第7話 秘密の関係
「ねえ氷室さん、高坂くんと付き合ってるの?」
その言葉が廊下に落ちた瞬間、俺は思った。
終わった、と。
いや、別に付き合っているわけではない。
むしろ付き合っていない。
同居している。
契約同棲している。
毎朝、凛音が作った朝食を食べている。
たまに卵サンドが“作りすぎ”という名目で俺の鞄に入っている。
夜になると、寝たふり中の俺の部屋に凛音が来ることがある。
停電の日には手を繋いだ。
寝ぼけた凛音が布団に潜り込んできたこともある。
……うん。
付き合っていないという説明は正しいのに、状況だけ並べると、付き合っていない方がおかしい気がしてきた。
俺が一瞬でそこまで考えている間、凛音は隣で固まっていた。
表情はいつもの無表情。
けれど、よく見ると指先がスカートの端を握っている。
たぶん、めちゃくちゃ動揺している。
質問した女子――たしか隣のクラスの三枝さんは、悪気のない顔で凛音を見ていた。
「だって、昨日も話してたし。今日もなんか高坂くん、氷室さんの方見てたでしょ?」
「見てない」
俺は反射的に言った。
三枝さんがにやっと笑う。
「今の反応、早すぎない?」
「早い方が否定として正確だろ」
「そうかなあ」
まずい。
ここで俺が喋れば喋るほど、墓穴を掘る気がする。
凛音はまだ黙っている。
このままでは、沈黙が答えみたいになってしまう。
俺が何か言おうとした瞬間、凛音が口を開いた。
「違うから」
冷たい声だった。
廊下の空気が、少しだけ固くなる。
三枝さんも、一瞬だけ笑顔を止めた。
「え?」
「高坂くんとは、付き合っていないわ」
凛音はまっすぐ前を見たまま言った。
「ただ、忘れ物を渡しただけ。それ以上の関係ではないから」
それ以上の関係ではない。
正しい。
学校ではそう言うしかない。
俺たちは付き合っていない。
同居のことも秘密だ。
だから、凛音の言葉は間違っていない。
間違っていないはずなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「そ、そうなんだ。ごめん、変なこと聞いて」
三枝さんが慌てたように笑った。
「別に」
凛音は短く答える。
その声は、完全に“氷の令嬢”だった。
俺がここ数日で知った、布団を直してくれる凛音でも、サンドイッチを作りすぎる凛音でも、暗闇で袖を掴む凛音でもない。
学校の凛音。
誰にも踏み込ませない凛音。
それは、たぶん彼女が自分を守るための鎧なのだろう。
わかっている。
わかっているのに。
「高坂くん」
凛音がこちらを見た。
目が合う。
ほんの一瞬、彼女の瞳が揺れた気がした。
けれど、すぐに元の無表情に戻る。
「迷惑をかけたわね」
「いや、別に」
「それじゃ」
凛音はそれだけ言って、女子たちと一緒に歩いていった。
俺は廊下に残された。
まわりにいた数人が、気まずそうに視線を逸らす。
佐野が背後から近づいてきて、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「高坂」
「なんだよ」
「今の、心に来るな」
「来てない」
「いや、来てる顔してる」
「してない」
「お前、顔に出るタイプだぞ」
佐野の言葉に、俺は何も返せなかった。
否定されたのがつらいわけじゃない。
いや、少しはつらい。
でもそれ以上に、凛音があんなふうに言わなければならなかったことが、妙に引っかかっていた。
それ以上の関係ではない。
その通りだ。
俺たちは恋人じゃない。
学校では他人に近い。
家では少しだけ距離が近い同居人。
でも、それ以上って何だろう。
俺は、何を期待しているのだろう。
「購買行くか?」
佐野が聞いてきた。
「今日はいい」
「卵サンド?」
「……今日はない」
「なんだ、余らなかったのか」
「うるさい」
佐野は笑った。
俺は笑えなかった。
◇
放課後。
俺はいつもより長く学校に残った。
図書室で適当な本を開いていたが、内容はほとんど頭に入ってこない。
窓の外は薄曇りだった。
雨は降っていない。
でも、夕方の空気は少し湿っている。
中学の図書室で、凛音に本を取った日のことを思い出した。
あの日も雨だった。
彼女は本を受け取って、小さく「ありがとう」と言った。
俺はそれだけで、何日も浮かれていた。
今思えば、単純すぎる。
でも、たぶん人を好きになるときなんて、そんなものなのだろう。
少しの言葉。
少しの笑顔。
自分だけが覚えているような、どうでもいい出来事。
それがいつの間にか、忘れられないものになる。
凛音も、あの日を覚えていた。
夜の独り言で言っていた。
図書室でも、そうだったし。
あのときから、ずっと。
その続きを俺は聞けなかった。
聞いてはいけないと思った。
でも、もし本当にあのときからなら。
俺たちは、ずいぶん長い間すれ違っていたことになる。
「……何やってんだろ、俺」
本を閉じる。
これ以上いても仕方ない。
家に帰ろう。
そう思って立ち上がったとき、スマホが震えた。
画面を見る。
凛音からだった。
『今日の夕食、いらないなら連絡してください』
文面はそっけない。
でも、その下にすぐ次のメッセージが来た。
『作りすぎると困るので』
俺はしばらく画面を見つめて、それから小さく笑った。
作りすぎると困る。
つまり、俺の分を作るつもりでいてくれる。
それだけで、さっきまで胸に引っかかっていたものが少し軽くなった。
『食べる。少し遅くなる。ごめん』
送る。
すぐ既読がついた。
返信は少し間を置いてから来た。
『わかりました』
さらに数秒。
『冷めないようにしておきます』
俺はスマホを握ったまま、図書室で一人にやけそうになった。
危ない。
ここは学校だ。
誰かに見られたら、また噂が増える。
でも、もう完全に平静ではいられなかった。
◇
マンションに戻ったのは、いつもより三十分ほど遅い時間だった。
玄関を開ける。
「ただいま」
リビングから、少し間を置いて声が返ってきた。
「……おかえり」
いつもより声が小さい。
靴を脱いでリビングに入ると、テーブルには夕食が並んでいた。
鮭のホイル焼き。
味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
白いご飯。
湯気が立っている。
本当に冷めないようにしてくれていたらしい。
「ごめん、遅くなった」
「別に」
凛音はキッチンの方を向いたまま答えた。
いつもの無表情。
けれど、どこかぎこちない。
俺は鞄を置いて、椅子に座った。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べる。
美味しい。
でも、いつもより少し味が薄い気がした。
たぶん俺の気分の問題かもしれない。
「おいしい」
そう言うと、凛音の肩がわずかに動いた。
「……そう」
「うん」
「無理に言わなくていいわ」
「無理じゃない」
「今日、気を遣っているでしょう」
凛音がこちらを見た。
その目は、学校で見た冷たい目ではなかった。
不安そうな目だった。
俺は箸を置いた。
「気を遣ってるっていうか、どう話していいか迷ってる」
「……今日のこと?」
「うん」
凛音は視線を落とす。
リビングに沈黙が落ちた。
食器の湯気だけが、ゆっくり揺れている。
「ごめんなさい」
凛音が言った。
俺は少し驚いた。
「なんで氷室さんが謝るんだよ」
「あんな言い方をしたから」
「あれは仕方ないだろ。学校で聞かれたら、そう言うしかない」
「でも」
凛音は膝の上で手を握っていた。
「それ以上の関係ではない、は……言いすぎたと思う」
俺は返事に迷った。
言いすぎた。
彼女はそう思ってくれていた。
それだけで、胸の奥が少し温かくなる。
「間違ってはないよ」
俺は言った。
「俺たち、付き合ってるわけじゃないし」
「そうね」
「同居してることは秘密だし」
「ええ」
「だから、氷室さんは正しいことを言った」
「……正しいことなら、傷つけてもいいの?」
その言葉に、俺は黙った。
凛音は自分で言って、少し驚いたような顔をした。
まるで、自分の本音が勝手に出てしまったみたいに。
「私」
凛音はゆっくりと言葉を選んだ。
「人前だと、うまく話せないの」
「うん」
「冷たくするつもりはなくても、そうなる」
「知ってる」
「知ってる?」
「なんとなく」
夜に全部聞いているから、とは言えない。
だから俺は曖昧に笑った。
「氷室さんが、別に本気で冷たい人じゃないってことくらいは、わかってきた」
凛音が目を伏せた。
「……そう」
「財布届けてくれたし、サンドイッチ作ってくれたし、停電のときもちゃんと頼ってくれたし」
「停電の話は忘れて」
「努力する」
「忘れて」
「はい」
いつものやり取り。
少しだけ空気が緩む。
凛音も、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「俺も悪かった」
「高坂くんが?」
「学校で、ちょっと距離感がうまく取れなかった。見てないって言ったけど、たぶん見てた」
「……私を?」
「まあ」
凛音の顔が、わかりやすく赤くなった。
「なぜ」
「気になるから」
「気になる」
「同居人として」
「同居人」
「あと、普通に」
俺はそこで言葉を止めた。
普通に、何だ。
好きだから。
そう言いそうになった。
言ってはいけない。
好きにならないで。
その言葉が、まだ俺たちの真ん中にある。
凛音はじっと俺を見ていた。
続きを待っているようだった。
俺は味噌汁に手を伸ばす。
「普通に、ちゃんと学校でやれてるかなって」
「子ども扱い?」
「違う違う。心配って意味」
「それも子ども扱いに近い」
「難しいな」
「難しいわ」
凛音はそう言いながら、少しだけ口元を緩めた。
本当に少しだけ。
でも、俺にはわかった。
学校の冷たい否定でできた小さな溝が、少し埋まった気がした。
食事を終え、俺が皿を洗い、凛音が拭く。
もう自然になり始めている役割。
隣に立つ距離も、最初より近い。
でも、手は触れない。
触れそうで触れない。
その距離が、今の俺たちらしい。
「高坂くん」
「ん?」
「明日から、学校ではもう少し気をつける」
「俺も」
「でも」
凛音が布巾を持つ手を止めた。
「家では……」
俺は横を見る。
凛音はシンクの方を見たまま、小さな声で続けた。
「家では、あまり他人みたいにしなくてもいいと思う」
その一言で、俺の胸が鳴った。
あまり他人みたいにしなくてもいい。
それは告白ではない。
恋人宣言でもない。
でも、凛音にとってはかなり大きな一歩のはずだった。
「うん」
俺は頷いた。
「俺も、そう思う」
凛音は返事をしなかった。
代わりに、拭き終えた皿を棚へしまう。
その横顔は、照れているようにも、ほっとしているようにも見えた。
◇
その夜。
俺は自分の部屋で、いつもより早く布団に入った。
今日は凛音は来ないだろう。
学校であれだけ気まずいことがあり、家で話し合いもした。
さすがに夜中に部屋へ来る余裕はないはずだ。
俺も、今日はちゃんと寝たい。
そう思っていた。
だが、人間の予想はだいたい外れる。
深夜。
また、廊下の床が小さく鳴った。
俺は目を閉じたまま、息を整える。
来た。
ドアが少しだけ開く。
凛音の足音。
ベッドの横で止まる気配。
今日は何を言うのだろう。
俺は寝たふりを続けた。
凛音はしばらく何も言わなかった。
ただ、そこにいる。
やがて、彼女はとても小さな声で呟いた。
「……今日、冷たく言ってごめんね」
俺は動かなかった。
「本当は、違うの」
凛音の声が震えていた。
「それ以上の関係じゃない、なんて……思ってない」
心臓が強く跳ねる。
凛音はベッドのそばにしゃがんだようだった。
「でも、なんて言えばいいのかわからない」
布団の端が、ほんの少しだけ整えられる。
「同居人なのに、同居人じゃ足りなくて」
息が詰まりそうだった。
「友達って言うには、近すぎて」
凛音の声は、夜にだけほどける。
俺が聞いてはいけない本音を、また少しずつこぼしていく。
「恋人じゃないのに、恋人みたいに思ってしまうのは……私だけなのかな」
違う。
俺もだ。
そう言いたかった。
今すぐ目を開けて、違うと伝えたかった。
でも、それをしたらこの夜の秘密は終わる。
凛音の逃げ場を奪ってしまう気がした。
だから俺は、動けなかった。
凛音は長い沈黙のあと、小さく笑った。
少しだけ寂しそうな笑い方だった。
「……寝てる高坂くんにしか言えないなんて、だめね」
彼女は立ち上がろうとした。
そのとき。
俺が寝返りを打った。
完全な事故だった。
少しだけ体が強張りすぎて、布団の中で肩が動いてしまったのだ。
凛音が息を呑む。
しまった。
俺は慌てて寝たふりを続ける。
数秒の沈黙。
凛音は、まだそこにいる。
やがて、彼女はほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「……好き」
俺の呼吸が止まりそうになる。
凛音は続けた。
「好き……悠真くん……」
名字ではない。
学校の呼び方でも、契約上の距離でもない。
初めて聞く、俺の名前。
夜の部屋で、凛音がそう呼んだ。
俺は目を閉じたまま、もう眠れるはずがなかった。




