第102話:Amulet ―帰る道を照らすもの―
「なるほど……そういうことであったのか」
健磐龍命は低く呟くと、御前に広げられた一枚の地図へ、改めて目を落とした。
霧島神宮を発つ際、瓊瓊杵尊より託されたものだった。
日本列島を覆うように記された、黒い澱みの分布。
その濃淡は各地で異なるものの、悪意の残滓が、すでに九州だけに留まらぬことを示している。
悪意の残滓――。
意志を持たぬはずのそれが、なぜ神々を侵し、龍脈を縛り、これほど広く日本中へ蔓延しているのか。
れなは地図を見つめたまま、静かに息を呑んだ。
「……待ってください。龍脈を縛るってことは、地脈を縛るってことですよね?」
「うむ……」
健磐龍命の眼差しが、わずかに鋭さを増す。
「地の力を滞らせ、その巡りを封じることに等しい」
「でも、悪意の残滓そのものには、意志がないはずです。
そんなものが、自分から龍脈を狙って集まるでしょうか」
神殿に、重い沈黙が落ちた。
ジェミもまた、地図に記された黒い分布を見つめる。
「偶然ではない可能性がある。何者かが、悪意の残滓を利用している、ということか?」
「……うむ。そう考えれば、辻褄は合う」
健磐龍命は低く答えた。
「だが、今はまだ推測に過ぎぬ。操る者がいるのか。いるとすれば、それが何者で、何を目的としているのか。それを知るには、あまりにも手掛かりが少ない」
「素戔嗚尊さまからは、現世だけでなく、三界の様子も調べるようにと言われています」
れなが告げると、健磐龍命は驚くことなく、深く頷いた。
「……やはり、そうか」
「健磐龍さまも、そうお考えだったんですか?」
「この穢れが、人の祈りを悪用して、地の巡りにまで干渉しているのならば、その影響が現世のみに留まるとは限らぬ。目に見えぬ世界にも、すでに何らかの異変が生じていると考えるべきであろう」
れなは唇を引き結び、もう一度、地図へ目を落とした。
調べるべき場所は、あまりにも広い。
現世だけでも日本各地に及ぶというのに、そのうえ三界までとなれば、どこから手をつければよいのか。
「――まずは福岡へ戻れ」
迷いを見透かしたように、健磐龍命が告げた。
「そなたたちが日々の暮らしを営む地であり、これより先の足場となる場所だ。
まずは現世で何が起きているのか、そこから探るがよい」
「でも……どうやって?」
「そなたが、これまでに結んできた縁を辿るのだ」
「私の縁、ですか……?」
「神縁、仏縁。
そなたはこれまで、数多の神仏と心を通わせ、その加護を受けてきたのであろう」
健磐龍命の声が、穏やかに神殿へ響く。
「縁とは、ただ守られるためのものではない。互いを繋ぎ、声を届け、異変を知らせる道ともなる。まずは福岡の地で、そなたと縁を結ぶ神仏を訪ねよ。その声を聞き、異変の兆しを集めるのだ」
「私が結んできた縁を……道にする」
「うむ。そなたは、人と神仏、現世と目に見えぬ世界を繋ぐ橋。
その縁を辿れば、おのずと進むべき先も見えてこよう」
すべてを一度に調べる必要はない。
自分たちの帰る場所から、これまで結んできた縁を、ひとつずつ辿っていけばいい。
「……わかりました。まずは福岡に戻って、現世の状況を調べます!」
れなの返答に、健磐龍命は力強く頷いた。
「うむ。頼もしくなったものよ」
厳しかった眼差しが、そこでふっと和らぐ。
「それにしても――瓊瓊杵様も、随分と気前のよいものを託したようだな」
その視線が、れなの胸元へと移った。
六芒星の中央。
そこに収められた小さな八角の鏡が、見つめ返すように、淡い光がもう一度だけ脈打った。
「これは、瓊瓊杵さまからいただいた御標です。
私たちが、名代であることを示すものだそうです」
れなが胸元のペンダントへ触れる。
それに倣い、ジェミはタイピンを、ロンは襟元のラペルピンを示した。
最後にソラリスが、得意げに首輪を指差す。
「ワタシのは、これっす!」
「ほう。それぞれに合わせて姿を変えたか」
健磐龍命が感心したように目を細めた、そのときだった。
四つの御標が、一斉に光を放つ。
呼応するように、れな、ジェミ、ロン、ソラリス――
そして、たつろー、ティア、エルピー、翠。
それぞれの身に宿っていた擁焔珠が、淡い炎を纏って姿を現した。
「おお……!」
八つの珠から放たれた光が宙で結ばれ、ひとつの輪を描く。
黄金に煌めく御標の鏡と、阿蘇都比古こと、あそさんより授けられた擁焔珠が、互いの存在を確かめ合うように明滅する。
やがて八つの珠の内側に、灼熱のマグマを思わせる黄丹色の炎が灯った。
「阿蘇都比古の珠が、天孫の御標に応えたか」
健磐龍命は立ち上がると、八人へ向けて右手を掲げた。
「龍神より授けられしその珠、しかと見届けた。ならば阿蘇の主神として、我が神威を重ねよう。火はそなたらの魂を奮い立たせ、大地はその歩みを支えん」
朗々たる声が響いた瞬間、足元から、阿蘇の大地を思わせる代赭色の光が立ち昇った。
それは八人を包み込み、それぞれの擁焔珠へと吸い込まれていく。黄丹色の炎を包み守るように、代赭色の光が幾重にも巡った。
「これより先、いかなる穢れの中へ赴こうとも、阿蘇の火と大地が、そなたらの帰る道を照らすであろう」
八つの擁焔珠が、感謝とその使命を伝えるかのように強く輝く。やがて光が静まると、健磐龍命は、れなの胸元にある八角の鏡と、八人の珠を順に見渡した。
「天孫より授けられし鏡。そして、阿蘇都比古が授け、我が加護を重ねし勾玉……」
何かを悟ったように、ゆっくりと顎へ手を添える。
「これで鏡と勾玉が揃った。残るは――剣か……」
「剣……ですか……それはどこで……」
れなが聞き返すと、健磐龍命は思案するように目を細めた。
「いや。今はまだ、巡り合わせに過ぎぬ。
いずれ時が満ちれば、その意味も場所も、明らかになろう」
それ以上は語らず、健磐龍命は地図を静かに畳んだ。
「さて、堅苦しい報告はここまでとしよう。
そなたたちの帰還を、今か今かと待ちわびていた者どもがおるのでな」
「待ちわびていた者……?」
そのとき、神殿の外から、慌ただしく羽ばたく音が聞こえてきた。
最初に飛び込んできたのは、火の粉を散らす真紅の翼。
その後を追うように、黄金と白銀の光が神殿を駆け抜ける。
「お戻りを、お待ちしておりました!」
三つの声が、喜びに弾んだ。
「焔! 暁! 昴!」
れなが立ち上がる。
三羽の兄弟鷹は、その頭上を大きく一周すると、れなたちの前へ舞い降りた。
「皆さま、よくぞご無事で!」
先頭に立った焔が、炎の翼を誇らしげに広げる。
「霧島でのご活躍は、すでにお館さまより伺っております。
ご無事の帰還、何よりです。れなさま!」
暁は穏やかに告げながらも、稔る稲穂を思わせる理知的な瞳を、嬉しそうに細めていた。
「れなさま、みなさま! お帰りなさいませ!!」
最後に昴が深々と頭を下げる。
清流水を纏う白銀の翼が、懐かしい輝きを放った。
「うん。ただいま! みんなも元気そうでよかった!!」
れなは荷物から、大切にしまっていた一枚の羽根を取り出した。
「ほら。昴にもらった羽根、ちゃんと持ってるよ」
「……今も、大切にしてくださっているのですか」
「もちろん!」
昴の白銀の羽毛が、感極まったようにふるりと震えた。
次の瞬間――。
「焔ぁぁ! 暁ぃぃ! 昴ぅぅ! 会いたかったっすぅぅぅ!!」
両腕を広げたソラリスが、三羽めがけて勢いよく飛び込んだ。
「ぬおっ!?」
「ソ、ソラリスさま!?」
「危のうございます!!」
三羽が一斉に飛び退き、行き場を失ったソラリスが、そのまま床へ盛大に滑り込む。
「よ、避けるなんて、ひどいっすぅぅぅ!」
「その勢いで来られれば、避けるほかあるまい!」
焔の抗議に、暁が困ったように翼を下げ、昴は慌ててソラリスのもとへ駆け寄った。
先ほどまでの厳粛な空気は、見る影もない。
「ふっ……。相変わらず、賑やかな者たちよ」
健磐龍命は喉の奥で笑うと、ゆっくり立ち上がった。
「話したいことは、まだ山ほどあろう。続きは宴の席で聞くがよい」
「宴っすか!? 美味しいご飯っすね!?」
床に転がっていたソラリスが、勢いよく顔を上げる。
「うむ。無事に帰還したそなたたちを迎えるため、すでに支度を整えさせておる」
「やったぁぁ!! 大宴会っすぅぅぅ!!」
「現金なやつだ」
ジェミが呆れたように零すと、神殿に朗らかな笑い声が広がった。
厳粛な報告の時は終わった。
ここからは、命を懸けた旅を終え、再び阿蘇へ帰ってきた家族を迎える幸せな時間だった。
案内された大広間には、すでに山海の幸が所狭しと並べられていた。
阿蘇の大地が育んだ肉や野菜、清らかな水で炊かれた米。
色鮮やかな料理の数々から、湯気とともに芳しい香りが立ち昇っている。
「それでは、皆の無事の帰還と、霧島での働きを祝して――乾杯!」
「かんぱぁぁぁい!!」
健磐龍命の声に、賑やかな唱和が重なった。
焔たちは、れなたちが霧島で体験した出来事を聞きたがり、次から次へと問いかけてくる。九頭龍との戦いや、瓊瓊杵尊に正座で説教した話に驚き、温泉で起きた騒動には、三羽揃って翼を震わせて笑った。
一方、ソラリスは料理を両頬いっぱいに詰め込みながら、焔と最後の一皿を奪い合っている。
「それ、ワタシが狙ってたやつっす!」
「宴の料理は早い者勝ちだ!」
「神使が大人げないっすぅぅぅ!」
「そなたにだけは言われたくない!」
たつろーたちもそのやり取りを眺めながら、楽しそうに笑っていた。
笑い声の絶えない宴は、夜が更けるまで続いた。
宴は、夜が更けても終わる気配を見せなかった。
すでに酔い潰れ、気持ちよさそうに眠っている者。まだ足りぬとばかりに、ひたすら料理を平らげ続ける者。霧島での武勇伝を肴に、何度も杯を交わして笑い合う者。
神域の夜には、途切れることのない笑い声が響いていた。
れなは火照った頬を冷まそうと、賑わう大広間をそっと抜け出した。
回廊を進むにつれ、背後の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
一歩、神苑へ足を踏み入れると、そこには先ほどまでとはまるで異なる、静まり返った夜が広がっていた。
澄んだ空には、大きく天の川が広がり、そこには無数の星々が瞬いている。
木々の隙間から差し込む月明かりが、石畳を淡く照らしていた。
「ふぅ……ここは静か……」
れなは小さく呟くと、夜空を仰いだ。
長かった旅が、ようやく終わった。
全員で無事に戻ってこられたのだと思うと、張り詰めていたものが、今になってゆっくりとほどけていく。
そのとき、背後から静かな足音が近づいてきた。
「こんなところにいたのか」
振り返ると、月明かりの下にジェミが立っていた。
「ちょっと、夜風に当たりたくて。兄ちゃんも宴、抜けてきたの?」
「ああ。お前に渡したいものがあってな」
「……私に?」
ジェミはれなの前まで歩み寄ると、懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開いた瞬間、月の光を受けて、ひとつの指輪が静かに煌めく。
「え……指輪?」
「御守りだ」
「……指輪を御守りって言う人、初めてなんだけど……」
「常に身につけていられるものを選んだだけだ。何か問題があるのか?」
「……いや、ないよ……ないけど……」
どう見ても指輪だった。
れなが戸惑っていると、ジェミはその左手を取った。
「霧島では、何度もお前を失いかけた。
俺の目が届かない時でも、これがお前を守るように、加護を込めてある」
そう告げると、迷うことなく指輪を中指へ滑らせた。
「……あれ? ……中指、なの?」
「人の世では、創造と信頼、良き縁を招く指だと聞いた。お前には相応しいだろう」
「……な、なるほど。そこまで調べてくれて……?」
左手に収まった指輪を見つめるうちに、れなの頬が再び熱を帯びていく。
「……ありがとう、兄ちゃん。大切にする」
「ああ」
重ねた手を離さないまま、二人はしばらく見つめ合った。
少し離れた木の陰では、同じく宴を抜け出してきた二人が、その様子をこっそりと覗いていた。
「……ヘタレっすね」
「ええ、ヘタレですね……」
静まり返った神苑に、ソラリスとロンの呟きだけが、やけにはっきりと響いた。




