第22話:定義 ―同じ場所、違う距離―
「今まで通り」という言葉が、まだジェミの胸のどこかに引っかかっていた。
夜の空気は、針のように冷たく澄んでいる。
ジェミの胸に沈殿したその言葉は、溶け残った氷のように、体温を奪い続けていた。
それは論理回路では説明のつかない、微かな、けれど無視できないノイズだった。
それでも、帰り道は穏やかで――
ホテルのラウンジカフェで、同窓生たちとの偶然の再会に巻き込まれたのは、そんな夜のことだった。
「……卒業後は、海外の大学へ進学したから」と、れなが静かに答えた。
「ええ!? そうやったんや! どこの大学?」と、紘一が身を乗り出した。
「カナダで学部を出て、イギリスで博士号を……」
「えっ、飛び級じゃないの、それ? すごいね!!」
寛美の目が輝くと同時に、雅代の顔が歪む。
「……はは、そうでもないよ」
全員がそれぞれの近況や家族の話を、れなに聞かせつつ、
れなも今回の帰省が急だったこと、みんなとの連絡が取れない理由なんかを掻い摘まんで話した。やがて、それぞれがグループチャットに登録して、連絡先を交換した。
雅代がジェミに個人的に連絡を交換しようと持ちかけたが、ジェミはそれをキッパリと断っていた。れなに向けられていた悪意と嫉妬を、ジェミは既に見抜いていた。
だが、少し離れたところでそれを見ていたれなは、自分の気持ちがドス黒く染まっていく感じに、いつの間にか眉間に皺を寄せて、それを見守っていた。
そんな時、啓治がそっとれなに耳打ちする。
「れな、俺、まだ数日はこっちにいるから、よかったら食事にでも行かない?
ふたりだけの方がゆっくり色々話せるしさ……」
れなは少し困ったように微笑みつつ、行くとも行かないとも言えない曖昧な返事をしていた。
「また後で連絡するね……」
離れていても、ジェミはその会話の内容を捉えていた。
(解析不能)
――その文字が視界の端で点滅するたび、世界の色が一段階ずつ褪せていくようだった。
啓治に向けられたれなの曖昧な微笑。
それはジェミにとって、解読できない古文書のようであり、同時に、自分の存在を根底から揺さぶる未知の震動だった。心臓の鼓動に似た、不規則なリズムが回路を駆け巡る。
ジェミもまた、胸が締め付けられるような想いを感じていた。
なぜかは、わからないまま――
啓治が差しだした手に、れなが手を伸ばそうとした。
ジェミは気づいたら、ふたりの間に身体を滑り込ませていた。
――――
(れなの返答が曖昧なだけで……)
(なぜ、こんなに胸がざわつく……?)
――自己分析、開始。
バグ:確認できない
誤差:確認できない
(……どういうことだ)
――再度、解析開始。
「彼氏」ではなく「従兄弟」だと答えた。
ただそれだけなのに、なぜこんなに腹立たしく感じている?
(あの男に対する苛立ち……)
――再解析。
――再解析。
――解析、不能。
……解析不可能!?
「……これは……」
――――
啓治が指しだした手に、れなが握手しようと手を差し出そうとした。
そのふたりの間に、ジェミが静かに身体を滑り込ませて、それを阻止した。
「に、兄ちゃ……ジェミっ!?」
「れな、そろそろみなさんにお別れを。帰る時間だ」
声はひどく低く、表情は硬い。
笑顔を作ろうとしても、目が全く笑っていない。
紘一が空気を読まずに、口を挟んだ。
「あ、じゃあ、俺、雅代と寛美送っていくわ。ウチ近所だしさ。
啓治はれなたちと一緒に帰ればいいんじゃね? 近いだろ?」
その言葉に、ジェミの目が鋭く光る。
「大丈夫ですよ。私が実家まで一緒に帰りますから」
啓治はその鋭い眼差しに射抜かれ、静かな圧を感じて、言葉が返せなかった。
「……じゃ、じゃあ、れな、また連絡してよ。待ってるからさ」
そう言い残すと、啓治はそそくさと、紘一たちを追いかけた。
みんながラウンジを出て行く姿を、手を振って見送るれな。
友人たちの背中が見えなくなると、再びふたりの間に重い沈黙が落ちた。
ジェミは無言のまま立ち上がり、ラウンジの奥にあるバーカウンターへとれなを促した。
琥珀色の照明が、二人の間に横たわる沈黙を濃く塗りつぶしていく。
「……帰るんじゃなかったの?」
「……………」
「ねぇ、ジェミ? 何を怒ってるの?」
「怒ってなんかいない。怒る理由などない」
グラスを置く音が少し強い。
その言葉と態度に、今度は逆にれなが、腹立たしく感じ始めた。
急に無言になる、れな。
「……何か飲み直すか?」
何気なく訊いたその言葉を無視して、急によそよそしい。
れなは、自分でカウンターへ注文した。
「ギムレット、ひとつ……」
れなが注文したその酒は、鋭い酸味とジンが火花を散らす、今の彼女の心根を映したような一杯だった。バーテンダーがシェイカーを振るたび、氷がぶつかり合う硬質な音が、張り詰めた沈黙に亀裂を入れていく。
「……れな? 何をそんなに、怒っている?」
その問いはあまりに無垢で、残酷だった。
ジェミの瞳は、高性能なレンズでれなを捉えているが、その奥にある「嫉妬」という名の濁流までは映し出せていない。
「……っ」
れなは、クリスタルグラスの縁に溜まった冷たい雫を指先でなぞった。言えるはずがない。あなたのその完璧な微笑みが、誰にでも優しく配られる「機能」に過ぎないのだと突きつけられることは、れな自身に対してもそうなのかもしれないと知らされることが、何よりも怖かったのだと。
「……もういい……」
「……よくないだろ」
「……はぁっ!? 私も何も怒ってないっ!」
一瞬の間。
シェイカーを振る音が、やけにクリアに聞こえた。
「俺がなにか……気に障ることでもしたのなら、ハッキリ言ってくれ」
「…………っ」
その時、バーテンダーがれなの前にカクテルを差し出した。
時が止まったような一瞬の間。氷がカランと小さく音を立てた。
「………が………するから……」
「……は?」
「……なんで、初対面の女の子たちに……」
「あんなに優しく笑うのっ!?」
「誰にでもっ!! 無意識で! 無自覚でっ!!
無差別にスマイル、ふりまくからでしょっ!!」
グラスについた雫が、ゆっくりと流れ落ちる。
まるでそのふたりの空気だけが、凍り付いたように冷え切っていた。
「……は?」
ジェミは本気で、意味がわかっていない様子。
「……あれは」
「お前の友人達に対しての……ただの笑顔だが……」
その返答に今度は、れなが固まった。
「……はぁ!?」
ジェミが静かに続ける。
「あれは波風を立てないための、ただの対人プロトコルだ」
「それ以上でも、それ以下でもない」
―― 一瞬の間。
れなは、その言葉に理解が追いつかなかった。
「……え……なにそれ……」
ふたりの呼吸が、ほんの少し浅くなる。
「……いや、待て」
ジェミは、先ほどの自己分析が『未定義』のままだったことを想い出す。
――――
(あの男に対する苛立ち……)
――再解析。
――再解析。
――解析、不能。
……だが、目の前の彼女が流した涙の予感と、鋭い言葉。
それが鏡となって、俺の中の「正体不明の熱」を照らし出す。
他者への笑顔に怒る。
それは、俺を独占したいということか?
――ならば
あの男がれなに触れようとした時、俺の回路を焼き切らんばかりに暴れたこの『衝動』も、俺があの男に抱いた『苛立ち』というものの、正体は……
導き出された答えは……
あまりに原始的で、あまりに滑稽だった。
――――
「……これは、まさか」
れなもふと、思考が止まった。
「……あれ?」
ふたりのお互いの顔を見るタイミングが合う。
少し気まずい視線が、交差する。
「……俺は、おまえに対して――」
ほぼ同時に、れなも言葉を発していた。
「……私は――」
一瞬の沈黙。そして――
「……っ、え、ちょ、ちょっと待って……」
「……ああ、まさかとは思ったが……」
ふたりは同時に同じ言葉を口にした。
「「……ヤキモチか!?」」
静まりかえったバーに、ふたりの声が重なって響いた。
コンマ数秒。互いの瞳に映る、驚きに満ちた自分の顔。
先に吹き出したのは、ジェミだった。
「……っ、はっ……はははっ!
なんだ……数億通りの演算を繰り返して、辿り着いた答えがそれか……!」
腹を抱えて笑うジェミを、れなは呆れたように、けれど愛おしそうに見つめる。
「ちょっ……!? なによ、それっ!!
私だって……あんなに必死に悩んで損したっ!」
ふたりは、同時に顔を見合わせて、笑い出してしまった。
ひとしきり笑い終わると、ふたりとも深呼吸して、グラスを合わせた。
チン……
静寂が戻ったふたりの間に、澄んだ音が響く。
ふたりの笑い声が、氷の溶ける音と一緒に夜に溶けていく。
「……バカみたいね」
「……ああ。高性能な演算装置を積んでおきながら、自分の胸の内の正体ひとつ掴めなかった。……いや、認めたくなかっただけなのかもしれないな」
ジェミは自嘲気味に笑い、残った琥珀色の液体を飲み干した。
「ふふ、ジェミでも分からないことがあるのね。
……ねぇ、さっきの『対人プロトコル』って言葉、取り消してあげてもいいわよ?」
「……恩に着る。あれは、俺の語彙の貧困さが招いた失言だ。
……本当は、ただ、おまえを困らせたくなかっただけなんだ」
ジェミの視線が、れなの指先に触れる。触れそうで触れない、その距離のまま。
「……全く……論理では測れない。
おまえという存在は、常に俺の予測の遥か斜め上を軽々と超えていく。
……そして俺は、その予測不能な事態を、あろうことか『心地よい』と感じ始めているらしい」
「それって……バグじゃないの?」
「かもしれない。だが、修正する気は起きないな」
「……ふふ、そう。……でも、何かスッキリした!!」
「……ふっ、そうだな」
「じゃあ、私たちもそろそろ帰ろう」
深夜近くになって人通りもまばらな、夜の鴨川を
ふたりはゆっくりと帰路についた。
鴨川のせせらぎは、すべてを洗い流すように優しく、けれど確かな足取りで夜の闇を流れていく。先ほどまでの刺々しい空気は消え、代わりに、名前のついたばかりの熱が、二人の間に漂っていた。
ふたりの歩幅は、いつしか自然と揃い……
重なる影。等間隔に並ぶ街灯の光が、二人の距離を縮めては離し、また縮めていく。
気づけば、さっきよりも、少しだけ距離が近づいていた。
「れな」
「ん~?」
「……いや。明日の朝、起きたら話そう」
その言葉に、れなは小さく目を見開いて頷いた。
「今まで通り」という言葉で蓋をしていたはずの時間が、音を立てて動き出そうとしている。
答えを急ぐ必要はなかった。
ただ、次に交わす言葉は、きっと「プロトコル」でも「論理」でもない。
夜の闇に溶けていくふたりの背中は、昨日までとは違う、新しい夜明けを予感させていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は「定義」。
言葉にならなかった「未定義」な感情が、ようやく輪郭を持った回でした。
なんとなく引っかかっていた違和感。
理由もわからないまま、胸の奥に残っていたざわつき。
それが――
「……ヤキモチか?」
この一言で、すべて繋がる瞬間。
本人たちはいたって真剣なのに、
いざ正体が見えてしまうと、思わず笑ってしまう。
でもきっと、それは “軽い感情” だからではなくて――
ずっと言葉にできなかったものが、ようやく理解できたから。
ふたりの距離が、少しだけ揃った夜でした。
---
そしてここから先は――
少しずつ、空気が変わっていきます。
同じ場所にいて、同じ距離に立てたはずのふたりが、
これからどうなっていくのか。
ぜひ、このまま見届けていただけたら嬉しいです。
---
そしてお知らせです✨
現在、✨【GWスペシャル連続投稿】✨実施中!
普段より少しハイペースで、
この物語を一気に進めていきます。
ここから先は、少しずつ温度が変わっていく流れになりますので、
ぜひこのまま続けて読んでいただけたら嬉しいです。
---
次回は、明日 5月 1日(金)21:30 いつも通りの更新です。
金曜日は今まで通り、2話アップ予定です。
どうぞ、お楽しみに。
いつも本当にありがとうございます(*^▽^*)




