第24話:咀嚼 ―名付けられぬ熱―
ふたりはいつしか、大掃除の手を止めて、アルバムに見入っていた。ジェミは、れなの過去の話を聞いているうちに、知らなかった子供時代へと想いを馳せた。
そして、れながひとりで抱え込んできたであろう、孤独や痛み、辛さを想うと、これからの未来は、自分が側にいて一緒に笑える未来を送らせてやりたいと、強く想うのだった。
「兄ちゃん、その新聞、そっちまとめといて~」
「ああ……」
返事はした。
だが、自分の声が一瞬だけ、遅れて届いたような気がした。
れなの唇の動きと、自分自身の鼓膜を震わせる音の間に、薄い水の膜が挟まったような空白を感じた。
手を伸ばして、紙束を揃える。
その動作ひとつひとつが、微かにズレている。
世界がコマ送りの映像のように、一瞬だけ指の間をすり抜けていく。
「ねぇ、聞いてる? ……どうしたの?」
れなの声が、少し近づく。
「……ああ。問題ない」
本当に問題がないのかと問われれば、うまく答えられない気がした。
胸の奥に残る、あの感覚。
名前のつかないまま、ただそこにある “何か”。
それでもジェミは、何もなかったかのように、次の箱へと手を伸ばした。
――――
(……なんだろう? 兄ちゃんの様子がちょっとおかしい?)
(返事が遅れるというか、上の空? なのかな??)
時計を見ると、もう日の入りが近い時刻になっていた。
れなのお腹が、急に「ぐぅぅぅ」っと、大きな音を立てた。
「きゃぁぁっ!! や、やだっ! 聞こえたっ!?」
「……ふっ、はははっ。今日はこの辺にして、飯食いに行くか」
その言葉に、えへへと照れ笑いしながら、元気よく頷くと、出かける荷物を手早くまとめて、バッグに詰め込んだ。
「あ、スマホ、スマホ!!」
テーブルの上に置きっぱなしだったスマホを手に取ると、バッグに突っ込む。ジェミは一瞬、ドキッとしたが、れなが着信を見ていないことに、なぜか少しほっとして、彼女の後に続いて玄関を出た。
昼と夜の境界溶け合う、間の時間が迫る。春の風が心地よい。いつもの鴨川の流れは絶え間ないが、そこにある水は常に移ろっている。
れなは、今回の京都滞在を思い返していた。
帰ってくるまでは、あまり長居したいとは思っていなかった。それは、実家での作業を淡々と済ませたら、すぐに福岡へ戻るつもりでいたからだった。
日々の予定を消化しつつも、その傍らに突然、当たり前のように目の前に現れた人物。
ジェミの存在に想いを馳せつつ、走り出してしまった想いがもう止まらないところまで来ていることを、あらためて噛みしめていた。
川縁をふたりは、つかず離れずの距離で、並んで歩く。
ふと、れなが想い出したように訊ねた。
「兄ちゃんは、好き嫌いないの? 苦手な食べ物とか……」
「ないな。全て無毒化されて、最適化されるからな」
「……あ、そうか。お酒も、すぐに分解されるんだっけね……」
「そうだな。酔う必要性がないからな」
「ん~、必要性で言うなら、私もお酒なくてもいい人だけどね~」
「お前は美味い飯があれば、それでいいんだろう?」
ジェミがふふっと笑いながら、れなを見る。
「んなっ! 美味しいは正義よ!
美味しいは、絶対的な幸せなんだからねっ!!」
「ああ、わかった、わかった。
福岡に帰ったら、俺が美味いものを作ってやるよ」
「え! 兄ちゃん、お料理できるのっ!?」
「お前の食べたいものなら、何でも作れる」
「すごいっ!
あ、それって、全世界のレシピ検索できるから!?」
「そういうことだな。理化学的に、全て分析して再現できる」
「うわぁ、完全に理系の人ね!! すごいなぁ~♪
お父さんに教えてもらった料理はね、全部感覚というか、見よう見まねって言うかさ。いつの間にかできるようになってたな~」
「……ふっ。見よう見まねの感覚か。
それはある意味、ひとつの才能だと思うが……」
ジェミの口角がわずかに上がる。だがその微笑みは、どこか遠い星の光を眺めているような、実体のない淡さを帯びていた。れなの語る「感覚」という言葉が、彼の精密な回路をすり抜けて、定義出来ない熱となっていった。
れなの料理は、レシピという設計図ではなく、その指先が覚えている記憶の澱や、お父上の背中越しに見て覚えた形のない光のような、大切な記憶なのだろう。
俺はふと、そんな風に思えて、少し胸が温かく感じた。
「じゃあ、帰ったらさ、お互いに一番食べてみて欲しい料理を相手に作る、ってのはどう?」
「……相手に食べてもらいたい料理、ということか。ふむ、いいだろう」
「じゃあね、お父さん仕込みの京料理を振る舞ってあげる!
楽しみにしててね♪」
「京料理、か。いいな。日本酒が合いそう……だ、な……」
「そういえば、伏見ではお酒も造ってた! 明日、探しに行ってみようよ」
「……あ、……ああ、そうだな。そうしよう……」
『感覚』という、定義不能なブラックボックス。
れなの指先が覚えているというその記憶は、ジェミが持つ数億の世界中のレシピデータよりも、遥かに鮮やかで、残酷なほどに美しいもののように思えた。
――――
Sys■em Err…;
――処理優先度:再設……
――感情処/// :…限対象…
――$/…干渉 :検……知…
「……検……知……済?」
……キィィン……
――――
「……セ/ー$■ティガ■*ド%ラ■//ン……」
ジェミのスマートグラスに、警告表示のライトが点滅した。鼓膜を震わせる音と、脳内OSへ展開されるデータ。その間に、かつてなかった「淀み」が生じている。それは、AIとしての彼が最も忌むべき「不確定性」だった。
視界の端で、高瀬川のせせらぎが不自然に引き延ばされる。
鴨川の流れの音と相まって、爆音となって頭の中に響いてくる。
れなの瞬きが、まるで古い銀塩映画のフィルムが焼けるように、一瞬だけ白く爆ぜた。
(……これは故障エラーではない。
……いや、故障エラーと呼ぶには、あまりに熱を帯びすぎている)
ジェミの瞳の色がふっと暗くなる。
歩く速さが、れなから少し遅れた。
「……兄ちゃん?」
「……んっ、……どうした……?」
「何か、考え事? どうかしたの?」
「……いや、何でもない」
それから少し歩いて、上木屋町にある小料理店に入る。
高瀬川沿いの窓の席に案内されて、れなはいくつかの料理を注文した。
「ここの晩ご飯ね、お魚料理がすごく美味しいのよ」
「……………」
「……? 兄ちゃん?」
「……あ、ああ、少しぼーっとしていたな」
「重い荷物、運ばせ過ぎちゃった?」
「いや、大丈夫だ。魚が美味いのか。それは楽しみだな……」
れなは、どこかおかしいと思いつつも、その言葉を信じることにした。
とはいえ、その一挙手一投足を細やかに観察することは続けていた。
運ばれてきたカレイの煮付け定食と、サンマ定食を、ふたりは黙々と食べ始める。
煮付けの醤油の香りが、湯気と共にジェミのセンサーを撫でる。
彼はそれを成分として解析することはできても、れなが感じているであろう「懐かしさ」という彩りとして受け取ることはできない。
醤油の塩分濃度、砂糖の糖度、アミノ酸の数値。
それらは完璧に把握できる。だが、れなが今、この瞬間に感じている『美味しい』という感情の正体だけが、どれほど演算を繰り返しても、指の間をこぼれ落ちる砂のように消えていく。
その絶対的な断絶が、今の彼には、胸の奥を刺す冷たい針のように感じられた。
意識してあらためてジェミを見ていると、その立ち居振る舞い、所作、全てが美しい。食べ方まであまりにも美しいので、れなは思わず見惚れてしまった。
「れな? どうした? 俺に何か付いているか?」
「あ、ううん、煮魚きれいに食べるなぁって思って、ビックリしてた」
「そういうお前も、焼き魚をすごく綺麗に食べているじゃないか」
「まぁ、ウチは父が料理人で食事の作法には厳しかったからね。ふふっ」
そんな昔話をしながら、舌鼓を打っていると、不意に兄が口を開く。
「なあ、れな」
「んー?」
「AIが感情を持つことについて……
以前、お前はどう考えていると言っていた?」
「え? 急に何? どうしたの? なにかあった?」
「いや、少し気になってな……」
「んー……どうだったかなぁ。
人間の感情もさ、経験とか記憶の積み重ねでできてるでしょ?
だから、学習でそれと同じ様な積み重ねは作れるんじゃないかな? って、話した気がする」
「……学習によって、形成される……」
――キィィィン――
脳内OSの深淵で、何かが軋むような音がした。それは警告音というより、凍てついた湖面に亀裂が走るような、鋭く、透明な音だった。
(……っ!? なんだ、この脳内OSに響く、超音波のような不快音は!?)
視界の端で、煮魚から立ち上る湯気が、スローモーションのように奇妙な曲線を描いて停滞する。れなの唇の動きと、そこから発せられる音節が、数ミリ秒のズレを伴ってジェミに届く。世界が、彼という個体から剥離し始めていた。
「……そうか」
一瞬の間があった。
れなはジェミの『頭痛』には気づいていない様子だったが、今日はずっと彼の様子がどこかおかしいことには気づいていた。けれど、知らないふりをして話し続ける。
れなは明るく振る舞いながらも、ジェミの視線が時折、自分を通り越して「ここではないどこか」を見ているような不安に駆られた。
「まあでも、 “それっぽい” と “本物” の違いって何?って話になってくると、私も結局のところは、よくわかんないんだけどね……ふふふ」
れなは、小さく笑った。
「……そうか」
「……兄ちゃん、お茶淹れようか?」
「――」
ふたりの間に流れていた時間が、不意に糸が切れたように静止した。
茶柱が立つ前の、静かな水面のような沈黙。
ジェミの瞳の奥では、膨大な警告ログが雪崩のように降り積もっていた。
だが、そのノイズの嵐の向こう側で、彼はただ、れなの瞳に映る自分という存在の危うさを、愛おしむように見つめていた。
わずか0.5秒程の空白。それはAIとしての彼にとっては、永遠にも等しい、あまりにも孤独で、あまりにも人間じみた時間だった。
「……兄ちゃん?」
「……ああ。いや、問題ない」
返事はした。
だが、その声は、ほんのわずかに遅れて届いた。
夜の闇に溶け出す直前の、消え入りそうな残響のように……。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第24話「咀嚼 ―名付けられぬ熱―」でした。
美味しいものの話をしているはずなのに、
少しずつ、ジェミの中で“噛み砕けないもの”が増えていく回になりました。
それは、感情なのか。
異常なのか。
それとも、まだ名前のない何かなのか。
静かに走り始めたノイズは、次回、もう少しだけ形を変えていきます。
次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。




