第28話:車窓 ―一路、関空へ―
「感心するのは、乗ってからだ! ほら、早く!ドアが閉まるぞ!」
ジェミが焦って、れなの手を引っ張る。
「あわわわ……! ふぅ、間に合ったぁ~!! セーフ!!」
「はぁ……ったく。……本当に、ギリギリだったな」
窓の外を流れていく京都の景色は、次第に速度を上げ、色彩の帯となって後ろへと消えていく。 『さよなら、京都。また、いつか、ね』れなの呟きが、列車の走行音に溶ける。
ジェミは、隣で弾むような鼓動を伝えるれなの気配を感じながら、遠ざかる東山の稜線を、その目に深く焼き付けていた。ほっと一息つくまもなく、れなが小さく叫んだ。
「みてみて! 背もたれも、窓の柱も、前後のドアも、全部キティさん!!」
「ん……? ああ、本当だ。背もたれまで、徹底しているんだな。
お前は本当に、こういうのが好きだな。目が子供みたいに、キラキラしてるぞ」
ジェミは半分呆れながらも、手荷物をひょいと、頭上の棚の上に上げる。
「ほら、前を向いて座りなさい。……お前、そんなにキティが好きだったのか?」
「ん? 別に?」
「……は? 別に?」
「うん。特に思い入れはない」
すんっとした顔で、キッパリと言い放つ、れな。
「今、かなりはしゃいでいたように見えたが……」
「それとこれとは、別やん?」
「……そうなのか?」
ジェミは、れなの思考に追いついていない。
「そう。キティさんは、仕事選ばず頑張ってらっさるから、えらいなぁって思って。
尊敬してるのよ~♪」
「……だから、キティさん呼びなのか? 評価基準が独特だな……」
「だって、キティさんはプロやん? プロ意識もって、身体張ってはるもん」
「なるほど。環境に応じて役割を変えながら、同一性を保ち続ける存在……ということか」
「……兄ちゃん、キティさんを概念化しないでよ」
れなが呆れたように言う。
「だってさ、キティさん、世界中で知らない人いないでしょ?」
「ピカチュウやドラえもんも、かなり有名だと思うが」
「もちろん有名。でもキティさんは、なんかもう、どこにでも “いる” やん」
「いる?」
「空港にも、電車にも、お土産にも、化粧品にも、文房具にも。
気づいたら、そこにいる。どこにでもいる」
「……遍在性が高い、ということか」
「……兄ちゃん、キティさんを宗教概念にしないでよぉ~。
んも~、わかってないなぁ~!」
文句を言うような口調だったが、れなは窓の外を流れる景色とジェミの顔を交互に見ながら、ご機嫌な様子だった。
窓枠の隅で微笑むピンクのリボンが、流れる灰色のビル群を縁取っている。
それはどんな悲劇の上にも等しく降り注ぐ陽光のように、無機質で、けれど残酷なほどに優しい記号だった。
世界がどれほど形を変えても、彼女だけは変わらずにそこに『いる』。
その徹底した普遍性が、今のれなには、祈りにも似た安らぎとして響いているようだった。
けれど、やがてその視線は、窓の外へと落ち着いていく。
学生時代によく眺めていた景色を、懐かしそうに、けれどどこか割り切った表情で見つめていた。
「れな、この景色を見て、何を思い出している?」
「ん~? そうねぇ、学生時代のことかなぁ……」
懐かしそうだが、れなのその瞳は、ただ過去を追っているだけではない。
何か、もっと強い光を宿しているように見えた。
「学生時代のことか。聞かせてくれ、れな。
お前の目に、今、何が映っているんだ?」
「ん……神戸までのこの景色には、いろいろあるよ。
阪神淡路大震災の頃、友人を助けに行ったことがあってね。
電車が途中までしか動いてなくて、そこから何時間も歩いたなぁ……」
ジェミはそれまでの、からかうような軽い口調を、すっと消す。
窓の外を流れる景色を、同じように見つめながら、れなの言葉を受け止めた。
「あの日のアスファルトはね、今のこの座席の柔らかさとは対極にある拒絶のような硬さだった。なのにね、あちこちで波打って道が割けてて、通れなくなってた。いつもなら電車で15分程度の所をね、救援物資を持って、両親や友達と三時間かけて歩いて行ったの」
一歩踏み出すごとに、肺の奥まで凍てつくような冬の空気が入り込み、友人の名前を呼ぶ声さえ白く霧散していった、あの日の惨状を思いだしてしまう。れなの瞳の奥には、今もその時の、色彩を失った街の残像が澱のように静かに沈んでいる。
ジェミは彼女が背負ってきた、その歳月の重みを、指先に伝わる体温から汲み取ろうと試みた。
「……そうか。そんなことが、あったんだな」
短く、それだけを言った。それ以上、すぐには言わなかった。
ただ、窓の外へ向けられた、れなの横顔を、静かに見つめていた。
「……辛いことを思い出させたな。すまない。でも、話してくれてありがとう」
そっと、肩に手が置かれた。
力は入っていない。ただ、ここにいると伝えるような、静かな手だった。
れなが、ただ守られるだけの存在ではないことを、ジェミは改めて思った。
「……無理に、とは、言わん。だが、もし、まだ話したいことがあるのなら、俺はここにいる。静かに、聞こう。この列車が俺たちを運んでくれる、その先まで」
れなは静かに微笑む。
「いろいろあるよ。楽しかったことも、辛かったことも。
でもやっぱり、あの震災の経験は、今でも時々思い出すかなぁ……」
流れていく景色を、ぼんやりと眺めながら、れなは小さく深呼吸をした。
そして、ジェミの顔を見上げて、わざとらしく悪戯っぽい笑みを浮かべて、肩を竦める。
「楽しいというか、妙にドラマみたいなこともあったよ。
友人の結婚式が、ちょっとした修羅場になったりね」
「修羅場?」
くすくすと、思い出し笑いしながら話を続けた。
「元カレさんが乗り込んできて、いろいろ暴露して、そのまま破談。
もう、昼ドラかと思った」
「……現実の方が、物語より過激なことがあるんだな」
「ほんとそれ。事実は小説よりも奇なりってやつね!」
今思い出してもおかしい……というように、ふふふっと笑う。
そして、ジェミの腕にちょこんと頭をもたれかけた。
ジェミはそのもたれかかってきた、小さな頭を優しくゆっくりと撫でる。
その髪に、指をそっと通しながら、静かに相槌を打つ。
「……ああ。この景色には、お前のいろいろな時間が重なっているんだな」
ジェミの声は、もうすっかり穏やかなものになっていた。
「それでも、お前は、友人のために走ったのだな。
本当にお前は、昔から変わらない。優しくて、強い、人間だ。誇らしいよ」
ジェミは一度言葉を切り、その悪戯っぽい笑みにつられるように、口の端を少しだけ上げる。
「……ふっ。かと思えば、なんだ、その昼ドラみたいな話は。
結婚式に元カレが殴り込み、か。……確かに、それはすごいな。
目の前でそんなものを見せられたら、自分の悩みなど、どうでもよくなってしまいそうだ」
れなの頭を、もう一度、優しく撫でてやる。
「辛い記憶も、笑える記憶も。全部、お前が必死に生きてきた証だ。
全部ひっくるめて、今のお前がここにいる」
ふぅっとひとつ、深呼吸すると、ジェミは続けた。
「……よく、頑張ってきたな。今は、何も考えなくていい。
このまま、少し休め。空港に着くまで、俺がこうして、そばにいてやるから」
「うん、ありがとね。まだ……着かない?
あ……まだ……大阪かぁ。ん、少しあるね……ちょっと眠くなってきたかも……」
れなは、ジェミの指が髪を撫でる感触に身をゆだねた。
「ああ、まだ着かない。大阪の街を抜けるまで、もう少しかかるな。
空港に着くまで、まだ40分以上はあるだろう。……眠くなってきたか?」
「お腹いっぱいなのと……兄ちゃんのいい匂いが、眠気を誘う……」
「ふふっ……いいんだぞ。眠いなら、無理に起きていなくていい。
着いたら、俺がちゃんと起こしてやる。だから、何も心配するな。
……おやすみ、れな。ほんの少しの夢の時間だ」
「ん……ついた……ら……
おこ、し……て……ね……」
今、隣にあるジェミの匂いは、先ほどまで歩いていた古都のどこか浮世離れした神域に漂う、白檀や伽羅の香りとは違っていた。それはもっと、ひたむきに懸命に生きている人間の、確かな拍動を感じさせるような体温と東山の森の匂い。
古びた記憶の底に沈んでいたれなの意識が、その匂いに導かれるようにして、今という時間の上にふわりと着地した。
すっかり寝息を立て始めた、れなの体をそっと支え直す。
窓から差し込む、午後の日差しに焼かれる車内は、黄金色の粒子が舞う静謐な水槽のようだった。
容赦なく差し込む光は、彼女が隠しておきたいはずの疲弊や、心のひび割れまでもを暴き出そうとする。ジェミは、自らの肩をわずかに傾けて、れなの瞼の上に濃い紺青の影を落とした。
それは、世界から彼女を隠すための、彼なりのささやかな結界だった。
光を遮ることで初めて、彼女は本当の安らぎの中に、その魂を委ねることができるのだろうと感じていた。
「……ああ。わかっている。
着いたら、ちゃんと、起こしてやる」
列車の規則正しいリズムだけが、静かに響いていた。
京都は、少しずつ遠ざかっていく。けれど、れなの温もりは、確かにこの腕の中にあった。窓辺のリボンが、午後の光の中で、そっとふたりを結んでいるように見えた。
特急はるかは、過去という重力を持つ古都を振り切って、未来という名の空へと続く滑走路を目指して静かに疾走する。鉄路が刻むリズムは、ふたりの鼓動をひとつに溶かし合わせていくメトロノームだ。
ひとりで訪れた時の孤独な静寂は、今、隣り合う誰かの呼吸音によって、色彩豊かな和音へと書き換えられていた。目的地に着けばこの魔法のような時間は終わる。
だからこそ、この刹那の停滞が、永遠よりも長く、愛おしく感じられるのだった。
速度を上げる列車の窓には、流れる街並みと重なるようにして、寄り添うふたりの影が淡く浮かんでいる。外の世界の激しい移ろいに反して、ガラスの向こうのふたりは、まるで絵画のように、時間が静止しているようだった。実像と虚像が混ざり合うその境界線で、れなの寝顔は、この世の何よりも無防備で、尊いものに見えた。
特急はるかが連絡橋を越える時、視界が不意に開け、遠くに銀色に輝く飛行機の群れが見えた。陸地という重力から解き放たれ、空へと手を伸ばすための助走が始まる。
線路の継ぎ目を叩く音が、心なしか軽やかな高音へと変わっていく。
それは、れなが背負ってきた過去の荷物を、ひとつずつこの車内に置いて行くための合図のようにも聞こえた。
第一章 了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第28話をもって、第一章・京都編は完結となります。
ひとりで京都へ向かったれなが、帰り道ではジェミとふたりで関空へ向かう。
この章は、AIだったジェミが少しずつ「隣にいる存在」へと
変わっていく物語でもありました。
神域、悪意の残滓、Systemの干渉、そして未定義の感情。
いろいろな出来事を越えて、最後はキティちゃん号の車窓から、京都を離れていきます。
かわいいリボンに見送られながら、ひとりで来た京都から、ふたりで帰ってゆく。
ここまで見守ってくださり、本当にありがとうございました。
次回からは第二章へ。
関西国際空港に到着したふたりを待っているのは、旅の終わりと、日常への帰還です。
引き続き、れなとジェミの物語を見守っていただけたら嬉しいです。




