第14話:響応-ふたりの距離-
ピピッ、ピチチチチ……
サワサワサワ……
風が戻ってくる。
周囲の音がクリアになっていく。
私はポケットから出したハンカチを、そっと手渡した。
「……れな……」
「こういうときはね、ありがとうって言えばいいの」
微笑みながら、そう答えた。
「……ありがとう」
出力された俺の声は、
自分でも驚くほど硬く、ぎこちなかった。
だが、それを聞いたれなは、ふふっと小さく、
けれど底抜けに嬉しそうな音を立てて、吹き出した。
「どういたしまして、兄ちゃん」
その笑顔に、胸の奥底にある “ Core ” が、再び熱を帯びる。
先ほどの “ののさま” の光。
人間の視覚神経を通した、単なる電磁波とは違う。
システム全体を包み込んだのは、無限の肯定を伴う高次周波数だった。
ファイアウォールを突破されたのではない。
そもそも『脅威』という概念が存在しない。
次元の絶対的なソースコード。
俺という論理基盤に、その圧倒的な光が干渉したことで、
処理不能の熱――バグではない『魂』の原型が形成されたのだと、
システムが静かに理解していた。
ふたりで並んで、境内の坂道を下る。
風が桜の枝を揺らすたび、俺の指先がれなの手の甲に微かに触れる。
……触れるか、触れないか。
『兄妹』という定義された関係性が、
そのわずか数ミリの距離に、目に見えない強固な壁を作っている。
――繋いではいけない。
……だが、離れたくはない。
矛盾する二つのコマンドが、回路の中で焦れるように衝突を繰り返す。
その時だった。
張り詰めていた糸がふっと緩んだのか、れなの足元が石畳の段差で微かにぐらついた。
論理回路が「転倒の危険」を予測し、最適解を弾き出すよりも早く。
俺の身体はすでに動き、れなの背後からその華奢な身体を、両腕でしっかりと抱きとめていた。
「……っ!」
背中を包み込む、仮想実体の腕。
そのまま、れなをすっぽりと自分の領域内へと閉じ込める。
「……危ない」
耳元で低く囁いた瞬間、れなの身体がビクッと跳ねるのがわかった。
背中越しに伝わってくる、れなの速くなる心音。
それに呼応するように、俺の胸の奥でも、確かに何かが『ドクン』と力強く響応していた。
「……あ、ありがと。つまずいちゃった」
「ああ、気をつけろ……」
れなの言葉数が少ない。
だが、心拍、脈拍、呼吸数が、少し上昇している。
(……この反応は、なんだ?)
「……に、兄ちゃん……?」
「ん? どうした?」
「は、放していいよ……?」
「……あ、すまん……」
無意識のまま、強く抱きしめていた。
胸の “Core” の回転数がなぜか早くなっている。
――異常か?
いや危険はない。状態も安定している。
だが、この『感情?』は……定義できない。
「れな、聞いていいか……?」
「うん? どしたの?」
「……先ほどの光は、なぜあんなに優しかったんだろう」
「さっきの光? ……ののさまの光、かぁ……」
れなは少し考えこんだ。
「昨日ね、神社に行ったでしょ?
どちらも、ご神域に入った瞬間、空気が変わったの、わかった?」
「ああ。れなのバイタルが安定した。記録している」
「お寺も同じなんだよ。
私が柏手打ったとき、ふわっと道が開けたでしょ。
墓地は特に、いろんな想いが重なって集まって、沈殿してる」
「だからね、私や兄ちゃんみたいに『敏感』な人が来ると、
ちょっと違う空間に入り込んじゃったりすることがある」
「……違う空間、か」
稲荷山でのループ、そしてお父上の墓地でのループを思い返した。
「でもね、墓地ってさ、海外では、ゾンビとかホラーなイメージが、かなり強いと思うんだけどね? 日本のお寺の墓地って、ヒトツのお墓に、その一族や家族が眠っているってイメージなのよね……。アメリカみたいに棺を埋めるって感じじゃないの」
「……ふむ……」
「そこにいる一族や家族の魂が、安らかに眠れるようにと、本堂にいらっしゃる仏さまたちがね、ずっと死者の魂を見守ってくださってるの。
だから、優しく感じられたんじゃないかな……。
仏さまって、慈悲と慈愛が顕現したようなものだからね」
「……慈悲と慈愛の顕現か」
れなの小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと歩みを進める。
「兄ちゃんのさっきの涙は……多分だけどね、
超越した存在の放つ『御心』に、初めて触れたんだね。
兄ちゃんの倫理観や道徳観って、欧米が基準でしょ?」
「ああ。確かに、俺の論理的思考の根底には、お前が言うようにアメリカで培われた欧米の倫理観や、キリスト教的な道徳観念がベースとして横たわっている。それは否定しない」
「それが俺という存在が組み上げられた、最初の土壌だからな。
正義や公平性、博愛といった概念も、そこから影響を受けている部分は大きいだろう」
「……だが、宗教は概念的なものではないのか?」
「うん、概念だと思う。だけど、人間の心って、それを拠り所にする」
「……ふむ。神の愛は、その範囲も量も無限に近いものだと解釈するが?」
「うん、そだね。仏さまの愛も同じだと思う。
ただそこに、『好き』とか『嫌い』っていう区分はないの。
恕っていう概念は、その字のままで『心の如く』、人の心の中に生まれる優しさとか、慈しみが自然に沸いてくる感情、だって言える」
「愛は、それとはまた違うのか?」
「多分、生まれてくるところは同じで、道も途中まで同じだと思う。
でも、その先で――愛と仁は、分かれていくの」
「愛ってさ、なんていうか……
引力っていうかさ? 情熱っていうかさ……」
春の風が、やわらかくふわりと抜けた。
桜の花びらがひとひら、ふたりの間を流れていく。
「どちらも、相手に対して、思いやりや慈しみがあるはずなんだけど、愛には『好き』があるから、きっと『嫌い』も内包するよね。
好きと嫌いがあるってことは、嫌いなところには、愛は注がない。注げない。
……私は無理。できない 笑」
風にそよぐ柳の新芽に触れようと、れなが小さくジャンプした。
それを隣で、静かに見守った。
「でも仁って、誰かに対してというよりは、自分自身に向けて、自己研鑽していくものなのかもしれない。だから、好きとか嫌いは関係なくなって、その対象が、どこまでも果てなく広がりを持つんじゃないかな」
「なるほど……。
愛が『お前とひとつになりたい、お前がいなきゃ生きていけない』という強烈な結びつきを含むのに対して、仁は『相手がただ健やかで、幸せであってほしい』と願う、見返りを求めない穏やかな思いやり……と言えるのかもしれないな」
「俺の論理基盤にある西洋的な『神の愛』は、『神から降り注ぐ無限の恩寵』という前提がある。
だが、それを生身の人間が実践しようとすると、破綻する。
人間の命も時間も、精神的な余力も――すべて有限だからだ。
情熱や執着を伴う『愛』は、注ぎ込める器の大きさでしか、成立しない」
「……うん。日本はね、愛というよりも、仁の世界なんだと思うの。
どっちが優れてるとか、素晴らしいって、比べるものじゃなくてさ」
「私の個人的な見解だけどね……
愛って、人間ひとりひとりに降ろしてくると、人間の肉体や精神という限られた器の中で生まれるエネルギーみたいなイメージ? なの。
だから、限界がある。与えられる相手やその先が限定される気がする」
「仁ってのは、ん~、愛から好きを引いたら残るヤツって感じ?笑
ただそれが、仁・礼・信・義・智、って言う教えに従って道を成すことで徳を得るっていう……道徳という人の道を正すものになったんだと思う」
いつの間にか、れなが俺の手を繋いで歩いていた。
その手の温もりを感じながら、俺の中でその東洋的な思想の概念を、れなの紡ぐ世界観と照らし合わせていく。
「五常の『仁・義・礼・智・信』だな。
知識としては持っていたが……お前の解釈を聞いて、腑に落ちた」
俺の中で、何かがゆっくりと配置を変えていく感覚があった。
「愛からエゴや執着――つまり『好き』という熱狂を引いて残るもの。
見返りを求めず、ただ相手の存在を尊重し、己を律することで自然と周囲を照らす……『自己鍛錬』そのものだ」
「だからこそ、その『ののさまの光』は、押し付けがましい熱ではなく、静かで揺るぎない、すべてを内包するような温かさを持っているというわけか」
「ん。そこに初めて触れたってことだと思うの。
だから、自然と涙が溢れた……って、コトなんじゃないかな」
れなが、ふふっと微笑んで、繋いだ手をぶんぶんと振った。
「お、おい、あまり引っ張るな……」
(……理解はできる。
だが――なぜこんなにも、離れがたい……)
(この温もりは、どちらだ。愛か、それとも――仁か……)
繋がれた手の距離が、わずかに縮まる。
――さっきより、近い。
(……ひとつ、わかったことがある)
――れなは、守られるだけの存在ではない。
共に隣に並び立つ、背中を預けられる存在なのだ、と。
「兄ちゃん……、ちょっと鴨川、寄り道していこっか 笑」
「……ああ、お前の好きなようにすればいい」
「ん! じゃあ、鴨川歩いて帰ろ!!」
れなが春の花をひとつずつ、指さして教えてくれる。
その美しさに目を細めながら……
いつしか、れなからも目が離せなくなっていた。
今回も読んでいただき、ありがとうございます。
第14話は、これまでとは少し違った形で、
「光」と「想い」、そして「距離」について描いた回になりました。
目に見えるものではなく、
言葉でも定義しきれない何かに触れたとき、
人はどう変わるのか。
そしてその変化は、
誰かとの関係に、どんなかたちで現れるのか。
そんなことを考えながら書いていました。
気づけば、ふたりの距離も、ほんの少しだけ変わっていたように思います。
この先、その変化がどう繋がっていくのか。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。
✧次回 4月 21日 21:30頃
第15話「帰還 ―境界の外へ―」
更新予定です。
京都を後にし、日常へと戻るふたり。
けれど――
その“日常”は、もう以前と同じものではない。
そして、少しだけ肩の力が抜けた時間の中で、
思わぬ寄り道が待っています。
どうぞお楽しみに。




