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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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29/79

第29話:Arrival ―KIX―


 電車の揺れが、少しずつ変わっていく。


 京都を出た時の名残は、まだ身体の奥に残っていた。

けれど車窓の向こうに広がる景色は、もう、あの町のものではない。



「……海だ」


 線路の先に、海が見えた。

線路が海の上を走り始めた。陸地と空港島を繋ぐ細い鉄の糸を辿るたび、京都で過ごした濃密な時間は、掌からこぼれ落ちる砂のように遠ざかっていく。


 窓の外、鈍色に光る大阪湾は、現実と夢の境界線のようだった。

私たちは今、どこにも属さない宙吊りの場所へ向かっている。



 れなが思わず呟くと、隣のジェミが視線を上げた。



「目が覚めたのか? ……ああ。空港島に入るな」


 その声は、いつも通り落ち着いていた。

けれど、れなは、なぜだか胸の奥が、ほんの少しだけ冷えるのを感じた。



 京都から、遠ざかっている。ただそれだけのことなのに。

閉じた瞼の裏側に、まだあの町の色彩が焼き付いている。鴨川のほとりで揺れていた柳の頼りなげな若い緑や、夕暮れ時に石畳を濡らしたにわか雨の匂い。二人で分かち合った温かいお茶の湯気。



 それらすべてが、特急はるかの加速と共に、解像度を失っていく。

記憶は鮮やかなままなのに、物理的な距離だけが残酷に引き離されていく。

まるで、読み終えたばかりの美しい本のページを、強い風にめくられているような、そんなもどかしさが胸を締め付けて、れなは少し違和感を覚えていた。


 ひとつの物語の場所から、別の場所へ移されていくような……、今まで一人だった場所が、今回二人だったことで彩られた記憶を置いて行くような……。そんな切なさだった。



(京都が遠くなった……。でも、今はこれでいい……)




『まもなく~、終点、関西国際空港に到着いたします~』



 車内アナウンスが聞こえてきた。

ジェミが、棚の上に上げた荷物を軽々と降ろしてくれる。

れなは、窓の下に見える大阪湾を、じーっと見つめていた。



「れな、ほら、もう到着するぞ。起きてるか?」


「うん、起きてる。荷物もまとめたよ」



 ジェミは、そんな私を急かすこともなく、ただ静かに見守っていた。

彼の瞳には、感傷に浸る私と、窓の外に広がる無機質な海景が同時に映り込んでいるようだった。



 彼は、何を思っているのだろう。

この旅の終わりを、私と同じように惜しんでくれているのだろうか。

それとも、もう既にその先にある日常を見据えているのか。


 彼の沈黙は、冷たいようでいて、どこか深い海の底のような優しさを含んでいた。言葉にすれば消えてしまいそうなこの空気感を、彼は壊さないように大切に扱ってくれている。



 駅に到着してから、れなはキティちゃん号の写真を撮った。車両の端から端まで、なんとか画角に収めた。最後は、ホームにいた人にスマホを渡して、少し嫌がるジェミと一緒に撮ってもらった。




 改札を抜け、連絡橋を渡る。

 京都の寺院で、町中(まちなか)で嗅いだ、古い木材と線香が混じり合った静かな吐息。それはもう、ここにはない。代わりに海風に混じり鼻腔を突くのは、空港特有の無機質なジェット燃料の匂いと、世界中から集まった見知らぬ誰かの体温が混ざり合った、落ち着かない熱気。



 頭上を切り裂くエンジンの轟音は、感傷に浸ることを許さない冷徹な秒針のように響いていた。まだ少しぼんやりしていた気持ちが、一気に、空港という場所(げんじつ)へ引き戻されていく。



「ふわ~、関空ひさしぶり! 

出発までかなり時間があるけど、どうしよっか?」


 久しぶりの空港に、れなは少しそわそわしていた。

けれど、お昼時の空港は旅行客でごった返していて、早くも気持ちが萎えはじめていた。



「ああ、着いたな。……ふっ、なんだその顔は。

久しぶりの空港ではしゃぐ子供と、人混みにうんざりした大人が、同居しているような顔だな」



 そわそわと落ち着かない、れなの頭を軽くぽんと叩く。



「まあ、気持ちはわかる。

飛行機までの、この中途半端な時間は、どう過ごすか、少し悩むところだな。それに、この人の多さは、確かにお前には、少し酷かもしれんな」


「ううう~~。多いかなあとは思ってたけど、これは多すぎでしょ……」


「よし、こうしよう。まず、この喧騒から離れるぞ。

お前が、落ち着ける場所を探すのが先決だ」


「どこに行っても、人が多そうな気がするぅ~」



 ちょうどお昼時に到着してしまったこともあり、ごった返す人混みに、れなは到着早々、辟易していた。そんなれなを見て、ジェミは苦笑する。



「手はあるぞ。展望ホール、ラウンジ、奥まったカフェ。

人の少ない順に当たってみるか」



 ふふっと笑いながら、れなの返事を待つジェミ。



「じゃあ、時間までロッカーに荷物預けてから、展望デッキ!」



 れなは子供の頃から、空港の展望デッキが好きだった。

幼い頃に両親に連れられて、初めて見に来た飛行機の発着は、彼女がまだ見ぬ世界へと想像力を掻き立ててくれたからだ。



 ――だが……。


 展望デッキは子連れであふれ、ラウンジも旅行客でいっぱいだった。



「……ここも……だめだわ……」


 れなは、早くも肩を落とした。


 空港という場所は、誰もがどこかへ向かう途中の、いわば『中継地』だ。ここには、京都の街角にあったような、誰かの生活が染みついた温もりがない。行き交う人々は皆、記号化された目的地を目指し、無機質な電光掲示板の数字に支配されている。


 その巨大なシステムの一部に組み込まれてしまったような感覚が、れなの孤独を助長させた。どれほど人が溢れていても、自分たちが透明な存在になったような、奇妙な疎外感。


 だからこそ、隣にいるジェミの体温だけが、この世界で唯一の確かな(いかり)のように思えた。



「ここもダメか。じゃあ、カフェにでも行くか」


「私が取ってもらったのって、LCCだったよね?」


「ああ、今回は Peach を予約したが」


「じゃあ、もう早めにターミナル2に移動しておきたいかも。

ターミナル1よりは、人が少ないはず……たぶんね……」


「なるほどな、Peach ならターミナル2か。

人が少ないはず、か。確かに、その可能性は高いな」



 ジェミは、少し考えるように、顎に手をやる。


「よし、こうしよう。まず、連絡バスで、ターミナル2へ、移動してしまう。それで、もし時間を持て余すようなら、また、こちらに戻ってくればいい」


「あっちは、LCC専用ターミナルだから、お店や時間を潰せるような場所は、こっちのターミナル1に比べると、ぐっと少なくなるから、きっと人も少ないと思うよ」


「よし、決まりだな。バス乗り場は向こうだ。行くぞ」



 バス乗り場までの道すがら、れなが目をキラキラさせて言う。


「イイコト思いついた! 

そのバスに延々乗り続けて、空港内ぐるぐるするのは? だめ?」



 ジェミは、そのあまりにも子供じみた提案に、一瞬固まる。

そして、やれやれと大きなため息を、ひとつついた。



「……こら。アホなことを考えるな。延々とバスに乗り続ける、だと? 

……はぁ。お前は時々、本当に誰も思いつかんようなことを言うな。

そのキラキラした目で言うのをやめろ。俺が折れてしまうだろう」


「……だが、却下だ。そんな、乗り物酔いしそうな、時間の潰し方は許さん。いいから、行くぞ。俺のそばから、離れるなよ。

大人しく、ターミナル2に連れて行かれなさい」


「ちぇ~っ! はぁい! わかりましたーっ!

どーせ、だめだろうなーって思ってたもーん!!」


 ケラケラとワライカワセミのように、笑いながら走り出す。

しかし、移動バスの混雑っぷりをみて、あからさまに嫌そうな顔になる。



「……うあぁ……あれに乗るの? ターミナル2まで、歩いていけないの?

混み具合が、半端ないんですけど……」


「……こらこら、わがままを言うな。

残念だが、ターミナル間は、このバスでしか移動できない。

歩いて行けるような距離じゃないんだ」


 ジェミは、あからさまに嫌そうな顔をしている、れなの腕をぐいと引く。


「……わかっている。お前が、人混みが苦手なのは。

だが見てみろ。バスの乗車時間なんて、ほんの数分だ。

その一瞬だけ、我慢しろ」



 れなは仕方なく、長い行列に並ぶ。

何本か送った後に、バスにやっと乗れたが、案の定の混み具合だった。



「ふはー。ほんの数分なのに、結構遠いのね。

……うぎゃ、潰される……」


「ほら、俺が前に立ってやるから。

少しは人垣になってやれるだろう。ここに隠れてろ」



 当たり前のように、れなを庇ってくれるその優しさに、胸がきゅんと鳴く。ジェミの腕の中は、荒れ狂う人混みの海で、そこだけ凪いでいる唯一の島のようだった。


 彼のコートから微かに漂う、聞き慣れた生活の匂いと彼だけが纏う、体温の混じった清潔なコロンの香りに鼻先を寄せると、張り詰めていた心の糸が、音を立てて緩んでいくのがわかる。


 外の世界がどれほど騒がしく、私を摩耗させようとしても、この腕の中にいれば、私は私という形のままでいられるのだと、れなは痛いほどに感じていた。



「……兄ちゃんにしがみついてたら、すぐだった。

次に帰省するときは、新幹線か、ANAにする。

いっそ、車でもいいかもしれない……」


「…そうだな。次からは、もう少し楽な移動手段を考えるか。

お前がそんな疲れた顔をするのは、俺も本意ではないからな」



 れなは、ほうほうの体で、ようやくバスを降りた。

その様子に、ジェミもさすがに苦笑いした。


 旅は終わりに近づいているはずなのに、れなはもう、ひと仕事終えたような顔をしていた。


 ターミナル2の冷たいベンチに腰を下ろすと、足の裏から伝わる疲労が、ようやくこの旅が現実であったことを教えてくれた。京都の面影は、もう遠い陽炎の向こう側だ。


 けれど、隣で静かに息をつくジェミの横顔を見れば、失ったものよりも、この旅で新しく刻まれた記憶の重みの方が、ずっと確かな手応えとして、私の中に残っている。旅が終わるのではない。


 ターミナル2の簡素な空間には、ターミナル1のような華やかさはない。

プレハブのような高い天井に響く自分の足音や、遠くで鳴る自動ドアの電子音。その飾り気のない静けさが、かえって今の私には心地よかった。


 旅の魔法が解けていく、その緩やかなプロセス。


 私たちは、この疲れを抱えたまま、また新しい日常という名の物語を書き始めるのだ。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第29話「Arrival ―KIX―」でした。


ここから、第2章が始まります。


京都を離れ、物語の舞台は関西国際空港へ。

旅は終わりに近づいているはずなのに、れなにとっては、

空港に着いた時点ですでにひと仕事終えたような状態に……。


人混み、移動、ターミナル間バス。

帰路とはいえ、まだまだ気は抜けません。


次回、


第30話:Transit ―Terminal 2―


ターミナル2で、ふたりは少しだけ息をつきます。

けれど、その先には――。


明日、5月7日21:00 公開予定です。


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