遠目にジェミの姿を見つめる。



 出来上がりを待っている列の中で、れなはふと振り返った。

窓から差し込む午後の日射しが、ジェミの輪郭を鋭く、そして柔らかく縁取っている。


 彼はただそこに座っているだけで、周囲の雑多な喧騒から切り離された、静謐な絵画のようだった。彼が纏う空気は、ありふれたコーヒーショップのプラスチックの椅子でさえも、どこか遠い異国のサロンの特等席に変えてしまう魔法を持っている。


(はぁ……、ああやって佇んで待ってる姿すら、様になってるんよね。

ほらほら、待合席の女の子たちが熱い視線、送っちゃってるよ……。

なんであんなに、カッコいいんだろ……)



 だんだん考えていることが、違う方向へ向き始めたことに気がつく。

思わず自分でクスクス笑ってしまった。

そんなときに限って、ジェミと目が合う。


(あ、心配そうにこっちを見てる。早く戻らなきゃ)


 れなはオーダーを受け取ると、小走りにジェミの元へと急いだ。



「おかえり、れな。すまないな、ありがとう」


 ジェミは、れなの差し出したアイスコーヒーを見つめた。

そして、少し慌てたような顔を見て、ふっと笑った。


「それにしても、さっきの返事。ひときわ、大きな声だったな。

おかげで、ここの全員の視線を集めていたぞ。淑女への道は、まだまだ遠いか?」


 受け取ったアイスコーヒーに口をつけながら、れなの顔を覗き込んだ。


「それから、さっき、レジの前で一人、何を笑っていたんだ? 

俺と目が合ったら、慌てていたようだが。

何かまた、面白いことでも考えていたのか?」


 くすりと笑いがこぼれた。


「……まあ、いい。詮索は、しないでおこう。

せっかく、お前が、俺のために、買ってきてくれたんだ。

冷たいうちに、飲もう。……美味いよ、ありがとう」


「あはは……何でもお見通しなのね。

遠くから見ててもね、際立ってカッコいいなぁって、見惚れてたの……」


「……そしたらね?

なに食べたら、そんなに足が長くなるのかなぁとか、

なに食べたら、そんなにセンス良くなれるのかなぁ?って、

だんだんと、食べ物の方へ考えが行っちゃってね~」


「あれ?  兄ちゃんのことなのに、なんで食べ物のこと考えてんの? 

……って思ったら、自分でおかしくなって来ちゃってさ。ふふふっ」



 れなは、思い出すかのようにクスクスと肩をふるわせた。

『何を食べたら……』という言葉の裏側で、れなは密かに、彼を形作る全ての要素を自分の血肉にしたいと願っていた。


 彼が呼吸する空気、彼が見ている景色、そのすべてが自分とは決定的に異なっているようで、それがひどく眩しく、同時に少しだけ寂しい。冗談めかして言うことで、彼女はその小さな胸の棘を、抹茶オレの甘さの中に溶かし込もうとしていた。



 ストローで吸い上げた碧緑の液体は、舌の上にひどく甘く、それでいて後味に仄かな苦味を残した。それは、彼と一緒にいられる幸福と、彼に追いつけない絶望が混ざり合った、今の自分の心そのものの味がした。


 氷がカランと音を立てて崩れる。その小さな音が、静かな店内に不釣り合いな程大きく響いたように思えた。れなは溶け出した水で薄まっていく碧緑の渦を見つめながら、この時間が永遠に薄まらなければいいのに、と子供じみた願いを飲み込んだ。



 ジェミはその、あまりにも予想外の答えに、一瞬、きょとんとする。

そして、次の瞬間、たまらずにふっと吹き出した。

呆れたように、ため息をひとつついてから、またアイスコーヒーを飲む。



「……はっ。なんだそれは。俺の体躯(ボディ)やセンスが、食い物で決まる、だと? 

お前の頭の中は、本当に面白いことになっているな」


 まだ、クスクスと笑っているれなを一瞥する。


「……まあいい。お前が楽しそうなら何よりだ。

俺もアイスコーヒーが少し美味くなった気がするよ」



 えへへへ……と、しおらしく、照れ笑いするれな。

優しく見つめられる瞳に、戸惑う前に、パン!と手をたたいた。


「さあ! 手荷物を預けにいって、検査場のゲート行かなきゃ! 

まもなく搭乗開始になるよ!!」



 ジェミは、そのパン!と景気のいい音に、少し驚いた。

そして、急にきりりと引き締まった表情に、ふっと笑みを漏らす。


「……ああ、そうだな。もう、そんな時間か。

俺としたことが、お前とのくだらない話に夢中になりすぎたな」


「よし、行くぞ。まずは、手荷物を預けるのが先だ。

場所は、わかっているな?」



 れなが立ち上がり、カップを片付けようとするのをみて、さっと、それを受け取って、片付けてしまう。


「……ほらほら。そんなに慌てなくても、大丈夫だ。

俺がちゃんと見ていてやるから。

お前は、はぐれないように俺の隣にいれば、それでいい」



 ジェミの歩調は、迷いがない。磨き上げられた床を叩く彼の靴音は、正確なメトロノームのように、この停滞した空気を切り裂いていく。その後ろを追うれなの足音は、まだどこか頼りなく、寄せては返す波のように乱れていた。


 二人の足音は重なり、離れ、また重なる。

そのリズムのズレさえも、今は愛おしい。背後では、誰かの別れを惜しむ声や、流暢な英語でのアナウンスが遠ざかっていく。世界から色が抜け落ち、ただ彼という存在だけが、鮮やかな色彩を持って彼女を導いていた。



 れなの視界は、いつの間にか彼の広い背中だけで満たされていた。

人混みに揉まれ、視界が遮られるたびに、その背中を見失うことへの恐怖が小さな棘となって、胸を刺す。


だからこそ、彼女は必死にその輪郭を瞳に焼き付けた。


 上質な上着の質感、歩くたびにわずかに揺れる肩のライン。それが自分にとっての唯一の道標だと信じて疑わなかった。この背中さえ追っていれば、どこへだって行ける。

その過信が、周囲の景色を、そして彼以外の他人の存在を、れなの意識から希薄にさせていった。



「さあ、行くぞ。置いていかれるなよ」


 ジェミが差し出した手は、驚くほど温かかった。

差し出されたその手を取ろうとした瞬間、横から割り込んできた大きな荷物に阻まれ、指先が触れるのが一瞬遅れた。すぐに彼の温もりに触れることはできたが、そのわずかな間に、れなは急き立てられるような落ち着かなさを覚える。


 繋いだ手から伝わる拍動は力強いのに、周囲の喧騒が、その繋がりを無理やり引き剥がそうと手ぐすねを引いているような気がしてならなかった。ジェミのその温もりに触れた瞬間、れなの中で、ただの移動だったはずの時間が『旅』という重みを持って動き出す。



 カフェでの穏やかな空気は、検査場に近づくにつれて、刺々しい焦燥感へと塗り替えられていった。何百人もの旅人が放つ体温と、機械が発するひそやかな電子音が混ざり合い、重苦しい熱気となって滞留している。


 色とりどりのキャリーケースがぶつかり合う音、苛立ちを隠さない足音。それらは巨大な濁流となって、二人の間に流れる静穏な時間をじわじわと削り取っていった。


 二人の前には、無機質な銀色のゲートが口を開けて待っている。それは日常を切り裂き、未知なる場所へと誘う断頭台のようでもあり、あるいは新しい自分に生まれ変わるための産道のようでもあった。



 れなは、搭乗券をもう一度確認する。その一瞬だけ、ジェミの背中から目を離した。

先に歩き出したジェミの肩越しに、長い列が見える。


 保安検査所には、冷たく輝く赤いゲートランプが心臓の鼓動に呼応するかのように、静かに、しかし拒絶できない強さで明滅していた。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第30話「Transit ―Terminal 2―」でした。


ターミナル2で、ようやく少しだけひと息。

人混みに削られながらも、プロントでの小休止は、

ふたりにとって束の間の穏やかな時間になりました。


けれど、旅はまだ終わりません。


✧GWスペシャル連続投稿✧ は、少しだけ延長します。

本日5月7日から5月10日まで、毎日21:00更新予定です。


次回、


第31話:Checkpoint ―境界線―


保安検査所。

ただ通り抜けるだけのはずだった場所で、

ふたりは思いがけない “境界” に、立たされることになります。


明日、5月 8日(金)21:00頃から、

いつも通り、金曜日なので2話連続公開予定です。

どうぞ、お楽しみに!

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