第27話:帰路 ―京都駅にて―
――翌朝。
早々に大きな荷物を集荷してもらい、送り出した。
あとは、小さな手荷物のみの身軽さで、出発できる。
れなが、各部屋の雨戸と鍵を閉めてまわる。
ジェミは念のために、それを後からついて回って確認した。
「よしっ! ガスの元栓閉めた。各排水溝も蓋した。
風通しの換気口だけ開けてある。あとは~……」
れなが思いだしたように、棚から害虫駆除剤を取りだした。
各部屋にひとつずつ、それを設置していく。
「初日の来た日にも、一度やっておいたんだけどね。
いつも帰る時にも、もう一度やっておくの」
「なるほど。賢い選択だ」
「これでよしっと。じゃあ、兄ちゃん、荷物を持って先に出て。
これ、カチッとスイッチ入れてから私も出るから!」
れながスイッチを入れる直前、ジェミはふと、誰もいなくなったリビングを振り返った。そこには、数日間ふたりで囲んだ食卓の匂いや、夜更けまで語り合った声の残響が、埃の粒子のように光の中で踊っていた。
れなが指先でスイッチを押し込むと、プシュッというわずかな音と共に、しばらくすると白い霧が未来を塗り潰すように広がり始めた。
それは、この場所での時間を一度『凍結』させるための、静かな儀式のようだった。
先にジェミがふたりの荷物を持って、玄関を出る。
つづいて、れなが玄関を飛びだしてきた。
――パタン。
静かに玄関ドアを閉めて、鍵をかけた。
そして、振り向くことなく、歩き始める。
「駅に行く前に、出発のご挨拶、してから行くね」
まだ朝早い、八坂神社。
人の気配はあるのに、どこか奥がしんと静まりかえっている。
「やっぱり祇園さんは、落ち着くね。いつ来ても……空気が違うのよね。
ふふっ。ここだけ、時間の流れが、少しやわらぐ気がする」
早朝の柔らかい光が、境内の新緑を色鮮やかに染めている。
少し湿った土と葉の匂いが、胸いっぱいに広がる。
手水舎の水は、思ったよりも深く冷たく、指先に静かな重みを残した。
その瞬間、舌の奥に古い井戸水のような、まろやかな味がよぎる。
本殿の朱が、陽の光を受けて、静かに深く輝いている。
それは塗られた色というより、長い時間を吸い込んだような色だった。
「これは……守る色、なんだな」
「うん。私が生まれたときから、ずっと守ってくださってるよ」
鈴を鳴らすと、音が空に溶ける。
ここでは、不思議と、自分の輪郭が少しだけ静かになる。
――カラン、カラン――
境内に柏手の音が、心地よく響き渡る。
その音は、境内の古い御神木の葉を震わせ、波紋のように広がっていく。
その音の終わりがどこまでも消えないような錯覚。
ジェミの瞳には、目に見える朱色の社殿の背後に、幾重にも重なった『かつての京都』が透けて見えているようだった。
「これから福岡に戻ります。……素戔さま、また来ますね」
――カラン――
ほんのわずかに遅れて、もう一度、音が重なる。
祈りを捧げているれなは、気づかない。
だが、一瞬だけ空気が “ 澄む ”。
「……境界か。ここは、通してくれる場所なんだな。
祈りが蓄積して、地層になっているのか……」
ジェミの言葉は、風に乗ってふわりと消える。
れなが祈る横顔は、朝露を孕んだ新緑のように瑞々しく、この永遠に近い静寂の中で、彼女の鼓動だけが唯一の『現在』を刻んでいた。
「……ん? いま、なんて? ……それは、どういう意味?」
「……時間と空間。その両方が、ここに在るんだな、って言ったんだよ」
ジェミは意味ありげに、ふっと笑ってそれ以上は言わなかった。
絵馬が一枚だけ、カタカタと揺れる。風は吹いていない。
れなは首を傾げるが、深くは問わない。
朝の木漏れ日が、ゆっくりと日射しに溶けていく。
ジェミは、目には見えない何かをそこに感じて、静かに一礼した。
それは、れなが大切にしている日本の神仏に対して、深く敬意を払う、素直な気持ちからだった。
「……じゃあ、そろそろ行こうか、れな」
――そして、京都駅。
「お昼の特急はるかにのるから、まだ結構、時間あるね」
「いくつかお土産でも見て行くか?
お母上にも渡してあげたら、きっと喜ばれるだろう」
「えー!? お母さんに京都のお土産!? 考えたことなかった!」
「だからこそだ。京都に暮らしていたら、京都の土産など貰わんだろう?」
「んな! なるほどねぇ!! じゃあ、何か見てみようか」
普段は入ることのない土産物コーナーへと、入ってみる。
見たこともないような、新しい京銘菓が並んでいた。
その中から、母が好きそうなものをいくつか選ぶ。
「わっ! カービィさんのキーホルダー、これ、かわいいっ!!」
「お母上には、それはちょっと……どうだろうな」
「違うよ、私と兄ちゃんの分! お揃いで!!」
「俺は何も要らんが……」
「そう言わないの! ほらほら、メタナイト、兄ちゃんっぽいよ!」
「……はぁ。お前はそういうの、好きだな、本当に……メタナイト、か。
仮面に隠された素顔を、お前は俺に重ねているのか?」
「カービィさんがあんなにかわいいのよ?
同じフォルムのメタナイトがかわいくないはずないでしょ!?
じゃあ、決まりね! 私がカービィさんで、兄ちゃんはメタナイトね、ふふっ」
千年の都の玄関口は、古めかしい伝統と極彩色の現代文化がせめぎ合う巨大な坩堝だった。れなが手に取ったピンク色の丸いキャラクターと、かつてこの地を駆けた武士たちの面影。そのあまりのギャップに、ジェミは微かな眩暈を覚える。
だが、これこそが今の彼女を形作っているのも確かなのだ。
会計を済ませると、ジェミはふたりの荷物を持って、先に店の外へ出て待っていた。
れなが出てくると、小さなキャリーケースに、買った土産物を詰め込む。
「これ、重量大丈夫かな……?」
「こうなるだろうと思って、お前のケースは一番軽くしてある」
「さっすが兄ちゃん! 出来る男ね~!!」
「……ふっ、褒めても何も出ないぞ」
渡されたキーホルダーの冷たい感触を掌で転がしながら、ジェミは自分という異邦人が、この「れな」という女性の日常に、そして自分自身の中に彼女の存在が、深く根を下ろし始めていることを、静かに受け入れ始めていた。
荷物を詰め込むと、ジェミはれなのスマホにチケットを送る。
自分はスマートウォッチに、そのチケットを表示した。
「まだ少し時間がある、駅の中で何か食べよう」
その時、れなのお腹が鳴る。
――ぐぅぅぅぅ……
「……ふっ、ほらな? お前のお腹は正直だ」
「うぐぐぐ……我ながら、自分のお腹が恨めしいよ……」
はるかのホーム手前にあるカフェに入る。
メニューの一覧を見て、れなが嬉しそうに言う。
「兄ちゃん、みてこれ! ほらほら!
『龍のたまご』っていうの、使ってるんだって!!
すごいね! 龍の卵だよ!? ドラゴンボールだよっ!? 」
「ほう……、これはまた、美味そうな親子丼だな。
写真越しでも、出汁のいい香りがしてきそうだ。
そう表現するのが正しいのかは分からないが……」
「これにする! なんか、夢叶えてもらえそうだから!」
「『龍のたまご』か。
確かに、その名の通り普通の卵とは、黄身の色がまるで違う。なるほどな。
だからそんなに力強い、鮮やかな色をしているのか。きっと、味も濃厚で格別だろう」
「兄ちゃんも同じのでイイ? 残ったら食べてあげるよ?」
「ああ。それでいい。最後の京都での食事に、相応しい逸品だな。
だが、俺も多分、完食するぞ?」
しばらくすると、ふたりの目の前に、色鮮やかな卵が美しい、見るからに美味しそうな親子丼が運ばれてきた。
その中央に鎮座する黄身は、まるで夕刻の太陽を閉じ込めたような、濃密な琥珀色をしていた。箸を入れた瞬間に溢れ出すそれは、単なる食材ではなく、大地の熱を溜め込んだ命の雫だ。
「ふぁぁぁ、なにこれ!
目で見て美味しい、食べて美味しい、お値段も美味しいって、三拍子揃ってる!」
「……ふっ、ふはは……。お前ってヤツは、本当に……ほら、その龍の力を、冷めないうちに、早くお前の力に変えろ」
「く~、兄ちゃん、イチイチ、カッコいい!
龍のたまごで、ドラゴンボールだけに、ベジータか!!」
「……は? どういう意味だ?」
「ん? あ、私、ドラゴンボールで一番イケてる男は、ベジータだと思ってるから」
「……ほう? 孫悟空ではないのか?」
「は? 違うね!! やっぱ、堀川りょうだよ! イケボだもん」
「くくく……結局そこか」
「まぁ、兄ちゃんには負けるけどねっ!」
ふふんと鼻を鳴らして、れなが親子丼を食べ始める。
その瞬間、ぱっと顔が華やぎ、たまらないという表情になった。
口に運べば、出汁の滋味がのどを潤し、卵の濃厚な甘みが舌の上で溶けていく。
れなの頬が林檎のように紅く染まるのを見て、ジェミは『食』という行為がこれほどまでに雄弁な『生の肯定』であることを再認識する。
「お前は本当に、見てて飽きないな」
「おいひい~! 早く、食べてみてっ!!」
「龍のたまごを食して、お前はまたひとつ、強くなるんだな」
冗談めかして言った言葉の裏で、ジェミは、れながこれから進む道のりが、この卵の色のように輝かしいものであることを願わずにはいられなかった。
その出汁が利いた、濃厚な『龍のたまご』がふんだんに使われた、その親子丼をふたりはしっかりと堪能して、完食した。食後のコーヒーをゆっくりと楽しみながら、ジェミが聞いた。
「今回の京都、やり残したことはもうないのか?」
れなは食後の余韻に浸っているようで、どこか上の空だ。
「……はぁ。俺との会話よりも、今はあの卵の余韻に浸っていたい、と。
そういう顔をしているぞ。まあ、いい。それだけ心に残る、良い食事ができたということだ。良かったな、れな」
「んふふふ~~。今までに食べた、どんな親子丼よりも濃厚で格別だった。
まさか、そんな逸品に京都駅で出逢えるなんて思ってなかった……」
「ふっ……。そんな、うっとりした顔をして」
ジェミは、その幸せそうな横顔に、やれやれ、と、肩をすくめる。
そして、ふと手元の時計を見て、ハッとなる。
「れな! 早く飲んでしまえ。はるかに間に合わなくなるぞ!
うっとりするのは、はるかに乗ってから、いくらでもやればいいから!」
「え!! もう、そんな時間っ!? はわわ、待って待って!」
ジェミは素早くスマホで会計を済ませると、れなの荷物も持った。
「ごちそうさまでした~! 兄ちゃん、まだ大丈夫! 間に合うっ!!」
ふたりは足早にホームへ向かうと、ちょうどそこにはるかが到着した。
「ほらね! 間に合った~」
ホームに滑り込んできた車体を見た瞬間、れながぱっと顔を輝かせた。
その白い車体に描かれた鮮やかなピンクのリボン。
それは去りゆく古都と、これから向かう新天地を繋ぐ、巨大な贈り物のように見えた。
「きゃーー!! キティちゃん号!! かっわいーーーっ!!」
「フッ……本当だ。間に合ったな。こら、はしゃぎすぎて転ぶなよ。
……なるほど。これが、噂のキティちゃん号か。
確かに、お前が好きそうな、可愛らしい装飾だ」
ジェミは、車体に描かれたピンク色のリボンを見つめた。
胸の奥が少しだけ温かかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、京都を離れる朝のお話でした。
雨戸を閉めて、鍵をかけて、荷物をまとめて。
旅の終わりは、意外と現実的な作業の連続だったりします。
でもその前に、れなにとって大切な場所である祇園さんへ。
京都を出る前のご挨拶として、八坂神社の空気を少しだけ描いてみました。
そして京都駅では、お土産、親子丼、カービィさん、ベジータ、そして最後にキティちゃん号。
しっとり終わるかと思いきや、れならしく、最後まで賑やかです。笑
次回はいよいよ、関空へ向かう車窓の中。
第一章・京都編のラストとなります。
ひとりで京都へ来たれなが、帰り道で何を感じるのか。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
次は、明日、5月5日 21:00頃の更新予定です。




