第8話 名前呼びの破壊力
名前には、破壊力がある。
いや、正確に言えば、好きな人に名前を呼ばれると、人間の心臓は想像以上に簡単に壊れそうになる。
昨夜、凛音は言った。
好き。
好き……悠真くん……。
俺はあのあと、一睡もできなかった。
寝たふりを続けながら、心の中ではもう何度も起き上がっていた。起き上がって、凛音に「今のもう一回言って」と頼みたくなった。いや、そんなことを言ったら終わる。終わるどころか爆発する。
凛音が。
俺が。
この同居生活が。
全部。
だから俺は動かなかった。動かないまま、凛音が部屋を出ていく気配を聞き、そのあと朝まで天井を見つめていた。
もちろん目は閉じていた。寝たふりの延長で。
しかし、脳内では凛音の声が無限再生されている。
悠真くん。
悠真くん。
悠真くん。
「……名前って、こんなに危険だったのか」
朝。
洗面所の鏡に映った自分は、明らかに寝不足の顔をしていた。
目の下が薄く暗い。
髪もいつもよりまとまらない。
これで凛音に会うのか。
無理だ。
いや、会うしかない。
同じ家に住んでいるのだから。
俺は冷たい水で顔を洗い、無理やり目を覚ました。効果はあまりなかった。むしろ水を浴びたことで、自分が現実から逃げられないことだけがはっきりした。
リビングに入ると、凛音はすでに朝食を用意していた。
白い皿。
トースト。
サラダ。
スクランブルエッグ。
そして、いちごジャム。
昨夜の寝言を思い出してしまい、俺は危うくその場で立ち止まった。
「おはよう」
できるだけ普通の声を出す。
凛音が振り向いた。
「おはよう、高坂くん」
名字だった。
当然だ。
朝の凛音は、いつもの凛音だ。
学校で見せる氷の令嬢ほど冷たくはないが、それでも距離はある。綺麗に整えられた髪。きちんとした制服。乱れのない表情。
昨夜、俺を「悠真くん」と呼んだ人と同一人物とは思えない。
いや、同一人物なのだ。
そこが問題だった。
「……どうかした?」
凛音が怪訝そうにこちらを見る。
「あ、いや。なんでもない」
「顔色が悪い」
「ちょっと眠れなくて」
「また?」
「またって言うなよ」
「最近、寝不足が多いでしょう」
「まあ、いろいろあって」
主に君のせいで。
とは言えない。
凛音は少し考えてから、皿をテーブルに置いた。
「今日は早く寝た方がいいわ」
「そうする」
「寝る前にスマホを見すぎるのはよくない」
「見てない」
「考え事?」
「まあ、そんな感じ」
「悩みがあるなら」
凛音はそこで一度言葉を止めた。
そして、視線を少しだけ外す。
「……同居人としてなら、聞くけれど」
その言い方が、なんだか彼女らしかった。
恋人としてでも、友人としてでもない。
同居人として。
まだその距離からしか踏み込めない。
でも、以前の「ただの同居人」より、少しだけ温度がある。
「ありがとう。でも大丈夫」
「そう」
「氷室さんこそ、眠れた?」
「普通」
「普通か」
「ええ」
言い切った彼女の耳が、ほんの少し赤い。
これは覚えていないのか。
それとも覚えているのか。
判断が難しい。
昨夜の「悠真くん」を本人が覚えているなら、今こうして平然としていられるとは思えない。けれど凛音は、平然としているように見せるのがうまい。
俺はトーストにいちごジャムを塗りながら、つい聞きそうになった。
氷室さん、俺のこと名前で呼んだことある?
だめだ。
そんな質問、怪しすぎる。
「高坂くん」
「ん?」
「ジャム、塗りすぎ」
「え?」
見れば、トーストの半分以上が赤くなっていた。
「……考え事をしてた」
「それは見ればわかる」
「ごめん」
「謝ることではないけれど」
凛音は自分の皿からトーストを一枚取り、俺の皿に置いた。
「交換する?」
「いいの?」
「私は薄く塗るから」
「助かる」
「そのままだと、甘すぎるでしょう」
俺は受け取ったトーストを見つめた。
凛音が俺の好みを気遣ってくれている。
それだけなら、もう慣れ始めていた。
けれど今日は、昨夜の名前呼びが頭に残っているせいで、ひとつひとつの行動が妙に胸に刺さる。
「ありがとう、凛――」
言いかけて、止まった。
凛音がこちらを見る。
俺の背中に冷たい汗が流れた。
「……氷室さん」
「今」
「今?」
「何か言いかけた?」
「言いかけてない」
「言いかけた」
「ジャムって言おうとした」
「私の名前に、ジャム要素があった?」
「……ないな」
「高坂くん」
「はい」
「寝不足で判断力が落ちているわ」
「自覚はある」
凛音は少しだけため息をついた。
けれど怒ってはいなかった。
むしろ、どこか困ったような顔をしている。
「無理しないで」
「うん」
「あと、学校では気をつけて」
「噂?」
「昨日のことがあるから」
「わかってる」
俺たちは朝食を終え、いつものように時間をずらして家を出た。
玄関で、凛音が小さく言う。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
このやり取りにも、少しだけ慣れてきた。
慣れてきたのが怖い。
最初は心臓に悪すぎたのに、今ではないと少し寂しい気がする。
人間の欲は際限がない。
◇
学校では、やはり凛音は“氷室さん”だった。
廊下ですれ違っても、軽く会釈。
教室で遠くに見えても、声はかけない。
昨日の噂のせいか、何人かがこちらをちらちら見ていた。俺はなるべく普通に過ごそうとしたが、佐野にはすぐにバレた。
「高坂、今日さらに眠そうだな」
「気のせい」
「その目で気のせいは無理がある」
「ちょっと考え事をしてただけ」
「恋か?」
「違う」
「早いな否定」
「昨日も聞いただろ」
「昨日より反応が面白いから」
佐野は机に肘をついて、にやにやしている。
「で、氷室さんとは本当に何もないの?」
「何もない」
「昨日、あんなに冷たく否定されて、落ち込んでたくせに」
「落ち込んでない」
「落ち込んでた。購買の焼きそばパン見ながら、世界の終わりみたいな顔してた」
「焼きそばパンが売り切れてたからだ」
「お前、焼きそばパンそこまで好きじゃないだろ」
鋭い。
こういうときの佐野は無駄に鋭い。
俺は話題を変えるために教科書を開いた。
「授業始まるぞ」
「まだ十分ある」
「予習だよ」
「高坂が逃げた」
「逃げてない」
佐野は笑いながらも、それ以上は突っ込んでこなかった。
昼休み。
俺は廊下の自販機に向かった。
財布は忘れていない。
サンドイッチも今日は入っていない。
それはそれで少し寂しい。
いや、何を期待しているんだ俺は。
自販機の前で飲み物を選んでいると、背後に静かな気配がした。
振り返る。
凛音がいた。
周囲には数人の生徒がいる。
だから俺は、いつも通りの距離を保った。
「氷室さん」
「高坂くん」
凛音は手に小さな紙袋を持っていた。
俺はそれを見た瞬間、少しだけ心臓が跳ねる。
まさか。
また作りすぎたのか。
しかし凛音は紙袋を差し出さなかった。
ただ、俺の手元を見て言う。
「カフェオレ?」
「え?」
「今日は甘いものが飲みたいの?」
「まあ、眠いし」
「それ、甘すぎるわ」
「そうかな」
「高坂くんは、甘い飲み物を飲みすぎると午後に眠くなるでしょう」
「……母さん情報?」
「観察」
凛音は言い切った。
言い切ってから、目を見開いた。
俺も固まった。
今、隠さなかった。
母さんではなく、観察と言った。
周囲に生徒がいる場所で。
凛音の耳がじわじわ赤くなる。
「……今のは」
「観察」
「違う」
「言ったけど」
「生活管理上の観察」
「なるほど」
「同居人として」
「学校では秘密だけど」
「あ」
凛音の顔が完全に固まった。
幸い、まわりの生徒は自販機の音や会話でこちらの細かいやり取りまでは聞いていないようだった。
俺は急いで小声になる。
「大丈夫、たぶん聞かれてない」
「……今のは忘れて」
「努力する」
「忘れて」
「はい」
凛音は少しだけ肩を落とした。
そして、自販機に硬貨を入れる。
出てきたのは無糖のミルクティーだった。
「これ」
彼女はそれを俺に差し出した。
「え?」
「眠いなら、こっちの方がいい」
「いや、でも」
「買ってしまったから」
「氷室さんの分じゃないの?」
「私は水を買う」
「じゃあ、お金」
「いらない」
「でも」
「昨日、冷たく言ったお詫び」
その言葉は、とても小さかった。
俺は缶を受け取った。
冷たい。
指先が少し触れた。
ほんの一瞬なのに、凛音が目を伏せる。
「ありがとう」
「別に」
「午後、眠らずに済みそう」
「寝たら、ノートを見せない」
「厳しい」
「自業自得」
「はい」
凛音はそれだけ言って、すぐに歩いていった。
後ろ姿はいつもの氷室凛音。
けれど、手に持った水のペットボトルをなぜか少し強く握っている。
俺はミルクティーを見つめた。
カフェオレではなく、無糖のミルクティー。
俺の好みと体調まで考えて選ばれた飲み物。
この人は、いったいどれだけ俺を見ているのだろう。
そう思うと、胸の奥が落ち着かなくなった。
◇
放課後。
家に帰ると、凛音はリビングで教科書を広げていた。
「ただいま」
「おかえり」
今日は少しだけ返事が早い。
俺は鞄を置き、キッチンに向かった。
「夕飯、今日は俺が作る日だよな」
「ええ」
「何か食べたいものある?」
「高坂くんが作りやすいものでいい」
「そう言われると逆に困る」
「じゃあ、オムライス」
即答だった。
俺は少し驚いて振り返った。
「好きなの?」
「嫌いではない」
「それ、好きなやつの言い方じゃない?」
「嫌いではないだけ」
「わかった。オムライスな」
冷蔵庫を開ける。
卵はある。
玉ねぎ、鶏肉、ケチャップもある。
作れる。
「手伝う?」
凛音が聞いてきた。
「じゃあ、サラダお願いしていい?」
「わかった」
二人でキッチンに立つ。
すっかり慣れてきた光景のはずなのに、今日は妙に意識してしまう。
理由はわかっている。
名前だ。
昨夜の「悠真くん」が、まだ頭から離れない。
「高坂くん」
「ん?」
「玉ねぎ、焦げそう」
「うわ、危ない」
「考え事?」
「ちょっと」
「また?」
「またです」
凛音は小さくため息をついた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「寝不足で包丁を使うのは危険」
「今日はもう包丁使い終わったから」
「火も危険」
「見張ってくれる?」
「仕方ないから」
「助かる」
凛音は俺の隣に立ち、フライパンを覗き込んだ。
距離が近い。
肩が触れそうだ。
同じキッチン。
同じ夕飯。
火加減を一緒に見ているだけ。
それだけなのに、妙に夫婦っぽい。
いや、夫婦っぽいことは禁止だった。
料理は生活に必要だから例外。
たぶん。
「高坂くん」
「はい」
「卵、私が焼いてもいい?」
「いいけど、難しいぞ」
「知ってる」
「やったことある?」
「動画で見た」
「それはやったことあるとは言わない」
「失敗したら、高坂くんが直して」
「責任重大だな」
凛音は真剣に卵を混ぜ始めた。
表情が硬い。
あまりにも真剣なので、俺は横で見ながら笑ってしまう。
「何がおかしいの」
「いや、オムライスの卵にそこまで真剣になる人、初めて見た」
「大切でしょう」
「まあ、大切だけど」
「高坂くんに食べてもらうものだから」
自然に出た言葉だったのだろう。
言った直後、凛音は完全に固まった。
俺も固まった。
フライパンの上で、バターだけが静かに溶けていく。
「……家の食事だから」
凛音が早口で付け足す。
「同居人に出すものとして、失敗したくないという意味」
「うん」
「それ以上の意味は」
「わかってる」
「本当に?」
「本当に」
凛音は疑わしそうに俺を見たあと、フライパンに卵を流し入れた。
じゅっ、と音がする。
卵が広がる。
凛音は慌てて菜箸を動かす。
「待って、早い」
「卵は早いよ」
「聞いてない」
「今言った」
「遅い」
「がんばれ」
「応援ではなく助言が欲しい」
「端が固まる前に寄せて」
「こう?」
「そうそう」
凛音の動きはぎこちない。
でも一生懸命だった。
その姿を見ていると、また好きだと思ってしまう。
冷たいようで、不器用。
不器用だけど、真剣。
真剣すぎて、ときどき可笑しい。
「あ」
卵の端が少し破れた。
凛音の顔が青ざめる。
「失敗した」
「大丈夫。これくらいなら全然」
「だめ」
「だめじゃないって」
「高坂くんのなのに」
また出た。
俺のなのに。
俺はフライパンを少しだけ持ち上げ、破れた部分をケチャップライスの下に隠すように皿へ移した。
「ほら、完成」
「……隠した」
「料理は見せ方も大事」
「ごまかし」
「技術と言ってくれ」
凛音は皿の上のオムライスをじっと見た。
破れた部分はほとんど見えない。
黄色い卵の上に、俺はケチャップで線を引いた。
「何か描く?」
「描く?」
「オムライスって、ケチャップで文字書くだろ」
「書かない」
「そう?」
「子どもっぽい」
「じゃあ、書かないか」
俺がケチャップを置こうとすると、凛音が小さく言った。
「……少しなら」
「書きたいの?」
「高坂くんが書きたいなら」
「俺?」
「そう」
なぜか責任がこちらに来た。
俺は少し考えて、シンプルにハートを書きそうになり、慌ててやめた。
それは夫婦っぽい。
いや、恋人っぽい。
禁止事項に入りそうだ。
代わりに、丸い顔のようなものを描いた。
「何これ」
「くま」
「くま?」
「たぶん」
「高坂くん、絵は苦手?」
「料理に全振りした」
凛音はしばらくオムライスを見つめていた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「変なくま」
その笑顔は、一瞬だった。
でも、俺は見た。
昼間の教室でも、廊下でも、誰にも見せない顔。
家だから見られた顔。
胸の奥が熱くなる。
「……凛音」
気づいたら、口から出ていた。
小さく。
でも、確かに。
凛音が顔を上げた。
俺も、自分が何を言ったのか遅れて理解した。
まずい。
今、名字ではなく名前で呼んだ。
呼んでしまった。
「……今」
凛音の声が震える。
「名前」
「あ、いや」
「呼んだ?」
誤魔化せない。
無理だ。
俺はケチャップを持ったまま固まった。
「ごめん。嫌だったら」
「嫌じゃない」
凛音の返事は、驚くほど早かった。
それから自分の早さに気づいたのか、彼女は一瞬で真っ赤になる。
「……嫌では、ない」
「そっか」
「でも」
「でも?」
「急だったから」
「ごめん」
「謝らなくていい」
凛音は目を伏せた。
指先が、スカートの端ではなく、エプロンの裾をぎゅっと掴んでいる。
「家では」
小さな声。
「家では、その呼び方でも……いい」
俺は息を忘れた。
「いいの?」
「学校ではだめ」
「うん」
「人前でもだめ」
「わかってる」
「二人のときだけ」
「うん」
「あと、急に何度も呼ばないで」
「なんで?」
「心臓に悪いから」
正直すぎる言葉だった。
言った本人が一番驚いている。
凛音は慌てて顔を逸らした。
「今のは」
「忘れる?」
「……忘れなくていい」
その声が、あまりにも小さくて。
俺は、笑うことも茶化すこともできなかった。
「わかった」
俺は頷いた。
「じゃあ、家では凛音って呼ぶ」
凛音は耳まで赤くしたまま、オムライスを見つめた。
「……うん」
その返事は、今まで聞いたどんな「うん」よりも柔らかかった。




