第103話:Homeward ―お家に帰ろう、みんなで―
阿蘇の神域に、清らかな朝の光が差し込んでいた。
夜更けまで続いた宴の余韻を残しながらも、大広間にはすでに朝餉の膳が整えられている。
炊きたての白米に、香ばしく焼かれた山女魚。
湯気の立つ味噌汁と、瑞々しい高菜漬け。
れなたちは健磐龍命を囲み、阿蘇で迎える最後の食卓を楽しんでいた。
「んんっ! お米が甘くて、美味しいっすぅぅぅ!」
「そなたは昨夜、あれほど食べたであろう」
「朝ご飯は別腹っす!」
「その小さな身体の、どこに入っておるのだ……」
呆れたように呟きながらも、焔は自分の隣で山盛りの飯を頬張るソラリスへ、焼き魚の半身を分けてやった。
「焔ぁぁ……!」
「その顔をやめろ。食べにくい」
「大好きっすぅぅぅ!」
「抱きつくな!!」
賑やかなやり取りに笑いながら、れなは湯呑みへ手を伸ばした。
そのとき――
朝の光を受け、左手の指輪がきらりと輝いた。
「……れなさま。その指輪は?」
真っ先に気づいたのは、暁だった。
「えっ!? あっ……」
れなが咄嗟に手を引こうとするより早く、昴と焔の視線も一斉に左手へ集まる。
「昨夜は、つけておられませんでしたよね?」
「もしや、宴の後に……?」
「しかも、左手ではないか!!」
三羽の視線が、れなの中指へ釘づけになった。
次いで、示し合わせたように、少し離れた席に座るジェミへ向けられる。
「……こ、これは、ジェミが……兄ちゃんがくれたの」
「ほう!」
「ジェミさまが!!」
「昨夜、お二人で神苑へ消えたかと思えば……!!!」
焔たちの翼が、ざわざわと騒ぎ始める。
周囲にいた者たちまで箸を止め、れなの左手を覗き込んだ。
「……しかし、なぜ中指なのです?」
「そこです! なぜ、あと一本ひだ――!?」
「暁、それ以上はいけませんっ!」
「ですが、あえて中指ということは、まだその段階には至っておらぬということでしょうか!?」
「ジェミさま! これはいったい、いかなる御決意で!?」
次々に浴びせられる問いにも、ジェミは顔色ひとつ変えなかった。
「――御守りだ」
「御守り……!?」
「れなを守る加護を埋め込んだ。
常に身につけられるものとして、指輪を選んだだけだ」
「……だけ……」
「左手の中指には、創造と信頼、良き縁を招く意味がある。
これからのれなに、最も相応しい」
あまりにも真顔で答えるジェミに、三羽は揃って言葉を失った。れなは真っ赤になったまま俯き、ロンとソラリスは、黙々と朝餉を口へ運んでいる。
三羽だけではない。
その場にいた全員の視線が、れなの中指から、その一本左隣へと静かに移った。
(はぁっ!?
そこまで調べて、昨夜、二人きりの神苑で指輪を渡して――なぜ中指なのだ!?)
(ご本人は百点満点のつもりで、決定的な一点を外していることに気づいていないのかっ!?)
(なんという!! ……唐変木の朴念仁かっ!!)
「……ふたりとも、昨夜は覗いていたの知ってるニャ」
ティアが小声で、ソラリスとロンに尋ねる。
「見てたっす……」
「ええ。最後まで……」
「では、何か知ってるッピ?」
エルピーが身を乗り出し、翠も黙ったまま耳を澄ませる。
ソラリスとロンは、一度だけ顔を見合わせた。
「……ヘタレだったっす」
「はい。この上なく、ヘタレでした」
「聞こえているぞ、お前たち」
ジェミの低い声が響き、二人は同時に視線を逸らした。
「ええい、もう皆まで申すな!」
それまで黙って成り行きを見守っていた健磐龍命が、わざとらしく咳払いをする。
「んんっ、ゴホンっ……察してやれ…………ぷふっ」
大広間に、束の間の沈黙が落ちた。
しかし、健磐龍命が堪えきれずに洩らした半笑いは、その場にいた者たちへ次々と伝染していった。
「なんでみんな、そんな顔するのぉぉぉ!?」
れなは真っ赤になりながら両頬を押さえた。
照れ隠しの悲鳴が、朝の神域いっぱいに響き渡る。
それと同時に、半笑いは大笑いへと変わっていった。
そんなれなを横目で見ながら、
ジェミの口元も微かに緩み、柔らかな弧を描いていた。
賑やかな朝餉を終えると、れなたちは帰り支度を整え、再び神殿の前へと集まった。
昨夜の宴から一転、澄み渡った朝の空気の中に、別れを惜しむような静けさが漂っている。吹き渡る風の中には、仄かな秋の気配すら感じられるようだった。
健磐龍命の傍らには、焔、暁、昴の三羽が並んでいた。
「もう、出発なんすね……」
ソラリスが、大きな目をしょんぼりと伏せる。
「昨夜も今朝も、あれほど騒いでおいて、まだ足りぬのか」
「ぜんぜん足りないっす! 焔たちとは、もっといっぱい遊びたいっす!!」
「遊んでいたのではない。そなたが一方的に絡んできたのだ!」
「同じことっす!」
「どこがだ!!」
いつもの調子で言い合う二人に、暁と昴が翼を震わせて笑う。
れなもつられて笑いながら、三羽の前へ歩み出た。
「焔、暁、昴。本当にありがとう。今度は、ゆっくり遊びに来るね」
「はい。いつでもお待ちしております」
「次にお越しの際は、我らが阿蘇をゆっくりとご案内いたしましょう」
「れなさま。どうか、この先もご無事で……」
昴が、れなの胸元へ視線を向ける。
そこには、以前に託した白銀の羽根と、瓊瓊杵尊より授けられた御標。
そして、阿蘇の神々より加護を受けた擁焔珠があった。
「うん。みんながくれたものが守ってくれる。それに――」
れなは左手の指輪へ触れかけ、慌てて手を引っ込めた。
その場にいた全員の口元へ、再び生温かな笑みが浮かぶ。
「もう! その顔、やめてってばぁぁぁ!!」
「……何を照れている」
「兄ちゃんのせいでしょぉぉぉ!!」
まるで理解していない様子のジェミに、ロンとソラリスが揃って深いため息をついた。
「さて――」
健磐龍命の声に、一同が姿勢を正す。
「そなたたちは、これより福岡へ戻り、まずは現世の異変を探るのであったな」
「はい。私がこれまでに結んできた神縁と仏縁を、ひとつずつ辿ってみます」
「うむ。だが、焦ることはない。長き旅を終えたばかりだ。
まずは皆で、無事に帰ることを考えよ」
厳しくも温かな眼差しが、れなたち一人ひとりへ向けられる。
「異変があれば、我らからも知らせを送ろう。
そなたたちは、決して独りではない。
阿蘇の地も、我らも、常にそなたたちと共にある」
「健磐龍さま……」
れなたちは揃って、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました!」
「うむ。またいつでも戻ってくるがよい。
ここもまた、そなたたちの帰る場所なのだからな」
その言葉に、れなの胸が温かく満たされる。
福岡だけではない。
阿蘇にも、自分たちの帰りを待ち、「おかえり」と迎えてくれる者たちがいる。
旅の中で結んできた縁は、立ち去れば消えてしまうものではない。
これから歩む道を照らし、いつでも帰る場所へと繋いでくれるものなのだ。
「ソラリスさま」
不意に焔が声をかける。
「なんすか?」
「……別れの挨拶くらいならば、その……許してやらぬこともない」
「えっ!?」
焔が照れたように翼を広げる。
その意味に気づいたソラリスの顔が、ぱっと輝いた。
「焔ぁぁぁ!!」
「待てっ! 勢いをつけるな!!」
「大好きっすぅぅぅ!!」
「ぐおっ!?」
真正面から飛びついたソラリスを、焔が今度こそ翼で受け止める。
暁と昴もその傍へ寄り添い、四人はひとかたまりになったまま、しばらく離れようとしなかった。
その隣では、あそさんとたつろーさんが、固く握手を交わしていた。
「京の、世話になったな……」
「それはお互い様じゃ。阿蘇の」
「力が必要なときは、いつでも呼んでくれ」
「ああ、そなたもな。ワシもいつでも駆けつけようぞ」
イケオジふたりが、ニヒルな笑顔で互いの絆を確かめ合っている姿に、れなは思わず、心の声がダダ漏れになってしまう。
「ねえ、あそさんとたつろーさん、私の前ではもうずっと、その人の姿のままでいてよ」
「わははは! この姿が気に入ったか、れな!!」
「おぬしは本当に面食いじゃのぉ……ふぉふぉふぉ」
「あそさん、あらためて、今回は本当にいろんな事、ありがとう」
「こちらこそだ。数千年ぶりに新しい結縁が生まれた。感謝する!」
擁焔珠が再び、れなの手首で淡く勾玉の形に輝いた。
やがて、名残を惜しんでいた面々が離れると、健磐龍命は神殿へ向けて右手を掲げた。
朝の光に満ちた空間がゆらりと揺らぎ、阿蘇神社へと続く道が現れる。
「さあ、行くがよい」
「はい!」
れなはもう一度、健磐龍命と三羽へ深く頭を下げた。
ジェミたちもそれに倣い、別れの礼を告げる。
「それじゃあ、みんな。またね!」
「れなさま! 皆さま! どうかご無事で!」
「またお会いできる日を、楽しみにしております!」
「福岡まで、気をつけてお帰りください!」
三羽の声に見送られながら、れなたちは光の道へと足を踏み入れた。
最後まで振り返って手を振っていたソラリスの姿が光に包まれ、やがて八人の姿が見えなくなる。
それを見届けると、健磐龍命は静かに目を細めた。
「……次に戻るときには、また少し、大きくなっておるのであろうな」
「れなさまが、ですか?」
昴が尋ねると、健磐龍命は小さく笑った。
「今回出逢った皆が、だ」
眩い光が収まり、れなたちが目を開くと、そこは朝の阿蘇神社だった。
境内には清々しい空気が満ち、参道を歩く参拝者の姿も見える。
先ほどまでいた神域への道は、すでに跡形もなく消えていた。
「……戻ってきたね」
「ああ」
れなが振り返り、静かに佇む社殿を見つめる。
そのとき、澄み渡った空から、三羽の鷹の声が響いた。
「あっ!」
見上げると、真紅、黄金、白銀の光が、青空を大きく旋回している。
――焔、暁、昴だ。
「焔ぁぁぁ! 暁ぃぃぃ! 昴ぅぅぅ!」
ソラリスが、短い両腕をちぎれんばかりに振る。
三羽はそれに応えるように、れなたちの頭上で大きな輪を描きながら、名残惜しげに何度も旋回した。
やがて阿蘇の山々へ向かい、朝の光の中へ溶けるように、その姿は見えなくなっていった。
「……行っちゃったっす」
「また会えるよ」
「ほんとっすか?」
「もちろん。だって、阿蘇も私たちの帰る場所になったんだもん」
れなが微笑むと、ソラリスの大きな目に、いつもの輝きが戻った。
「それじゃ、またすぐ帰ってくるっす!」
「すぐは困りますよ。先方にも都合というものがございます」
「ロンは細かいっす!」
「ソラリスが無計画すぎるのです」
ロンの肩に乗ったソラリスは、駐車場へ向かう間も言い合いを続けている。
れなたちは、そんな二人の後を笑いながら追った。
そこには、長い旅をともにしてきた漆黒のファントム号が、朝の光を受けて静かに待っている。ロンは後部座席の扉を開けると、いつものように恭しく一礼した。
「どうぞ、お嬢様」
「ありがとう、ロン」
れなが乗り込むと、その隣にはジェミが腰を下ろした。
ソラリスと式神たちも、後に続いて車内へとなだれ込む。たつろーさんは助手席へ乗り込み、全員が席に着いたことを確認すると、ロンは運転席へ回った。
「それでは、福岡へ向けて出発いたします」
「うん。今度こそ、本当に帰ろう!」
ファントム号が静かに走り出す。
れなが窓の外に広がる阿蘇の山々へ手を振ると、その左手を飾る指輪が、陽の光を受けてきらりと輝いた。隣に座るジェミが、その光へ目を留める。どこか満足そうに、口元を緩めた。
「……何?」
「いや。似合っていると思っただけだ」
「――っ!?」
れなの頬が耳まで赤く染まる。
「事実を述べただけだが?」
「そういうところっすよ、ジェミ兄ちゃん」
「まったくです」
運転席のロンまで、バックミラー越しに同意する。
「誰がジェミ兄ちゃんだ。お前たちは黙っていろ」
助手席のたつろーまで肩を揺らし、再び車内が笑い声で満たされる。
阿蘇の山々に見送られながら、ファントム号は福岡へと続く道へ入った。
「さあ――みんなで、お家に帰ろう!」
れなの声に、賑やかな返事が重なる。
――長い旅の終わり。
そして、新たな日常の始まりへ向けて――
八人を乗せた車は、眩しい朝の光の中を駆けていった。
[ 第二章 完 ]




