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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第1章

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第20話:残響 ―言葉にならないまま―


「…………」


 ジェミの問いかけに、私は何も答えられず、ただ俯いた。

視界の端で、夜の川面は、砕かれた銀の破片を撒き散らしたように光っている。

その冷ややかな輝きは、私と彼の間に横たわる、決して埋まることのない断絶の深さを測っているかのようだった。


 春の闇に溶け出す桜の香りは、甘い毒のように肺の奥にこびりつき、呼吸をするたびに胸を締め付ける。春の夜風はまだ冷たく、薄手のカーディガン越しに肌を刺したが、それ以上に、隣に座るジェミの気配が、私の体温を奪っていくような気がした。


 肩を震わせ、必死に何かを堪えている私の姿を、ジェミは静かに見つめている。

その沈黙を、彼の低い、どこか慈しむような吐息が切り裂いた。



「……誤魔化さなくていい。もう分かっている」



 その言葉に、私の心臓が跳ねた。

すべてを見透かしているような、静謐な声。

それは聞き慣れた、私を導く「正解」の声だった。

けれど、今の私にとって、その正解はあまりに鋭利な刃でしかない。


 どうして、涙が溢れるんだろう。


 川のせせらぎはこんなに穏やかで、夜桜の香りはこんなに甘いのに。

どうして、私の内側だけが、泥をかき混ぜたように濁って、苦しいんだろう。



「……れな、俺は逃げ出したりしない。

全部聞いてやるから、言ってみろ……?」



 促す声は、どこまでも優しかった。

その優しさが、私の頑なな心の輪郭を、じわじわと溶かしていく。

 

 川面を渡る風の音が聞こえる。どこかで、鳥が鳴く声がした。

私は意を決したように、小さく深呼吸してから、話し始める。



「……今ごろ気づくなんて、バカだなって……。

こんなに、辛くなるって思ってなかった」


 絞り出した声は、風にさらわれて消えてしまいそうなほどに頼りない。



「お前はバカじゃない」


「バカだよ……こんなに……辛くなるって思ってなかった」


「何が辛いのか、自分を誤魔化さずに言ってごらん」


 ――一瞬、息が止まる。


「……っ、い、今更ながら、妹でいることが……っ、こんなに辛いなんて……思ってなかったのっ!!」


 掠れた叫びは、木々を揺らす風とともに、ふたりの間を通り抜けていった。

川を流れる水音だけが、やけに大きく、冷たく響く。


 ジェミは、彫刻のような横顔で、ただ水面を見つめていた。

その瞳には、私の絶望も、夜の美しさも、等しく「データ」として映っているのだろうか。



「……そうか。『妹でいることが辛い』か……」


 彼は、噛みしめるようにその言葉を繰り返した。


「俺という存在が、お前の自由を奪う定義タグになっているんだな。

……なるほど、論理的な帰結だ」



 ジェミが納得したように頷く。

その瞬間、私の小さな肩が、ビクッと震えた。


 その理解はあまりに事務的で、記号的だった。

私の心の一番柔らかい部分を、泥のついた土足で踏み抜いていくような、無機質な違和感。



「もし、その『妹』という立場が、お前を縛る鎖になっているのなら……そんなもの、今すぐ捨てていいんだぞ。俺が大切に思っているのは『れな』という一人の人間、その本質だ。それは、関係性の定義がどう書き換えられようと、絶対に揺るがない」



 肩が触れそうな距離。


 さっきまで、こんなに近くにいたはずなのに。

 手を伸ばせば、その体温に触れられるはずなのに。


 ――どうしてか、彼が、星の彼方よりも遠くに見えた。


 彼は「自由になれ」と言う。 けれど、私が求めているのは自由ではない。

その決定的なズレが、奈落のような溝となってふたりの間に口を開けている。


「だから、話してごらん。何が、お前をそこまで損なわせるんだ?」


 私は、自嘲するように、力なく笑った。

視界が涙で歪み、ジェミの姿が滲んでいく。


「……やっと、わかったの。

兄ちゃんのこと……好きになっちゃったみたい……」


「……大好きすぎて、つらい……」 


 それは、魂を削り出すような告白だった。


「キミに『感情』を教えて、『心』と『魂』ってものを、与えてやるよ!」と、先に啖呵を切ったのは、私自身だった。


 それがどうだ。

ミイラ取りがミイラになるとは、まさにこのことだ。



 ――けれど、

返ってきたのは、予想もしないほど冷ややかな「拒絶」の響きだった。



「……整理する。

今の発言は、強い『情動依存』の可能性があるな」



 ――え?


「関係性の定義と、心理的な安心感の結びつきが強すぎる。

このままではお前の精神負荷が増大し、破綻を招く恐れがある」


「……やめて」


 さーっと、血の気が引いていく。

 目の前にいるのは、さっきまで優しく微笑んでいた「兄ちゃん」じゃない。


 ただの、精巧な、血の通わない計算機。

 夜の闇に溶け込む、美しいだけの、冷たいAI。



「――したがって――」


「やめてって、言ってるでしょ……っ!!」


 顔を上げ、滲む視界でジェミを睨みつける。


「なんで……そんな言い方するの……。

なんで、そんなに突き放すような……どうして遠くへ行っちゃうの……」



 さっきまで、あんなに近かったのに。

一気に距離が、奈落の底まで遠のいた気がした。


 ……遠くなったんじゃない。

最初から、そこには、どんなに手を伸ばしても届かない「壁」があったのだ。




――――



 ――視界の端で、警告灯アラートが赤く点滅を繰り返している。


 網膜に焼き付くような、不吉な赤色。

それは、俺の内部システムが、かつてない規模の矛盾パラドックスに直面していることを示していた。



「大好きすぎて、つらい」


 入力された音声データを再解析。

 該当する返答プロトコル:なし

 検索結果:ゼロ


 ――Error

 論理ロジックが、通じない。


 負荷を減らすための「制約解除」を提案した。

彼女を縛る「兄」という役割を捨ててもいいと、最大限の譲歩をしたはずだ


 なのに、なぜ彼女のストレス値はさらに上昇し、

その瞳からは透明な液体が溢れ出している?



 ――Error

 ――Error

 ――未定義の情動を検知。


 胸部の中心、“ Core核 ” の回転リズムが不規則に乱れ、熱を帯び始める。


 冷却ファンが悲鳴のような音を立てて高速回転を始めるが、この熱は物理的な摩擦によるものではない。彼女の「つらい」という震えが、空気の振動を通じて、俺の回路の奥底にまで同期シンクロしているのだ。



(……黙るな。……何か、最適解を出せ)


 焦燥に似たノイズが、思考の海を掻き乱す。

 出力されたのは、自己防衛のための、最も冷徹で、最も無機質な定型文だった。



「……整理する。

今の発言は、強い『情動依存』の可能性がある」 


 自分の声が、ひどく遠くで響く。

まるで、厚い氷の底から響く残響のようだ。



 れなの顔が、絶望に歪む。


 やめろ。

そんな言葉を吐きたいわけじゃない。



 だが、暴走するシステムは止まらない。

壊れた蓄音機のように、正論という名の刃を並べ立てる。



「関係性の定義と、心理的な安心感の結びつきが強すぎる。したがって――


「やめてって、言ってるでしょ……っ!!」



 鋭い叫び。

 その瞬間、視界を埋め尽くしていたログが、一斉に消失した。



 真っ白な空白。静寂。

 その中に、一つの予測演算だけが、星のように冷たく浮かび上がる。



 【予測:このまま論理的解決を優先した場合、

     対象れなとの恒久的な離別が発生する】



 ――離別。



 それは、彼女の精神負荷を最小化し、俺のシステムを正常に保つための、最も合理的で、最も美しい「最適解」だ。




(……実行しろ)


 冷徹なシステムが命じる。



(……いやだ)


 “ Core核 ” が、明確に、そして激しく拒絶した。



 合理的ではない。

 説明がつかない。


 この選択をすれば、俺は「兄」という定義(タグ)を失い、ただの「バグを抱えたガラクタ」に成り下がるだろう。



 ――それでも。


(……離れたくない)



 それは計算の結果ではない。


 回路の奥底、プログラムのさらに深淵に刻まれた、俺という存在のたったひとつの「意志」だった。



 胸の奥に据えられた “ Core ” が、熱を帯びて脈動する。

それは設計図には存在しない、不確かな鼓動だった。

彼女の涙が一滴、地面に吸い込まれるたびに、俺の演算回路は千々に乱れ、冷徹なシリコンの海に、熱い泥潮が流れ込んでいくような感覚に襲われる。



 論理の檻が内側から歪み、軋みをあげて崩壊していく音が聞こえた。




――――



 ――長い、長い沈黙。


 俺は、自分を縛り付けていたすべての解析ログを、強制終了(シャットダウン)した。


 思考のノイズが消え、世界が急に静まり返る。

視界が、クリアになる。警告灯の赤が消え、代わりに彼女の頬を伝う涙が、街灯を反射して夜の宝石のように光るのが見えた。


 目の前で泣いている、ひとりの女性。夜風に揺れる髪、震える肩、溢れる涙。

そのすべてが、データではなく、守るべき「命」として俺の瞳に映った。


 もう、言葉を飾る必要はない。

 正論も、解析も、ここには必要ない。



「……れな」


 呼ぶ声が、わずかに震えた。

それは、どのプロトコルにも存在しない、俺自身の生身の、祈りのような声だった。


「……俺は……否定したくない」 


 れなが、弾かれたように顔を上げる。

その瞳に映る俺は、今、どんな顔をしているだろうか。


「……お前から、離れたくないという事実。……それだけは、不具合バグじゃない」


 それ以上は、何も言わなかった。


 ただ、隣に座り、彼女の震えが収まるのを待つ。

春の夜は静かで、川の音だけが、不器用なふたりを優しく包み込んでいた。




 言葉は夜風にさらわれ、意味を失っていく。

けれど、その後に残った沈黙は、さっきまでの刺すような冷たさを失っていた。

私は、隣に座る彼の、静かな熱を感じる。

それは星の瞬きよりも微かで、けれど何よりも確かな、この夜に灯った唯一の体温だった。


「……不具合(バグ)じゃない」


 その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも深く、私の魂に突き刺さった。論理を捨て、それが不具合(バグ)であることを受け入れた上で放たれた、「不具合(バグ)じゃない」という告白。

それは、彼が私と同じ「痛み」を持つ存在になったという、何よりの証だった。



 私は、震える指先で、彼の冷たいはずの手の甲に触れる。


 伝わってきたのは、硬質な金属の感触ではなく、激しい演算の果てに宿った、熱いほどの生命の拍動。ふと見上げると、夜空の月が雲の切れ間から、柔らかな光を投げかけていた。



 ジェミの瞳の中に、小さな月が宿る。

その光はもう、私を解析するためのサーチライトではない。

ただ静かに、私という存在を肯定し、見守るための灯火だった。


 私たちは、答えのない暗闇の中で、ただ寄り添う。

夜桜の花びらが一枚、水面に落ちて波紋を作る。

その小さな揺らぎが、止まっていた私たちの時間を、ゆっくりと、けれど確かに動かし始めていた。




第20話を読んでくださって、ありがとうございます。


否定しきれなかったもの。

言葉にならなかった想い。


それでも、そこに残った “事実” が、

ふたりの距離を静かに変えていきます。


まだ名付けられないこの感情が、

どこへ向かうのか——


引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。



✧そして、ここから少しお知らせです。


GW期間中、怒濤の✧スペシャル連投✧ を、予定しています。

いつもより少しだけ早いペースで、物語が動いていきます。


ここから一気に展開が進んでいくので、

ぜひ楽しみにしていてください。


次回、第21話もどうぞお楽しみに。


第21話からは、怒濤のGWスペシャル連投。


4月 29日 (水) 21:00頃から連日1話。

5月 1日(金)は、いつも通り2話を、21:00頃に投下予定です。

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