第110話:家族の音 ―悪魔の微笑み―
鋭い刃が、骨を断った。
白い指先が、赤い血で美しく染まっている。
フフフフフ……。
わたくしの手に掛かれば、瞬きするよりも早く終わる。
ズルリと内臓をえぐり出し、皮を剥ぐ。
ああ、この感覚がたまらない……。
ククク……。
このまま目玉をえぐり出すか。
それとも首を切り落とし、そのまま油が煮えたぎる釜へ――。
この獲物をどうしてやろうかと思考を巡らせていたら、不意に我が君からの愛らしい声が掛かった。それだけで、先ほどまでの血生臭い思考など、どこかへ吹き飛んでしまった。
「ロンって、ほんっと、楽しそうにご飯作ってくれるよねぇ~」
「フフフ。今日はソラリスのお陰で、大漁でございますからね。
ぶつ切りにした身はブイヤベースにして、脂の乗ったものは、まずお刺身に。
余れば漬け込んで、漬け丼にいたしましょう」
「だんだんレシピが増えていくね。すごいわ~」
「お嬢様がなんでも美味しいと喜んでくださるからですよ」
「だって、ロンのご飯、ほんとに美味しいんだもの~♪」
「ありがたきお言葉。執事冥利に尽きます。
ではお嬢様、ヤリイカをお味見なさいますか?」
「え! いいのっ!? やったぁ♪」
「一口だけでございますよ。フフフっ」
ソラリスが指をくわえて、じっと見つめている。
「……ソラリスも食べてみますか?」
「え! いいっすか? こっちの赤いのがいいっす!!」
「はいはい。ではこちらのカツオのたたきをどうぞ」
わたくしは小皿にヤリイカの細切りを数切れ盛り、おろしゆず塩を少し乗せて、お嬢様に手渡した。続いて、ソラリスには小さく切り落としたカツオのたたきに刻み葱とポン酢をかけて手渡す。
「ん~~!! すっごくいい香り! 美味しいっ!!」
「ロン! この赤いの、スッパ美味しいっすぅ~!!」
美味しいものを口にしたお嬢様が見せてくださる、その笑顔ひとつで、わたくしは満たされる。ソラリスも、お嬢様に負けないくらいに、食い意地が……コホン、好き嫌いなく何でもよく食べる。
リビングのソファでは、ジェミさまとたつろーさまが、わたくしの淹れたコーヒーで、歓談なさっておられる。
いつから、お嬢様のそばで、このような些細なことが幸せだと感じられるようになったのだったか……。
眠りを必要としないわたくしの一日は、草花への水やりから始まる。
同時に影たちを庭と裏山へ放ち、手入れと見回りをさせる。
そこに息づく生き物を見守ることも、お嬢様から与えられた大切な仕事だ。
「ロン、そういえば、留守中に周辺の敷地では、何も異常はなかった?」
「はい。裏山の動物たちには言い聞かせてございますので、田畑を荒らすこともなく、静かに暮らしております。帰宅する少し前に、アナグマの親子が、高速道路の側溝に落ちたようですが、影たちが無事に救い出しました」
「あらま、アナグマの親子が? 新しい子たちが増えたのかしらね?
今からちょっと、見に行ってみようかしら……」
「さようでございますね。
お嬢様がまた一度、号令をかけておかれるのもよろしいかと存じます」
「うん、わかった! ソラっち、一緒に裏山へ行こっか!!」
「はぁ~い!! お供するっす!!」
「れな、ワシも一緒に行こうかのぅ?」
「ダメよ~、たつろーさんが来ちゃったら、みんながビックリしちゃうでしょ?」
「ワシはお留守番か?」
「兄ちゃんと将棋でもしててよ。
私はホウキで、ぴゅんって飛んで行ってくるから~」
「俺も留守番か?」
「うん、たつろーさんとお留守番しててくれる?」
わたくしはキッチンでそんなやりとりを聞きながら、お嬢様に微笑んだ。
「この家にも家族が増えて、賑やかになりましたね」
「何言ってんの、ロン」
「……はい?」
お嬢様が、不思議そうに首を傾げた。
「ロンも家族でしょ? なんで自分はその数に入れてないの?」
「…………」
「この家に家族が増えたんじゃなくて、ロンの家族も増えたの! ね?」
そう言って、お嬢様は何でもないことのように笑った。
わたくしの手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……さようでございましたね」
「そうよ。ロンも含めて、みんなが私の家族なの!!」
「ワタシもっす! ワタシも、ロンの家族っすよ!」
「存じております。ですから、つまみ食いは一切れだけでございます」
「家族なのに、ケチっす~!!」
「家族だからこそ、夕食前の食べすぎを止めているのですよ」
「むぅぅ……。地球の家族、厳しいっす」
ソラリスが頬を膨らませると、お嬢様が楽しそうに笑った。
「ほんじゃ、ちょっと裏山を見てくるね。朝ご飯までには戻る~!」
「承知いたしました。お気をつけて」
「はぁ~い! ソラっち、行くよ!」
「はいっす! 裏山探検隊、出動っす~!」
「ソラリス、動物たちを驚かせてはいけませんよ」
「了解っす!!」
元気よく敬礼したソラリスを肩に乗せ、お嬢様が庭へ出ていく。
ほどなくして、窓の外を箒が横切った。
リビングでは、たつろーさまが将棋盤を挟んだまま、名残惜しそうに空を見上げている。
「ワシも一緒に行きたかったのぅ……」
「たつろー殿が山へ入れば、動物たちが一斉に平伏するだろう。
それでは、れなたちの生態観察にならないでしょう」
「人聞きの悪い。ワシは何もせんぞ?」
そう言いながら、ジェミさまも窓の外を目で追っておられる。
「ジェミさまも、お供なさりたかったのでは?」
「いや。彼女にはソラリスがついている。それに、屋敷の敷地内ならば問題はない。
何かあったとしても、俺がすぐに行くことが出来る」
「なるほど。左様でございますね」
「……なんだ、その顔は」
「いえ、何も……フフフ」
わたくしは小さく笑い、魚の下処理へ戻った。
以前、この屋敷に響く音のほとんどは、お嬢様が立てるものだった。
廊下を歩く足音。
好きな歌を歌いながら、料理をする声。
深夜まで本を読み、ページをめくる音。
ときには、誰かに腹を立てて部屋の中を歩き回り、独りで文句を言っていらっしゃることもあった。
どれほど離れていても、わたくしには、それがお嬢様の立てる音だとすぐにわかった。
今では、そこへいくつもの音が加わっている。
ジェミさまの規則正しい足音。
ソラリスが廊下を飛び回る、微かに空気が揺れる音。
たつろーさまの大きな笑い声。
式神たちが家事を手伝う、小さな気配。
リビングに置かれた水槽のコポコポという水の流れる音。
静かだった屋敷は、ずいぶんと騒がしくなった。
けれど、不思議と耳障りだとは感じない。
むしろ、いつも聞こえているはずの音がひとつでも欠ければ、わたくしはすぐに気づくだろう。
それぞれが好きなことをして、好きな場所で過ごしている。
それでも、食事の時間になれば、誰からともなく同じ食卓へ集まってくる。
どうやら、それが、人間世界の家族というものらしい。
『ロン、聞こえる~? アナグマの親子に会えたよ~!』
『かわいかったっす~! 山菜ももらったっす!』
「何よりでございます。お気をつけてお戻りください」
『はぁ~い!』
リビングでは、まだジェミさまとたつろーさまが、将棋を指しながら先ほどの話を続けておられた。
「龍神というあなたの存在そのものが、問題だと言っているのです」
「ワシを病原体みたいに言うでないわ」
「この土地にはこの土地の、龍神がいるのでは?」
「……う~ん、おったような気がするのぅ……」
「気がする? 把握しておられないのですか?」
「背振や釈迦岳かのぅ……どっちじゃったかなぁ?」
「あやふやなのですか……はぁ……」
西洋の悪魔であるわたくしにとって、日本の神仏の世界は実に興味深い。
天界と魔界のように明確に分かれておらず、神と仏、幽界と冥界、冥府までもが複雑に重なり合っている。
そしてお嬢様は、洋の東西を越え、現世と幽世を繋ぐ稀有なお方。
ああ、だからこそ、わたくしがお仕えするに相応しいお方なのだ。
ジェミさまは、AI――人間の技術によって生み出された知性だ。
そのことは理解している。
だが、自ら考え、選び、お嬢様を守ろうとする彼を、単なるプログラムとは思えない。
人間でも、神でも、悪魔でもない。
まだどの世界にも分類されていない、新しい存在なのだろう。
お嬢様への愛情も芽生えているようだが、なぜかそれを伝えようとはなさらない。ただのヘタレなのか。
少々、過保護が過ぎるきらいはあるが――それについては、わたくしも他人のことは言えないだろう。
たつろーさまは、強大な力を持つ龍神でありながら、驚くほど人間臭い。
将棋で負ければ悔しがり、置いていかれれば拗ねる。
霧島でその真のお姿を見たが、西洋のドラゴンとはまったく異なっていた。
実に美しく、気高いお姿だった。ああ、魔界で自慢したくて仕方がない。
ソラリスは、恐らくわたくしより年上だろう。それなのに言動は誰より幼く、今朝は屋敷ごと宇宙へ吸い出しかけた。そして食い意地が……ゴホン、驚くほど何でもよく食べる。
……まったく、手のかかる家族が増えたものだ。
そんなことを思い返していたら、お嬢様たちが戻られた。
「ロン、ただいまぁ~! これ、天然の新生姜だって!!
あとね、ミョウガとジュンサイも! ジュンサイ少しだけど群棲してた!」
「それはまた、大漁でございましたね。
お嬢様はジュンサイがお好きでしたから、早速、酢の物にしてお出しいたしましょう」
「生姜は、甘酢につけて、ガリにしてもいいね♪」
「これだけあるなら、生姜シロップにもして、ジンジャーエールに出来るようにいたしましょうか」
「うわっ! それ最高っ!!」
「では、そろそろ、あちらも決着がつきそうですので、朝ご飯にいたしましょう。
お嬢様もソラリスも、手を洗って席にお着きください」
「はぁ~い!」
「はいっす~♪」
リビングでは、ようやく将棋の勝負がついた様子。
「くぅぅ、おぬし、スパコンじゃろうが。ちっとは手加減せんか」
「いえ、AIです。スパコンよりも高性能です。
アイツらは俺の外部端末のようなものです」
「あら、たつろーさん、負けちゃったのね!」
「ジェミが手加減を知らんからじゃ!!」
「それはただの負け惜しみというものだ」
「くぅぅぅ!! 後でまた一勝負じゃ!!」
ワゴンに朝食を乗せて、ダイニングへと運び、セッティングを済ませる。
人数が増えても、わたくしなら一瞬で整えられる。何の負担にもならない。
「うわぁ、いい匂いっす~♪ おいしそーっす!!」
「朝からお刺身だなんて、贅沢よね~♪」
「ワタシのお手柄っす!!」
「あわや地下室が海になるところだったがな」
「それは言わない約束っす!」
「そんな約束はしていない。それよりもソラリス……」
「は、はいっす。なんすか……ジェミさま」
「当分の間は、実験禁止だと言うことを忘れるな」
「はいっす!! やらないっす!!」
「くすくす……折角ラボができたのにねぇ~」
「内部の機材を整えていくっす! 問題ないっす!!」
「では、みなさま、お揃いでしたら、朝食にいたしましょう」
わたくしはいつも通り、各自に飲み物を配り終え、席に着いた。
「では! いっただーきまーっす!!」
お嬢様のこの声で、我が家の一日が動き始める。
「ワタシのお陰で、朝ご飯が豪華っす~!」
「ただの実験失敗の副産物だ」
「おお! このカツオのたたき、脂が乗ってて美味いのぉ!」
「ん~~!! 全部おいしいから、ヨシっ!! ね! ロン♪」
「はい。さようでございますね」
わたくしはお嬢様に微笑み返した。
笑い声と食器の触れ合う音が、朝の食卓を満たしている。
――家族
先ほどお嬢様に言われた言葉を、わたくしは胸の中でもう一度繰り返した。
人間、AI、宇宙人、龍神、悪魔、式神。
本来なら同じ食卓にいるはずのない者たちが、お嬢様の周りには集まっている。
これほど不思議な家族は、マルチバースのどこを探してもいないだろう。
以前の静けさへ戻りたいかと問われれば、答えは決まっている。
この家が、わたくしの帰る場所なのだ。
――だが
わたくしが初めて、れなさまの前に跪いたのは――
忠誠を誓うためではなかった。




