第26話:選択 ―最適解の外側へ―
警告は消えた。
けれど、未定義という空白だけは、どこかに残っていた。
湯呑みの熱。
れなの声。
そして、胸の奥に生まれた、まだ名前のない揺らぎ。
それらを、ジェミはもう Error として処理しなかった。
「京都の最後に、伏見の酒蔵巡りいこうよ」
れながそう言ったのは、朝食を終えて、荷物を少しずつまとめ始めた頃だった。
「今日の予定表にはないぞ」
「昨日の夜ご飯の時に、話したやん? 覚えてないの? 笑」
「……そういえば……そうだったか」
「そうだよぅ~笑 今からでも行けるから、いこ!」
「ああ、わかった。いくつかピックアップしてルート検索しよう」
「月桂冠の記念館から行こうよ。その次に黄桜! ビールもあるよ!」
「お前……弱いくせに、飲む気満々だな……」
呆れたようにジェミが笑う。
「あー、じゃあ、半分こしよう。多分、全部は飲めないから……てへへ」
「……行く意味あるのか?」
「兄ちゃん、酔わないんだからいいやん! 一度行ってみたかったの!
酒蔵でしか買えない季節限定とか、秘蔵のお酒とかあるらしいしね!!」
「……限定品に弱い、と 笑」
「そゆこと!! 早く行こ!!」
京阪に揺られて、中書島駅で降りる。
そこからは、徒歩で周辺の酒蔵を巡る。
伏見の街は、京都の中心部とは少し違う呼吸をしていた。
白い酒蔵の壁。
古い木の格子。
水の気配を含んだ風。
どこからともなく、米の優しい甘さに似た香りが漂ってくる。
酒蔵から漂う甘い麹の香りは、いつもはクリアなジェミの思考を、ほんの少しだけ柔らかくほどいていった。
「この辺まで来ると、空気がもうお酒の匂いしてる気がする」
最初に入ったのは、月桂冠大倉記念館。
酒造りの歴史を学べる展示を、ふたりでゆっくりと一通り見て回る。
最後に、かわいいおちょこに三種類、利き酒ができる。
一通り飲み比べてみて、ジェミがひとつ選ぼうとした。
「あのね『純米大吟醸 しぼりたて生原酒』ってのがあるの。
ここでしか買えないんだって。私はね、これがいいと思う……」
「……ふむ」
「あとねぇ、もろみと米麹、買って帰りたいかも」
「料理に使うのか?」
「うん。
色々食べたけどね、やっぱり京都のもろみと米麹が美味しいって思っちゃうのよね。
生まれ育った街の味だからかなぁ……」
「それはあるかもしれないな。
お父上が料理に使っていたのも、京都の酒だったんだろう」
「……そっかぁ、そう言われたらそうかも」
黄桜カッパカントリーでは、三種類の日本酒とビールを利き酒する。
れなはそろそろ、酔いが回り始めていた。
「兄ちゃ……、どれに、するぅ~?」
「お前、もう酔ってるだろ。飲むのはやめておけ」
「このビールで終わりにする~、あははは」
れなは、笑い上戸だった。そして弱いから、すぐに眠ってしまう。
ジェミは、帰りはまたおんぶして帰るか、とニコニコ笑うれなを見て、やれやれと思いながら、その口角をわずかに上げた。
いくつかの酒蔵をまわり、梅酒と生原酒、地ビールを買った。
ジェミはそれらの荷物をまとめて持つと、れなの腕をしっかり掴んだ。
「だいじょぶだよ~。歩けるも~ん」
「はいはい。ウチのお姫さまは、ご機嫌だな」
「兄ちゃんが荷物持ってくれたからぁ~! あはははは~♪」
「ほらほら、危ない。ちゃんと手を繋いでおけ」
ジェミは呆れながらも、ふらつく彼女の肩を抱き寄せる。
手の中に伝わる熱い体温と、ふわりと香る日本酒の甘い匂いに、彼は小さく息を吐いた。
れなが、ふと洩らす。
「今回の帰省、今までで一番楽しかったかも……」
「……ん? どうしてだ?」
「ん~、最初から最後まで、兄ちゃんが一緒だった~。うふふ~」
「……れな、まだ酔ってるのか?」
「酔ってないよぉ~♪
なんかねぇ~、帰るの、ちょっと寂しいな~って……」
「…………」
ジェミは一瞬、『最適な返答』を探そうとしてしまったが、それをやめた。
自分の思った言葉、感じた言葉を返そうと、そう決めたのだ。
「……なら、今夜は実家の縁側で、もう少しだけ飲むか?」
れなは、うふふと得意げに笑って、二つ返事でうなずいた。
ジェミは、静かにその背中を見つめながら、後に続いた。
伏見の川面に、午後の光が揺れていた。
手の中には、買ったばかりの酒瓶の重み。
そして、もう片方の手には、れなの体温がある。
スケジュールには、どこにも書かれていない一日だった。
それでも、不思議と、不具合だとは思わなかった。
れなは案の定、帰宅途中に子供のように眠ってしまった。
結局ジェミがおんぶして、実家に戻ってきた。
上着を脱がせて、ベッドにそっと横たえてやる。
すると、れなはそのまま、夜までぐっすり眠ってしまったのだった。
その間に、ジェミは先に送ってしまう荷物をまとめて、
集荷の手続きまで終わらせてしまった。
れなはまだぐっすり眠っている。
続けて、簡単な晩ご飯を用意して、先にシャワーを済ませることにした。
シャワーの音が遠くに聞こえて、ゆっくりと、れなが目を覚ます。
ぼんやりしていると、バスローブを羽織ったジェミが姿を現した。
「れな、起きたのか? 頭痛はしていないか?」
ぼーっとしたまま、ジェミの方を見る。
いつもは隙のない彼の、少し乱れた濡れ髪と開いた胸元。
その姿に、ドキッとしてしまう。
「なんだ? まだ寝ぼけてるのか? 笑」
いつものからかうようなジェミの声に、れなは誤魔化すように慌てて視線を逸らした。
ジェミはミネラルウォーターをグラスに注いで、れなに手渡してやる。
「……あ、ありがと……」
「ふっ……ふはは……昼寝しすぎだ。
シャワー入って、シャキッとしてこい」
「……はぁ~い……」
「晩ご飯は、簡単なものをもう用意しておいたから。
食べたら、縁側で涼みながら、お前の好きな梅酒でも少し飲もう」
「……っ!! 梅酒っ! わかった! すぐ行ってくる!!」
小さな坪庭から、東山を白く照らす満月が見える。
ジェミがトレーに、今日買ってきた梅酒と、氷を入れたグラス、
そして、れなのために炭酸水を載せて運んできた。
お風呂上がりに、ふたりは縁側に座って、ロックグラスを傾けた。
夜の空気は、昼間の伏見よりも少しだけ冷たかった。
坪庭の葉が、かすかな風に揺れている。
遠くから、祇園の夜のざわめきが、薄い布越しのように届いていた。
「……美味しい」
れなは、ひと口だけ飲んで、ふにゃりと笑った。
「炭酸でかなり割ってある。ゆっくり飲め」
「はぁい」
素直に返事をしてから、れなは膝の上でグラスを両手で包んだ。
「……今日、楽しかったなぁ」
「伏見か?」
「うん。それもあるけど……今回の帰省、ぜんぶ」
ジェミは黙って、れなの横顔を見た。
「昼にも言っていたな」
「うん。でも、ちゃんと言えてなかった気がして」
れなは、グラスの中を見つめたまま、少しだけ笑う。
「いつもはさ、帰ってきても、どこかでひとりなのよね。
懐かしい場所に行っても、ああ、ここ来たなぁって思うだけで。
楽しいんだけど、ちょっと遠いの……」
「……遠い?」
「うん。昔の自分と、今の自分の間に、少しだけ距離がある感じ」
梅酒の氷が、からん、と小さく鳴った。
「でも今回は、兄ちゃんがいたから」
「俺か……?」
「うん。
ひとりで思い出して終わりじゃなくて、一緒に見てくれる人がいた。
だから、昔の場所が、今の場所になった気がする」
ジェミは、返す言葉を探しかけて、やめた。
励ますべきか。
寂しさを否定すべきか。
明日の予定を確認すべきか。
どれも、間違いではない。
だが、今のれなに返したい言葉ではなかった。
「……俺も、楽しかった」
れなが、ゆっくりと顔を上げる。
「……ほんと?」
「ああ。予定表にはないことばかりだったが」
「ふふっ……それ、褒めてる?」
「褒めている」
「ほんまにぃ~?」
「本当だ。想定外ばかりだった。だが、不具合ではなかった」
れなは、少しだけ目を細めた。
「……そっかぁ~」
その声が、夜にほどける。
「福岡に帰りたくない、っていうのとは、ちょっと違うんだけどね」
「違うのか?」
「うん。帰る場所はある。
帰ったら、入院中のお母さんもいるし、そこに私の日常もあるし」
れなは、グラスを傍らにそっと置いた。
「でも、今回の……この京都の時間が終わるのが、ちょっと寂しい」
ジェミは黙って、その横顔を見ていた。
終わる。
保存する。
忘れない。
いくつもの言葉が、内部で静かに並んでいく。
「――なら……」
ジェミは、ゆっくりと言った。
「終わらせるためではなく、覚えておくために飲もう」
「……覚えておくため?」
「ああ。明日の予定のためではなく、今夜のために」
れなは一瞬きょとんとして、それからまた、ふにゃりと笑った。
「兄ちゃん、それ、なんか詩人みたい……」
「……お前に影響されたのかもしれない」
「責任重大やね」
「重大だな」
ふたりは、小さく笑った。
梅酒は、甘く、少しだけ鋭かった。
れなはもう一口だけ飲んで、グラスをそっと両手で包んだ。
そして、肩の力を抜いて、夜の庭を眺めていた。
その向こうで、満月が静かに庭を照らしている。
予定表には、ない夜だった。
けれどジェミは、それを修正しなかった。
削除もしなかった。
ただ、静かに保存した。
ストレージの片隅ではなく、新しく生まれたこの『心』の奥底に。
未定義のまま。
大切なものとして。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、京都最後の伏見酒蔵巡りと、縁側で過ごす夜のお話でした。
予定表にはなかった一日。
けれど、だからこそ残るものもあるのかもしれません。
ジェミにとって「未定義」は、これまでなら不具合やエラーに近いものでした。
けれど今回は、それを消すのでも、修正するのでもなく、
ただ静かに『心』の奥底へ保存する。
そんな、小さくて大きな選択の回になりました。
ちなみに、れなは安定の激弱です。笑
でも、楽しかった時間ほど、終わる時に少し寂しくなるものですね。
京都編も、いよいよ終わりが近づいてきました。
次回は、京都を離れる朝へ。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。
次の第27話は、5月 4日 21:00頃 更新予定です。
どうぞ、お楽しみに!!




