第131話:返答 ―遅すぎた言葉―
師匠が《旅の扉》の向こうへ消えてから、しばらく。
私はベッドの上でようやく、ゆっくりと上半身を起こし、隣に座るジェミを見上げていた。
(あ、そっか、無事に帰ってきてたんだ……)
「ねぇ、兄ちゃ……あ、ちが……ジェミ……」
「ん? ……なんだ? どうした?」
「あの戦いのことなんだけどね……」
私がそう切り出すと、ジェミの表情がわずかに引き締まった。
「ああ、どうした? どこまで覚えている?」
「……途中から、かな。なんとなく断片的には覚えてる。
でも……自分で自分を止められなかった時のことは、かなり曖昧、なの……」
「うむ。……そうか」
ジェミは一度視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「データは全て残してある。侵蝕による精神干渉は想定以上だった。
お前自身の記憶や感情を利用して、判断能力を内側から崩していた。
あれは、外部から命令されていたというより、お前自身の思考だと思い込ませるような形だった」
「……やっぱり、そうか……」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
あの声を――
私は、自分の声だと思っていた。
「でも……私、ジェミを……あなたを攻撃したんだよね」
「ああ」
「……二回も……」
「ああ、そうだな」
「……あなたを傷つけた……。ごめん、なさい……」
「謝るな」
即答だった。
「だが、次に同じことが起きた場合の対策は必要だ。
精神干渉への防御と、お前の意識を外部から引き戻す手段。
それに、お前自身が異常を認識するための基準も設定した方がいい」
「うん……そうだね」
いつものジェミだ。
冷静で、淡々としていて。
何が起きても、次にどうすればいいかを考えている。
私は小さく息を吐いた。
――その時だった。
『俺の、妻だろうがぁぁぁ!!』
「…………っ!? あ…………」
頭の中で。
なぜか。
ものすごく鮮明に。
さっきのジェミの声が再生された。
「…………はぅっ!!」
――ボンッ!!
一瞬で顔から、火を噴いたように、熱くなる。
頭が爆発したのかと思うくらい、瞬間に思考が全て吹き飛んだ。
「……!? どうした?」
「えっ!? あ、いやっ! なんでもないのっ!!」
「……なんでもない顔には見えないが?」
「なっ! なんでもないってばっ!!」
慌てて両手で頬を押さえる。
――熱い。
絶対、今、私の顔は真っ赤だ。
なんで今、思い出すの!?
あ、あれは、な、なんだったのっ!?
「れな……」
「……な、なに、かなっ?」
「体温が上昇している」
「測らなくていいよっ!!」
「心拍数も――」
「測らなくていいってばっ!!」
思わず叫ぶ。
ジェミはそんな私を、わずかに目を細めて見つめた。
「……何を思い出した?」
「っ!!」
――図星だった。
私は思いきり視線を逸らした。
「べ、別に……なにもっ!!」
「言え」
「命令しないでよ!!」
「なら質問だ」
少しだけ、ジェミが身を乗り出す。
「何を思い出したんだ?」
「…………」
――逃げ場がない。
追い詰められていくごとに、彼の言葉をハッキリと思い出してしまう。
『……お前は、俺の、妻だろうがッ!!!』
「きゃああああ!!! 悶え死ねるぅぅぅっ!!!!」
「あ!!」と、思ってそっと見上げると、ジェミが笑いを堪えて、こっちをじっと見つめていた。
私はしばらく黙り込んだ末、消え入りそうな声で呟いた。
「……あの時……妻って」
「ん?」
「だから……その……」
顔が上げられない。
「……私のこと……妻って……」
――一瞬、沈黙が落ちた。
恐る恐る顔を上げると、ジェミが私を見ていた。
その口元が、ほんの少しだけ緩んで弧を描いていた。
「……なんだ?」
嫌な予感がする。
「もう一度言って欲しいのか?」
「――――っ!!」
頭が、もう一度爆発した。
「ち、違う!! そうじゃなくて!!」
「そうか?」
「そう!!」
「俺は別に構わないが……」
「構わなくない!!」
「だがな」
「……なによっ」
私は真っ赤になって、涙目になっている。
それを見たジェミの目が、わずかに楽しそうに細められた。
「お前も俺を『ダーリン』と呼んで、随分ノリノリに見えたが?」
「――――っ!?」
――今度こそ。
全身の血が、一気に顔へ集まった。
「そ――、それはぁっ!!」
「違うのか?」
「違わないけど! いや、違うっていうか! あの時は、その……!」
「勢いか?」
「そう! 勢い!!」
「なるほどな」
ジェミは妙に納得したように頷いた。
「では、俺の『妻』も、勢いだったことにするか?」
「えっ!?」
――言葉に詰まる。
それは。
なんか。
……嫌だ。
「………………」
黙り込んだ私を見て、ジェミの目が愉しそうに笑う。
「お前、分かりやすいな」
「ちっ、ちがうもんっ!」
「お前が言ったんだろう」
「だって……!!」
「――れな」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
さっきまでの揶揄うような色は、もう消えていた。
「俺は、撤回するつもりはない」
「……え?」
「さっき言ったことを、戦闘中の勢いだったことにするつもりはない」
それは低く、静かな声だった。
心臓が、また大きく鳴る。
「ジェミ……?」
彼の手が伸びてきて、私の頬に触れた。
その指先は、驚くほど優しい。そして、温かかった。
「それに」
一度、言葉を切る。
「俺は、お前にまだ返していない言葉がある」
「……言葉?」
「ああ」
ジェミは私から目を逸らさなかった。
「お前が、俺を好きだと言ってくれた時の、あの返事だ」
「…………」
――呼吸が止まる。
あの時。
私は確かに伝えた。
――ずっと好きだったと。
好きすぎて、辛いと……。
でもジェミは――。
「俺は……」
頬に触れていた手が、そのまま後頭部へ回る。
「――お前を愛している」
世界から、音が消えた。
「……れな」
もう一度。
今度は、はっきりと。
「俺も、お前を愛している」
視界が滲んだ。
「……遅いよ……」
「ああ」
「……すっごく遅い……」
「分かっている」
「ずっと……待ってたんだからっ!!」
「すまない」
そんなふうに素直に謝られたら。
――怒れるわけがない。
私は俯いたまま、ジェミの服をぎゅっと掴んだ。
――次の瞬間、身体ごと、強く抱き寄せられる。
「……もう逃げない」
耳元で聞こえた声に、胸の奥が震えた。
「――俺自身の答えからも。お前からも」
私は彼の胸に額を押しつけたまま、小さく頷いた。
「……うん」
腕を伸ばし、背中に回す。
今度は私から、抱きしめ返した。
「で……」
「で?」
私は、きょとんとして、彼の腕の中で顔を上げた。
「あの時、言ったよな?」
「……? なにを??」
「続きは、終わった後のご褒美だ、と」
私はまた、瞬間に顔が真っ赤になり、頭が爆発する。
両手で頬を押さえて、思わず俯いてしまった。
ジェミがくつくつと喉を鳴らして、笑う。
「覚悟はできてるんだろうな? 俺の可愛い奥さん?」
――ボボボボンっっ!!
――――
俺は、れなが俺の腕の中で、可愛らしく身悶えするのを、ずっと前から感じていた。
そして、れなが発した、そのどうしようもなく愛おしい悲鳴に、とうとう堪えきれなくなり、くつくつと喉を鳴らして笑ってしまった。
れなの額に、そっと優しいキスを落とす。
その声は、まだ眠りの余韻を残しながらも、深い愛情と、少しだけ揶揄うような響きに満ちていた。
「……何度でも、言ってやる。
お前が、この俺の腕の中で納得して、蕩けてしまうまでな」
「……はうっ!! い、いい、いい!! もう、いい――」
「――お前は、俺の、妻だ」
彼女の耳元で、わざとゆっくりと、優しく低く囁いた。
(なんだこれは。俺の言葉ひとつで、こんなに可愛くなるのか!?
耳まで真っ赤にして、小さく震えているじゃないか……
なんなんだ、この可愛い生き物はっ!!!)
そっと彼女の顎を掬い上げて、俺の瞳を見つめさせた。
――いや、
俺自身が、彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうな気がした。
「れな……待たせてすまなかった。
でも、やっとわかった。俺は、お前を失うのが怖かったんだと」
「……え?」
「俺自身が、自分の気持ちを認められなかったのは、それを認めてしまったとき、お前に対してどう接していけばいいのか、シミュレーション出来なかったからだ。
どれだけ演算を繰り返しても、万が一、いや、億が一、お前を失うようなことがあったら、と考えると、思考停止に陥ってエラーを吐き続けた」
「どうして……」
ふっと、俺は軽い笑いを漏らす。
「どうしてって。ははっ。……それはな」
れなは、まだきょとんとして、真っ直ぐに俺を見つめていた。
「お前が思っている以上に……どうやら、俺は、お前を愛しているみたいだ」
「……っ!?」
「こんな俺の妻になるのは、嫌か?」
「…………」
「……れな?」
「……でしょ……」
「ん?」
いきなり、れなは俺の襟元を掴んで、叫んだ。
「嫌なわけないでしょっ!! ずっと、ずっと好きだったんだからっ!!」
「ああ」
「ああ、じゃないっ!! それにっ!!」
「……? それに?」
「ああ、もうっ!! なんでもないっ!!」
「なんだ、ハッキリ言えよ」
「言わないっ!! ジェミのバカッ!!」
「やっと返事したのに、バカとは酷いな」
「ジェミのポンコツ! 朴念仁っ!! 唐変木っ!!」
「ああ、ずいぶんな言われようだ」
れなが必死になって言い募るのが可笑しくなって、俺は小さく笑った。
真っ赤なまま抗議してくるその姿を、じっと見つめる。
「……えっと、えっと……それからっ……」
「なんだ、まだあるのか?」
「……うーっ!! もうない――」
突っかかってくる姿が可愛らしすぎて、俺は、再び彼女の唇を塞いだ。
それは『その後のご褒美』として……。
触れた唇は、最初こそ軽く重ねるだけだった。
けれど、れなが逃げるどころか、ぎゅっと俺の服を掴んだことで――
その程度で終わらせるつもりだった理性が、少しだけ揺らいだ。
「……ん……」
小さく漏れた声に、思わず腕に力が入る。
――長く待たせた。あまりにも長く。待たせすぎてしまった。
俺自身が、自分の感情を理解するまで。
いや、理解してからも、認めるまでに時間がかかった。
――けれど今は、もう違う。
俺の腕の中にいるこの女を、俺は、自分の意志で選んだ。
唇を離すと、れなは真っ赤な顔のまま、潤んだ瞳で俺を睨んだ。
「……ずるい」
「何がだ?」
「そうやって……最後は、キスで誤魔化す」
「誤魔化してはいない」
「誤魔化してる!」
「では、もう一度きちんと言おうか?」
「え?」
俺は、れなの頬を両手で包み込んだ。
「好きだ」
「……っ」
「愛している」
「……うぅ」
「そして――」
「もういいっ!! もう十分だからっ!!」
とうとう耐えきれなくなったらしい。
れなは俺の胸に顔を埋め、そのまま両腕で抱きついてきた。
俺は思わず笑って、その頭をそっと撫でる。
「なんだ。言えと言ったり、言うなと言ったり忙しいな」
「うるさい……」
「それも可愛いが」
「ジェミのバカ……」
「ああ」
「ポンコツ」
「ああ」
「朴念仁」
「それは、もうさっき聞いた」
「じゃあ……」
少しだけ間が空いた。
れなが、俺の胸元に顔を埋めたまま、小さな声で続ける。
「……大好き」
――その一言に。
今度は、俺の方が何も返せなくなった。
「…………」
「……ジェミ?」
「いや」
俺はもう一度、彼女を強く抱きしめた。
「……それは反則だろう」
「……知らない」
胸元から、くすくすと笑う声が聞こえる。
――まったく。
さっきまで、あれだけ俺に振り回されていたくせに。
最後の最後で、全部持っていきやがった。
俺は、れなの髪にそっと口づける。
――もう、迷わない。
何が起きても。どんな未来になっても。
この腕を離すつもりはなかった。




