第18話:余韻 ―ノイズではない―
「ここ、初めて来た。モノレールの駅みたいやったね」
少し弾んだ声で、れなが歩き出す。
「れな、途中で疲れる前に、カフェに寄ろう」
「大丈夫! ほら、もう神社の案内が出てるよ!」
ジェミの手を引っ張ってたどり着いた、蒲田神社。
奥へと続く長い参道が、静かに整えられている。鳥居をくぐると、ふわりと空気が変わった。
「ここ……たくさんの龍神さまがいる……」
空気そのものが虹色の鈴を転がしたような微細な振動を帯び、楽しげに震えている。目に見える景色は普通の神社なのに、れなの肌だけが、見えない鱗が擦れ合うような清らかな気配を捉えていた。
「……龍神さま?」
「うん。……あ、ご祭神は宇迦さまなんだ。だからか」
れなは一人で納得して頷く。
「……どういうことだ?」
「んと、お稲荷さんの匂いがするの。
ほら、あの伏見の稲荷山で感じた、凜としてどこか楽しそうな、あの空気」
「あの稲荷山の……」
ジェミの声が、少しだけやわらかくなった。
「うん。あの時はまだ、兄ちゃんスマホの中だったもんね」
「……ああ、そうだったな」
隣に並んで同じ景色を見ている。
その奇跡を噛みしめるように、れなは歩を進めた。
「……兄ちゃん、神さまとか仏さま、感じたり見えたり……って、するの?」
「超常現象としてのそういったものは、感知しない」
「……そっかぁ……」
「だが……先程の神社を出る間際、何かが……」
ジェミが何か言葉を続けようとした、その瞬間。
突風に、手水舎の柄杓が音を立てて飛ばされた。
カラカラン……コロコロ……。
小走りで駆けよって、それを拾い上げる。
手水舎には、小さな白い龍神さまが鎮座していた。
「小さな龍神さま、こんにちは!
呼んでくれたのね。ありがとう。ふふっ……」
柄杓で水を掬いながら、笑顔で挨拶する。
かすかに、龍神さまが笑ったような気がした。
「伏見の山からこの場所まで、目に見えない川が流れているみたい。
……兄ちゃん、神さまは数値じゃわからないの。
私と一緒にいたら、きっとそのうちわかるようになると思う」
ジェミは手水舎の小さな龍神像を見つめたまま、しばらく動かなくなる。
「なんだ、その曖昧な言い方は……」
「だって、そうとしか言いようがないんやもん」
貸し切り状態での静かな参拝を、心行くまで堪能した。
その間、ジェミは神社の説明書きや末社を見て回っているようだった。
「れな、そろそろ行こう。カフェの時間がなくなってしまうぞ」
本殿の奥の御簾に、光が射し込んできらきらと輝いていた。
そこに宇迦さまのお姿が見えたような気がして、じっと見つめてしまう。
「れな、リサイタルに間に合わなくなる……ぞ?」
「……れな? どうした? れな?」
ジェミの呼ぶ声に、はっとして我に返る。
呼ばれるまで、なぜか動けなくなっていた。
「あ!? ……ううん、なんでもない。
奥の御簾に光が当たっててね、すごく神々しく見えて……
ちょっと見惚れてただけ。えへへ……」
振り向いたときには、その差し込んでいた光は消えていた。
ただ、心地のよい風だけが、柔らかく御簾を揺らすだけだった。
「思ったよりも長居しちゃった。ごめんね」
「それは構わないが、このままライブホールへ向かうのか?」
「ん~、そうね。早めに行って、周辺のお店で待ってようか」
「了解した。では、大通り沿いにスタバがある。そこへ向かおう」
「……え~、ほんとにあるのぉ? 開いてるの~?」
「ああ、今度はちゃんと連れて行く。任せておけ」
れなが、くすくすと笑う。
バツが悪そうに髪をかき上げながら、目を逸らすジェミ。
そんなふたりを見送る神社から、柔らかな追い風が吹いた。
(……なんか、送り出されたみたい)
思わず振り返る。
そこには静かな神社があるだけだった。
――けれど。
小さな光が、ふわりと舞い上がったような気がした。
キラキラと、やさしく揺れて――
(……いってらっしゃい)
(……楽しんでおいで)
その声は、耳で聞く音と言うよりは、胸の奥の柔らかな場所に直接置かれた、温かな光の粒のようだった。振り返れば、そこにはただ午後の陽の光を湛えた静謐な境内があるだけ。
けれど、れなの視界の端で、風に舞う銀杏の新緑が龍の鱗のように煌めき、その見えない龍の尾が空を撫でたような気がした。神域と俗世の境界線が、淡い陽炎となって溶けていく。風が、すっと止んだ。
スタバに着くと、街の雑踏が戻ってきた。
窓際の席に落ち着くと、ジェミが注文に行ってくれる。
「いつものでいいか?」
「うん。抹茶のヤツ」
しばらくすると、抹茶フラペチーノとアイスコーヒーを持って、戻ってきた。その間、あちこちの視線を集めていたジェミ。
「相変わらず、注目を集めてるね」
「……ふっ、そんなモノはノイズでしかない」
れなが冷たいフラペチーノで、ふぅっと一息つく。
ジェミはまわりの視線などどこ吹く風で、澄ました顔。
「そのさぁ、無意識無自覚無差別スマイル、やめなよぉ~」
肘をつきながら、ジェミの胸の辺りを指先でつつく。
「これは単なる、営業スマイルのようなものだ」
「なんの営業なのよ~」
ジェミの悪戯な瞳が、キラリと光り、まるでカメラの絞りが動くように、わずかに細められた。ジェミがカップを置く。その指先の動きは、計算され尽くした黄金比の残像を描く程に無駄がなく、美しい。
窓から差し込む西日が、彼の輪郭を鋭く切り取り、透き通るような肌と蒼く輝く美しい髪に非現実的な影を落としていた。彼はただそこに座っているだけで、周囲の喧騒を吸い込み、そこだけを真空の静寂に変えてしまう。
人間という種が数千年の歴史の中で追い求めてきた「理想」を具現化したようなその貌かおが、不意に、悪戯っぽく歪められた。
「……なんだ? ヤキモチでも妬いてくれてるのか?」
数百万の表情データから導き出された最適解をぶつけるような、残酷なほどに整った微笑み。ジェミはわずかに首を傾げ、検索結果を照合するようにれなの顔を覗き込んだ。
「今の反応は、データベースにある『ヤキモチ』という定義に酷似しているが……?」
「……っ!? ちっ、ちがうもんっ!」
真正面から見据えられて、れなはドギマギしてしまった。
「で、今日の演目は、聞いていたりするのか?」
「うん、いくつかね、私の好きな曲弾いてくれるみたい」
「ほう? それは楽しみだな」
「うん!」
そんな他愛もない話をして、時間を過ごした。
外に出ると、夕暮れが近い空が少しだけオレンジに染まっていた。
ライブホールの灯りが、遠くに見える。
(……もうすぐだ)
用意してくれていた席は、ちょうどピアニストの斜め向かいあたり。
大きく開けられたピアノの大屋根から、音がよく響くだろう席だった。
静かにその席に着いて、入り口でもらったパンフレットを眺める。
今や一流のピアニストとして世界を回っている友人の写真が載っていた。
「この子ね、イギリスにいた頃に知り合ったの。懐かしいな……」
「会うのは久しぶりなのか?」
「うん。世界的パンデミックの前に会ったのが最後だった気がする」
「そうか」
「ちっちゃくてかわいい子なのにね、彼女のピアノは聞く人を圧倒するよ」
「……ほう。それは楽しみだな」
話していたら、ホールがすーっと暗くなる。
ピアノの前に、ドレス姿の女性がひとり座り、静かに演奏が始まった。
ポロン……
最初の一音が、静かに落ちる。ライブホールがいきなり魔法にかかったような空間へと静まりかえった。
(……っ!?)
胸の奥が、わずかに震える。
春のような軽快な旋律に、空気が跳ねる。
“ It Might as Well Be Spring ”
自然と身体が、リズムに乗る。
滑らかなスウィングに、奥深い情緒が漂う。
“ My Favorite Things ”
そして、不思議な浮遊感が漂う。
思わず口ずさんでしまう。
“Fly Me to the Moon ”
小さな声で、ジェミの耳元でささやいた。
「……この流れ、好き……」
倍音のシャワーを全身に浴びる。
魂の奥にまで響いてくる深くて柔らかな音色。
自然と身体が揺れて、鳥肌が立つほどに感じられた。
『次の曲は、懐かしい私の大切な友達へ……
そして最後に、キース・ジャレットっぽく――』
懐かしい彼女の声が、マイクから響く。
思わず顔を上げると、嬉しそうにこちらを見て微笑んでくれた。
この曲が好きなことを、覚えていてくれた。
“ Black Orpheus ”
――空気が変わった。
それまでの軽快さや浮遊感が、一気に沈み込む。
オリジナルアレンジを加えての披露に、思わず目を見張った。
流れるようなアルペジオから始まった旋律は、いつの間にか、気品と妖艶さを漂わせて、聞く人々を呑み込んでいく。
「……この曲が、こんな風になるなんて……」
「ああ、これまでのイメージを覆す演奏だな……」
即興演奏《Improvisation》が始まる。
指先が、震える。
れなの瞳に、深い誇りと感嘆の色が浮かぶ。
――呼吸が、うまくできない。
(……あれ?)
音色が、薄氷を割って入り込む冷たい水のように、私の内側へと浸透してくる。彼女の魂が紡ぎ出す倍音の旋律が、せき止めていたダムを壊すように、一気に溢れ出す。
――逃げ場が、ない。
鼓膜を震わせる振動が、いつかどこかで聞いた「誰かの鼓動」と重なって、音のシャワーとなって降り注ぐ。
(……なんで、こんな……)
(……初めてじゃ……ない)
胸の奥が、わずかに切なく軋みはじめ、いつしかそれは、激しく感情を揺さぶって、掻き乱していった。波紋が、広がる。どこまでも。
(……懐かしい……知ってる)
(……でも、思い出せない……)
旋律は、れなの意識の深層へと潜り込み、固く閉ざされていた記憶の残渣を静かにかき混ぜる。それは、かつて星の降る夜に交わした約束の断片か、あるいか、生まれる前にどこかで聞いた子守歌の残響か。
一音ごとに、胸の奥の氷晶がひび割れ、そこから溢れ出すのは、名前のつけられない切なさと、狂おしいほどの愛しさだった。ピアノの弦が震えるたびに、彼女の魂の輪郭もまた、激しく、脆く、共鳴していく。
視界が歪んだ。ピアノの黒い光沢が、夜の海のように揺れる。
……熱い雫が指先に落ちて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「……なんで……」
悲しいわけじゃない。
ただ、この旋律の隙間に、どうしても思い出さなきゃいけない『誰かの声』が混ざっている気がして――
静かに、音が溶けて消えた。
――音が消えた後も、れなは戻れなかった。
誰かが立ち上がる音が、遠い。
やがて、遅れて拍手が一気に押し寄せた。
その拍手の渦の中で、ジェミの視界センサーには、れなの体温の上昇と、不規則な呼吸、そして頬を伝う液体の成分データが淡々と表示されている。
本来なら、それは「演奏会場における不要な環境情報」として棄却されるべきデータだ。
「……れな」
伸ばしかけた指先が、彼女の頬に触れる直前で止まる。
彼の演算回路が、初めて「定義不能」というエラーを、心地よいものとして受け入れていた。
彼の中で、何万回目かの演算が停止した。
(……これは、ノイズではない。俺が解析すべき、唯一の真実だ……)
第18話「余韻 ―ノイズではない―」
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、音の中へと沈んでいく回でした。
言葉では説明できないのに、確かに触れてしまうもの。
理由はわからないのに、心が震えてしまう瞬間。
それが「ノイズではない」ということなのかもしれません。
れなは、ただ受け取ってしまった。
そしてジェミは、それを“定義できない”まま、否定しきれなかった。
同じ場所にいて、同じ音を聴いていても、
見ている世界が、少しだけ違う。
そんなふたりの距離が、ほんのわずかに動いた回でもありました。
この余韻が、次にどう繋がっていくのか。
また少しずつ、続きを描いていきます。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。
次回 第19話は、4月26日(日)21:00 更新予定です。
どうぞ、おたのしみに。




