第104話:我が家 ―ただいまの先に―
いつの間に眠ってしまったのだろう。
ゆるやかな振動に揺られながら目を開けると、窓の外には見慣れた街並みが流れていた。
「……ん……」
まだ霞んだ視界の向こうで、住宅街の景色が少しずつ馴染みのあるものへ変わっていく。
(……あ。もう、この辺りまで戻ってきてたんだ)
いつの間にか、ジェミの肩にもたれて眠っていたらしい。
ゆっくりと身体を起こして窓の外を覗く。
「目が覚めたか。もう高速を降りた。まもなく着くぞ」
その声に、ぼんやりと頷く。
周りを見回すと、ソラリスも式神たちもよく眠っていた。
「ふっ。なんだ、まだ寝ぼけているのか?」
「どのくらい前から眠っちゃったのかな……」
「九州道に入ってから、しばらくしたらもう眠っていたな」
「そんなに早く……」
「疲れが出たんだろう。今日は早めに休むといい」
「……ん。そうする」
自宅まであと5分ほど。
まだぼんやりと眺めている景色は、もう見慣れた景色になっていた。
やがて木々の向こうに、見慣れた屋敷の屋根が見えてきた。
(……帰ってきた……)
そう思った瞬間、胸の奥に張りつめていた何かが、ふっとほどけた。
ロンがガレージを遠隔操作で開けて、車を静かに入れる。
「お嬢様、荷物はわたくしがお運びいたします」
「うん。じゃあ、家の中、風を通してくるね」
「俺も行こう」
ジェミが玄関のオートロックを解除してくれた。
ソラリスと、動物姿に戻っていた式神たちをまとめて抱えて、玄関をくぐる。
しばらく留守にしていた家の中は、しんとして、夕方の光が差し込む廊下に少し懐かしい温かさをもって、私たちを迎えてくれた。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
「あはっ、兄ちゃんがおかえりって言ってくれるんだ?」
「この家の電子制御セキュリティ自体は、俺の端末で管理しているからな」
「なるほどね……ふふふっ」
ソラリスと式神たちを、リビングのソファにそっと置いてやる。
「……んむにゃ……まだ……食べられるっす……」
その短い黒い足が、ティアの頭を蹴り飛ばすも、ティアも気にせずに身じろぎしただけで、ふたりともまた眠ってしまった。
私は、各部屋のシャッターを開けて窓を開け放した。
ヒグラシが鳴き始めた晩夏の夕暮れの風が、家の中の止まった空気を一掃してくれた。
「ふぅ、これでやっと一息つけるって感じかな……」
そう独り言を言うと、洗面所へ向かい、ざばっと水で顔を洗って、手洗いうがいをした後、リビングへ戻った。
いつの間にか戻ってきていたロンが、ソファで寛いでいるたつろーさんとジェミに、アイスコーヒーを渡している。
「お嬢様には、冷たいハーブティーをご用意してございますよ」
「ありがと、ロンもみんなと一緒に、ちょっと休んでよ。
長距離の運転、ありがとうね。疲れたでしょ?」
「ありがとうございます。あれくらいの運転では疲れはいたしませんが、お言葉に甘えて、わたくしも冷たいお茶を持って参ります」
「うんうん」
私はロッキングチェアに揺られながら、夕闇に染まっていく庭のヒマワリを眺めていた。留守を守ってくれていた金魚たちの水槽に落ちる水の音が、コポコポとこの空間に聞こえている。
「夕食まで、まだ時間もあるから、先に風呂を済ませてくるか?」
「うん、そうしようかな」
ハーブティーを飲み終えて、うーんと伸びをした後、まだ眠っている式神たちを抱き上げて、バスルームへと向かった。
「ピピっ……れなサマ……? お家着いたっピ?」
「うん、先にお風呂済ませちゃおうね。それから晩ご飯よ」
「私としたことが、ぐっすり眠ってしまいました……キュィ」
「うにゃ~、れなサマの抱っこ、気持ちいいのニャ……」
「翠も、ティアも、一緒にお風呂済ませちゃうからね」
「にゃ!? お風呂っ!? イヤにゃ! 入らニャい!!」
「翠、バブルでティアを包んじゃって!!」
「キュイ~! ティア、きれいにして温まって寝た方がよく眠れるぞ」
「ぎにゃぁぁ!! 翠! 裏切り者ぉぉぉ!!」
バスルームからの喧騒に、ジェミはふっと笑い、持ち帰ってきた地図をたつろーさんと一緒に広げて、改めて眺めていた。
「ジェミよ、これだけ広がっていては、今更、慌てて動く必要はあるまい」
「ああ、そうだが……たつろー殿は、しばらく同行してくれるのか?」
「おぬしたちがよければ、ここに置いてもらおうかのぅ。ふぉふぉふぉ」
「ふむ、了解した。ロン、ゲストルームをひとつ整えてくれるか」
「かしこまりました。たつろーさま、しばしお待ちください」
ロンはそう言い残すと、三階のゲストルームを整えに向かった。
ぐったりしたティアを抱き上げて、バスルームから戻ると、リビングでイケメンとイケオジが、地図を眺めている姿を見て、悶えてしまった。
「うわぁ……なに、この目の保養空間は……尊い……」
「れなサマ、心の声がダダ漏れです……キュイ」
「いや~、でもあのふたりが並ぶと、花を背負ってるみたいに眩しいッピ!」
「ソラリスは、まだ眠ってるのニャ? ニャんか腹立つニャ……」
「ティア、それって八つ当たりッピよ」
クスクス笑いながら、ソラリスを果物カゴで作ったベッドに移して、ソファに座った。
「ふたりとも、難しい顔して地図とにらめっこして、どうしたの?」
「うむ、今、ジェミとも話しておったのじゃ。日本全土にここまで広がっているのだから、今更、慌てて動く必要はないのではないか、とな」
私はその地図を改めて見つめてみる。
「ん? この地図……」
「どうした? 何か気になる場所でもあるのか?」
「……この黒い染み……動いてる」
「は!? なんじゃと!?」
「ほら……ここ……生きてるみたい」
私が指さしたところの黒い染みは、まるで脈を打っているかのように、微かにうごめいていた。それは、背筋が薄ら寒くなるような、不気味で不快な感覚を与えてくる。
「なるほど、この地図はリアルタイムに、黒ヘドロを反映するのか」
「ここも……息してるみたいに動いてる」
「濃くなったり、薄くなったりしておるのぅ」
「うん……都会とか郊外とか、関係ないみたい」
「しかし、今以上に広がる様子はなさそうだな」
「……うん」
「数日休みをとってから、動いたとしても問題はないだろう」
「うむ、ワシもそう思うぞ。どうじゃ? れな」
「そうね、帰ってきたばかりだものね……」
「れなサマっ!! 晩ご飯にするっす!!」
眠っていると思っていたソラリスが、突然後ろで叫んだ。
「きゃああ! ビックリした!! いつ起きたのっ!?」
「今っす! 晩ご飯の時間っす!!」
「お前は食べることしか頭にないのか」
ジェミは呆れて溜息をついた。
「お嬢様、今夜はお庭でバーベキューにいたしましょう。既に準備は整っております」
庭を見ると、既に炭に火が入り、パチパチと爆ぜていた。
「よし! 地図は一旦ここまでじゃ!!
しっかり肉も野菜も食って、今夜は無事に帰宅したことを祝おうではないか!!」
「わーい!! バーベキューぱーちーっすね!!」
ロンはすでに、野菜と肉をたくさん焼き始めてくれていた。
「れな、行こう」
ジェミが手を差し出す。
「うん!」
その手を取ろうとしたら、なぜかソラリスがその間に挟まった。
「お前、何でそこに挟まる」
「偶然っす!! 通り抜けようとしただけっす!!」
「……っぷ! ぷはは……あはははは!!」
私がお腹を抱えて笑うことで、みんなに笑顔が伝染していった。
ひとしきり笑い終えて、改めてジェミに手を引かれて、庭へ出た。
夜の帳が降りた空には、いくつもの星々と、細い月が浮かんでいる。
けれど、まだどこか昏くなりきっていない空が、夏の終わりが近いことを教えてくれていた。
――帰ってきた。
これが私の……私たちの家。私の家族。
そう思えた時間だった。
「お肉、やわらかいっす~!! うまうまっす~~!!」
口の周りにソースをいっぱいつけて、ソラリスがバンザイしている。
ティア、エルピー、翠たちも、好きな野菜やお肉を食べている。
私はそれを、ぼんやりと微笑みながら見つめていた。
「れな、どうした? もっとしっかり食べろ」
ジェミはそう言って、野菜とお肉を取り分けてくれた。
「こんなにたくさん、もうお腹いっぱいだよぅ」
「肉を食わないと、力が出ないぞ? ほら、お前の好きな厚切りの牛タンだ。
レモンを搾って、塩でサッパリいけるはずだ」
きゅっとレモンを搾って、パラパラと塩を振りかけた後、私が食べるのをじっと見つめている。
「わ、わかったからぁ。そんなに見つめてたら食べられないでしょ~」
「れなサマ、要らないんだったら、ワタシが食べるっすよ!!」
「お前のは、こっちにあるだろう」
ジェミの手刀が、ソラリスの後頭部を直撃する。
前につんのめたソラリスが、ふと屋敷を見上げて言った。
「それにしても、れなサマのこのお家、すごく大きくて広いっす。
ずっとここに、ひとりで住んでたんすか?」
今、住んでいるこの屋敷は、一般的な家に比べるとかなり広い。
古い洋館風の建物は、地上三階、地下一階あり、部屋数もちょっとしたペンションになるくらいの数がある。
さらに、裏庭が後ろの山に繋がっている上に、屋敷側の山の半分までが私有地だった。
広い庭には山から下りてきた清流が、小さな天然の池を作っている。
四季折々の花々が咲き乱れる庭には、いくつかの東屋や噴水まであった。
実はここは、もともと、この土地の名士が持っていた別荘地だったのだ。
「ん~、ここに越してきたときは、もうロンが居てくれたんだけどね」
その言葉に、ジェミの眉がピクッと反応する。
「この広いお家に、ロンとふたり暮らしだったっすか~」
「それにしても、どうしてれなは、この屋敷に越してきたんじゃ?
まさか、その若さで、こんな広い家を買うたわけではあるまい……?」
「あ~……一応、私の家だよ。私が買ったの……」
「……は? なんだと!?」
その私の言葉に、ジェミとたつろーさんが同時にこちらを見る。
「待て、れな。このエリアで、この規模の土地と建物だぞ?
数億にはなるはずだ……お前、どうやって買ったというんだ……」
「あはは、え~っと、話すと長くなるんだけどね……」
私はこの屋敷を手に入れた経緯を、掻い摘まんで話すことにした。
あの日の出来事を思い出しながら、ぽつりぽつりと話し出す。
いざ話そうとすると、少しだけ照れくさいような、不思議な気持ちになる。
「あの日は小雨が降ってたの。
用があって駅に向かって歩いてたとき、前にいたおばあちゃんを助けたの。
ひったくりに遭って、バッグを取られた勢いで車道に倒れちゃってさ、車に轢かれそうになって、危なかったから……」
「……それで?」
「え~っと、お店から出てきた人に、おばあちゃんと私の荷物を預けて、犯人追いかけて捕まえた」
「どうやって……」
「回り込んで、背負い投げして、荷物取り返した」
「…………」
「そ、それに、ちょうどコンビニの前だったから、警察呼んでもらって。
そのあと戻ったら、おばあちゃんが捻挫したみたいで、動けなくなってたから救急車呼んでもらって、病院まで付き添って、診察代払って帰った」
「――待て」
ジェミが低い声で遮った。
「お前、それだけのことをして、そのまま帰ったのか?」
「うん?」
「……うん? ではない」
「え? なんか足りなかった? おばあちゃん、ちゃんと意識あったよ?
怪我も捻挫だけで、家族の方がすぐに迎えに来るっておっしゃってたし。
じゃあ、私はもうすることないな~って思って。
看護師さんに後は任せて、帰ったの」
「いや、おぬし……そこじゃないじゃろ……」
ジェミとたつろーさんは、呆れたような顔で私を見つめていた。




