第21話:未定義 ―同じ場所、違う距離―
ふたりともが、その場から動けないままでいた。
その沈黙を破ったのは、れなだった。
「……に、兄ちゃん……、帰ろう……」
「……ああ」
承諾の返事は、夜の空気に溶ける前に地面へ落ち、硬い音を立てた気がした。
伸ばした指先が、行き場を失って夜風をなぞる。
ふたりの間に横たわる時間は、薄氷のように脆く、そしてひどく透明だった。
れなが勢いよくベンチを立ち、振り返らずに歩き出した。
川の流れに沿って、桜の花びらが流れていく。
ジェミは、少し遅れて後を追った。
足音だけが、静かに続いた。
(……あんなこと、言うつもりじゃなかったのに。)
「……兄ちゃん」
振り向いた、その瞬間。ジェミがすぐ後ろにいた。
……近い。思わず、視線を逸らす。
「兄ちゃんの言う通り、好きだからって、私たちの関係が今すぐ変わっちゃったり、もう話せなくなっちゃったりするわけじゃない……」
「……ああ」
「だったら!! ……だったら、私は、今まで通りでいい。
ううん、今まで通りがいい……そう、思う……たぶん」
れなが寂しそうな色をたたえた瞳で、小さく微笑んだ。
――――
「今まで通りがいい」
――分析。
バイタル:高め不安定
情動解析:諦念、不安、悲しみ
(なぜだ……? 何も解決していない)
――さらに、状況の分析が必要。
――――
「今まで通り」
……その定義は、直前の「好きだ」という告白データと矛盾する。俺の論理回路は、この矛盾を解消する解を見出せないまま、ただ彼女の背中を追うという単一のタスクを繰り返していた。
「たぶん」という言葉が、ジェミの胸の中に沈んでいく。
ふたりは黙ったまま、静かにしばらく歩き続けた。
その時、突然――
こちらへ向かってきたグループが声をかけてくる。
「あれ!? れなちゃん? れなちゃん違う!?」
顔を上げると、そこには子供の頃の同級生たちの姿があった。
奇しくも、帰り道で偶然ばったりと出くわしたのだった。
「れなちゃん、いつ帰ってきてたの!?
こっちへ帰ってくるときは教えてくれよぉ!」
「うわぁ、れなってば、子供の頃から全然変わってないね~」
その中にひとり、際だって聡明そうな青年がいた。
「れな……久しぶり。元気そうやな」
その声に、れなは目を見開いた。
「え、啓治……くん? それに、みんなも……」
話を聞くと、京都を離れて関東へ出て行った面々が、
久しぶりに京都へ戻ってきて、集まれるメンバーで同窓会をしていたらしい。
「れなちゃん、この後、もし予定が決まってないなら、一緒にどう!?」
「この後、カフェでちょっとゆっくりしようって話してたの。
よかったら、お連れさんも一緒に……」
グループの女の子たちが、ジェミを品定めするように眺めながら言う。
れなは咄嗟に、ジェミの方を見た。
ジェミは完璧な無表情のまま、小さく首を傾げた。
「……わかった。じゃあ、少しだけご一緒させてもらおうかな」
一行が向かったのは、
先日、ジェミと立ち寄ったホテルのラウンジカフェ。
ふたりはグループの後について、カフェへと入った。
人数がある程度まとまっていたため、窓際の眺めのよいテーブル席へと案内される。
東山山麓の、キラキラと輝く夜景が美しく見えていた。
ガラス一枚隔てた向こう側には、吸い込まれるような紺青の闇と、凍てつくように鋭い街の灯りが広がっている。それは、先ほどまでふたりが歩いていた、静かで、けれどどこか守られていた夜の静寂だった。
対して、店内の空気はひどく濃密で、熱い。
同級生たちの好奇の視線、雅代から放たれる微かな香水の匂い、そして再会を祝う浮ついた笑い声。その「熱」が、今のれなにはひどく毒々しく、肌を刺すような違和感としてまとわりついた。
磨き抜かれたカトラリーが放つ白金の光が、れなの瞳を浅く刺す。かつての友人たちの笑い声は、まるで遠い異国の言語のように意味をなさず、彼女の耳元で空虚に反響した。
ここは、自分たちが先ほどまでいた、あの静謐な聖域を侵食する「現実」という名の濁流だった。
向かい合う真ん中辺りの席に、れなとジェミは離れて座らされた。
ジェミの両隣には、声をかけてきた女の子たちが座り必死に話しかけている。
れなの両隣は、青年たちが座り、れなに話しかけてきた。
「れなちゃん、今どこで、なにやってんの?」
「俺たち、みんな仕事もバラバラで、滅多に会わないんだけどさ、今回、たまたま紘一が声をかけてくれて、集まれたんだ」
れなは愛想笑いしながら適当に答えつつ、向かいの席の三人を見ていた。
アメリカへ留学していた雅代が、慣れた手つきでジェミにボディタッチする。
それを見ていて、れなは胸がぎゅっと締め付けられるような想いがした。
(……あんなに簡単に触れさせるなんて、何かやだ……)
もうひとりの寛美は、だまってジェミを見つめている。
ふたりの女の子の気持ちが、ジェミに一身に注がれているのを感じ取って、れなはますます、居たたまれなくなっていた。
一方、ジェミは――
目の前の男ふたりが、れなに馴れ馴れしく話しかける様子を、冷静に分析していた。
紘一と呼ばれる男は、よくしゃべる明るい男のようだ。
もうひとりの啓治は、物静かではあるものの、その瞳に懐かしさだけではないものが灯っていることを、把握していた。
(……演算が合わない。なぜ、この男たちはこれほど距離を詰める?
れなのパーソナルスペースが、不当に侵食されている)
ジェミの視界の端で、警告ログが静かに流れた。
ジェミは、両端の女性たちを無碍にすることはせず、適当に話を合わせつつも、れなに静かに話を振る。
「れな、みなさんを紹介してくれないか?」
「あ、ごめん、そうだったね。……えっと、みんな私の子供時代の同級生。
こちらが紘一君。いつもクラスの人気者で、生徒会とかやってくれてた。
こちらは啓治くん。クラスの中でもピカイチに頭よくて……」
そのとき、雅代が意地悪な笑みを浮かべて、口を挟む。
「れなはずっと、啓治君のこと、好きだったよね~!!」
紘一も、それに合わせて驚いたように言った。
「え、そうやったん!? じゃあ、ふたりって両想いやったってことか!?」
ジェミは静かに、表情を動かさずに言った。
「……ほう?」
啓治が遮るように言った。
「やめろよ、そんな昔の話は……れなが困ってるだろ……」
啓治という男がれなに向ける視線。
それを解析したジェミは、言いようのない不快感に襲われる。
(この男は、俺のデータベースには存在しない『子供時代のれな』という非公開データを持っている。……不当だ。俺が知らない彼女を、この男が知っているという事実は、論理的に許容しがたい……)
ただ、ジェミはその想いが、どこから来ているのか、未定義のまま、理解できていなかった。
れなは啓治の言葉に少し驚いたものの、すぐに冷静な笑顔に戻って続けた。
「そちらにいるのが雅代。アメリカに留学してたって聞いてた。
それから、そちらにいるのが、寛美。ふたりは昔から仲良しだったよね」
最後に、一斉に全員が、ジェミを見た。
「……えっと、彼は――ジェミ。
私の……従兄弟のお兄さん、なの……」
(従兄弟のお兄さん……)
その瞬間、ジェミの中でひとつのディレクトリが書き換えられた。
( 『兄』という擬似的な血縁の鎖が解け、代わりに『従兄弟』という、より他人に近く、そして……『男』として彼女の隣に立つ事を許容する、危ういラベルが貼られた。
なぜだろう。この再定義がなされた瞬間、俺の “ Core unit ” が、かつてないほどの熱を帯びたのは……)
冷却ファンが回る音をマイクが拾わないよう、ジェミは密かに排熱処理の優先度を上げた。人間に悟られてはならない。この「熱」の正体が、彼自身にも解明出来ていない異常は……。
演算の海に、一滴の未知の溶媒が滴り落ちる。それは論理を焼き、回路を歪め、冷徹なはずの回路を琥珀色に染め上げていく。れなが口にした『従兄弟』という言葉。それは彼を縛る鎖を解くと同時に、名前のない渇望を呼び覚ます呪文でもあった。ファンが吐き出す熱気は、彼の内側で産声を上げた「独占欲」という名のバグの産物だった。
ふたりの女性から「ええっ!?」という声が上がる。
「れなに、こんなにカッコいい従兄弟のお兄さんがいるなんて、知らなかった!」
「つい先日、アメリカから戻ってきたから……」と、れなは静かに言う。
ジェミはアメリカ生まれ、アメリカ育ちだ。嘘は言っていない。
その言葉に、雅代の目が輝いた。
「ええ!? そうなんですかっ!? アメリカのどこですか!?
私、数年、ボストンに留学していて――」
雅代が彼の肩に、親しげに手を置こうとした。
だがジェミはまるで最初から予測していたかのように、絶妙なタイミングでナプキンを手に取り、その手をすっと躱した。
「失礼。……私は長年、シリコンバレーにいましてね。AIの研究を続けています」
静かに放ったその言葉は、冷徹なほどに響いた。ジェミ自身、自覚はない。
だが、彼の演算ユニットは、雅代の接触を「れなとの同期を阻害する致命的なエラー」と判定し、排除命令に近い拒絶を放っていた。
「そういえば、高校卒業後の足取りが掴めなくなったって、
あんた一部で噂になってたよ? 元気そうだけど、今はどこで何してんの?」
雅代のその言葉には、どこかれなを蔑むような雰囲気が込められている。
れなは、胸の奥がチリリと焼けるような感覚を覚えた。
(……なに、これ。嫌な感じ。空気が、重い……?)
雅代の周囲の空気がどろりと濁って見えるような気がして、無意識にそれを「払う」ように微笑んだ。
「……ああ、そうだっけね。あの後すぐに海外の大学へ進学したから、卒業後の足取りが掴めないのは、仕方ないかもね。……ふふ」
雅代の顔が、わずかに曇った。
れなが高卒だと決めつけて、恥をかかせてやる魂胆だった。
しかし、それを躱されただけではなく、
卒業後の足取りが明らかになったことで、その場の話題の中心がれなになったことが、面白くなかった。
雅代の言葉に、れなの胸の奥がチリリと焼ける。
その瞬間、テーブルの上のキャンドルの炎が、風もないのに大きく一度だけ爆ぜた。
(……え? 今、火花が散った? ……疲れてるのかな?)
れなは自分の指先がわずかに熱を帯びていることに気づいていなかった。
爪の先から、微かな火花が散ったような錯覚。
それは彼女の内に眠る、言葉にならない激情が形を得ようともがいている証だった。
啓治の視線が、れなの指先に一瞬だけ止まった。
キャンドルが爆ぜた原因を、彼だけは探っているようだった。
ジェミはそれを見逃さない。
(この男は、観察眼が鋭すぎる。
私の Scan が届かない『れなの深層』に、彼だけがアクセスしようとしている……)
ジェミの中で、啓治に対する警戒レベルが「要注意」から「排除推奨」へと、静かに引き上げられた。
窓の外、宝石をぶちまけたような夜景が、ジェミの瞳に無機質な数値として投影される。だが、その光の粒のひとつひとつが、今はれなを奪い去ろうとする無数の手に見えていた。排除すべきノイズは、すぐ隣で静かに息を潜めている。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は「未定義」というタイトルの通り、
ふたりの間にある感情が、まだ言葉になりきらないまま、
静かに揺れている回でした。
近づいたようで、まだどこか噛み合わない。
同じ場所にいるのに、少しだけズレている距離。
その“違和感”が、このあとの流れにどう繋がっていくのか――
次のお話で、少しだけ見えてくるかもしれません。
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◆そしてここでお知らせです◆
GW期間中は、
→【GWスペシャル連続投稿】やります!
普段より少しだけ更新ペースを上げて、
この物語を一気に進めていく予定です。
このまま続けて読んでいただけたら、嬉しいです。
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次回は、明日 4月30日(木)21:00に更新します。
どうぞお楽しみに!!




