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マルセルの愛称はマール。
本人ものっそい不本意。
ニコレッタはトランペットスリーブの袖がたおやかな、ペールヴァイオレットのドレスの裾を揺らす。
「マールったら。侯爵とあまり絡みがなくって母は不満だわー」
「不満だわー、じゃないです!」
屋敷に帰ってぐったりすること暫し。夕刻の団欒室、のほほんと帰ってきたニコレッタにマルセルは噛みつかんばかりに責め寄った。
「僕が奴に血をくれてやるのも条件に入っていたんですか!」
「あら?ないわよそんなの。あれはマルセルが厚意で差し上げたのでしょう?」
「っ……!」
ふぎゃー!!と叫びだしたかった。
そう、マルセルはゼストレイドに血をやった。無論、首からチューチューと吸う行為を許したわけではない。そんなものは最愛の姉以外にさせる気はないマルセルなので、仕方なく、本当に渋々、指の先をテーブルにあった果物ナイフでちょっと裂き、空のティーカップに血を受けてくれてやったのだ。
彼はさも当然のように血を待っていたので、母とそれで手打ちがされているのかっ、と早合点した己が憎かった。
あまつさえゼストレイドは「献血をありがとう。ではこれは増血の足しに私から」などとブっこいて、あの例のクッキーをマルセルに“あーん”で食べさせたのだ。輝くような笑顔で。
マルセルは母の要求をよくよく心得ていたので甘んじて口にした。結界は解除した後だったので、どこからか確り見ていたのだろう。しかもその直後、吸血野郎に盛大にハグされた(マルセルとしては抱きしめられたなどという表現はおぞましくて間違っても使いたくない。その表現が似つかわしいのは最愛の姉以外以下略、である)
人払いされている筈なのに何故か黄色い叫び声が複数聞こえたが、彼女等の口に頑健な戸が立っていることを願いたい。むしろ彼等の主人が手ずから口封じをしてくれていれば有り難いことこの上ないのだが。
「辺境伯如きにまで舐められた、ということか……いや、僕の脇が甘いのか。ならば徹底的に隙はなくさなければ」
ぐっ、と奥歯を噛みしめて決意するマルセル。
ニコレッタはゆったりと肘掛けに凭れながらマルセルに言った。
「そうね、そうして頂戴。今日の貴方を見ていると、お見合い相手の何方かにうっかり美味しく頂かれたあげく……お姉ちゃんが哀しみそう」
そんなのは不本意よ、とぽそりと呟いた母は、感情のない瞳をしている。
なんやかやと無茶無謀をばら撒く母だが、愛情豊かで朗らかな、愛すべき夫人である。その彼女が今のような瞳を見せるのを、マルセルは過去に一度―――姉がこの世界に突然現れた「あの時」に見たことがある。
マルセルは覚えている
“わたしは、あの世界には、もう、意味のない者のようなので、こちらに参りました“
姉は血だらけの身体でそう言った
人間の世界からこの魔界へ「自分の意志で」来るには、命と魂を賭けてくるだけの魔力と準備、覚悟が必要だ。興味本位でやれば派動の歪みに呑み込まれ存在すべてが消滅するし、覚悟があっても力と完璧な準備がなければ「こちらに着いたら手足がなかった」「首がない死体だけが出現した」などという、悲惨な結末をみた事例が少なからずある。
マルセルは外交関係の過去の書類全般にひと通り目を通しているので、自国に限らず、他国で報告されている異界転送の失敗状況を知っている。
母はもっとよく知っていただろう。実の弟が人の女性と暮らすと決め、人間界へ渡ったのだから。
此方から彼方へ行くのは簡単だが、戻るのは至極困難だ。ごく稀に偶発的に出来る“転移の穴”にでも落ちない限り、二度と会えない可能性が高い。
そして恐らく、此方へ来る方法を姉に教えた父――彼女の弟は、「娘が死んで消滅するかもしれない」ことを承知していただろう。
マルセルが知る叔父は、母と同じく、情に溢れた男だった。
甥のマルセルもよく遊んでもらった。
愉しい人だった。
あの人が姉を可愛がらない筈はない。
―――――姉にそんな危険な異界転送をさせたもの。させた人。させた環境。世界。
マルセルは、それについて詳しく聞いたことはまだない。姉が自ら己に話してくれるのを待つつもりでいる。ただ母は、父と二人で姉の話を聞いた後、あの感情のない瞳をしてマルセルに言った。
「あの子は私達の家族になるために来てくれた。でなければ―――――」
「姉上を哀しませる?そんな愚かしい真似を、万一、虚を突かれたとしても、この僕がすると?」
微笑んで自分と似た母の貌を見るマルセルに、ニコレッタは正しく「にやり」という表現が似つかわしい笑みを頬に乗せた。
マルセルにはイヤな予感しかしない。
「マール、貴方皆様の写真はもう全て見たのかしら?次のお相手の殿方は?」
「……………見ていません、母上」
見ている余裕などあるものか。見合いと同時進行で姉へのプレゼントも用意するのだ。むしろこっちの方が重要なのだ。国家の転覆計画があろうが、母の下らん欲を満たす児戯の如き見合いがあろうが、優先順位が違う。
だがそれを口にしてはいけない。相手は見定めなくてはならない。
「でしょうねえ。次のお相手はギャロウフ男爵だというのにその普段顔ですもの」
ギャ……、?
マルセルは顔から表情を失くした。
まったくの、無表情。
「ギャロウフ。……ギャロウフ男爵って、イリアン・ギャロウフですか?え、まさか、冗談ですか」
「冗談ではなくあのイリアン・ギャロウフ男爵よ?」
ざわり。
普段は形を潜めているマルセルの魔族の本能が蠢いた。
「……………そうですか……ふ、ふふふ……あの男ですか……ふふ、くくく。ギャロウフ。クク」
うちの息子、壊れちゃった?とニコレッタが思ったのも仕方ない。
他人が見たらそう思う程の禍々しい怒気をいまのマルセルは背負っている。
イリアン・ギャロウフは、頗る美形であるのも名が知られている要因なのだが、主には、僅か10やそこらの頃から「誑しで有名」だったことが挙げられる。男爵という貴族としては平民ギリギリの家柄の出自であるのに、男女身分を問わず、見境なく己の趣味に合う者に声をかける。……だけでなく手も出す。
しかも強引に事に及んでも遊びだから許される、と勘違いしている節があり、身分がない者については「毒牙にかかり泣き寝入りした」という話も時折聞こえてくるような、到底始末の悪い男だ。
(魔族は身分=実力で、強い者には従う、逆らわない、という基本本能がある)
だが、それだけならマルセルがここまで憤怒しているわけがない。
ギャロウフはかつて、手を出そうとしたことがあるのだ。
あろうことか、姉とマルセル、両方に、同時に。
「見合いだろうがなんだろうが、この機会に彼に借りを返すのは構いませんね?母上」
暗い哂いを見せるマルセルは、外見は天使のようなのに、とっても魔族らしい禍々しさを湛えていたのだった。




